序.私たちは羊なのか

・ヨハネによる福音書の10章を、これまで3回にわたって聴いて参りました。ここまで一貫して語られていることは、主イエスが良い羊飼いであって、羊飼いと羊とは、互いに声を知っていて、聞き分けることが出来る関係にあるということでありました。

・けれども、この主イエスの話を聞いていたのは、ファリサイ派を中心とするユダヤ人たちでありました。彼らは羊飼いである主イエスの羊ではなくて、ここでは盗人・強盗や、雇い人に喩えられていて、主イエスに従うよりも、主イエスに疑問を感じていた人たちであります。

・主イエスが羊と考えられているのは、これまでにもお話しましたように、飼う者のいないイスラエルの群衆でありますし、前回学んだ16節以下の箇所では、「囲いに入っていないほかの羊」即ち、異邦人をも視野に入れておられました。

・では、これらの主イエスの話を聞かされている私たちは、一体、羊なのでしょうか。主イエスの視野には異邦人も含まれているということでは、私たちも囲いの中に入れてもらえる可能性はあると言えますし、これまで3回の説教でも、主イエスが私たちを御自分の羊と見做して下さるとして、その言葉を聴いて参りました。

・しかし、私たちは羊として扱ってもらえると安心していてよいのでしょうか。今日の箇所では、ユダヤ人たちが主イエスに、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」24節)と詰め寄っています。それに対して主イエスは彼らのことを「わたしの羊ではない」26節)と断定しておられます。けれども、このユダヤ人たちは、私たちとは全然違う、不信仰な連中だと、切り捨てることが出来るのでしょうか。むしろ、私たちと似たところがあるのではないでしょうか。私たちは果たして羊飼いである主イエスの声を聞き分ける羊と言えるのでしょうか。今日は、そのことを問いつつ、2230節までの箇所から、主の御言葉を聴いて行きたいと思います。

1.神殿奉献記念祭

・まず、22節には、そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行なわれた。冬であった、と書かれています。「神殿奉献記念祭」というのは、耳慣れないと思いますが、口語訳聖書では「宮きよめの祭」とされていました。これはユダヤ人が現在でも行なっている祭で「ハヌカー」と呼ばれています。

・この祭の起源は、紀元前165年に遡ります。当時、パレスチナ地方はギリシャの支配下にありました。最初にペルシャを滅ぼしてこの地方を支配したアレクサンドロス大王は、宗教的に寛大であったのですが、紀元前160年代にパレスチナ地方を支配したアンティオコス4世という人は、自分のことを「エピファネス」つまり「神の顕現」と称して、エルサレムの神殿にギリシャの神であるゼウスを祀って、ユダヤ人にもそれを礼拝するよう強要し、律法を守ることも禁止しました。

・それに対して抵抗して立ち上がったのが、マタティアとその一族で、これをマカベヤ戦争と言いますが、開戦3年目にエルサレム神殿を奪還することが出来て、神殿を清めて再奉献したのであります。そのことを記念する祭が「神殿奉献記念祭」であります。

この祭が行なわれるのは、11月末から12月初めにかけてで、7章あたりに書かれていた仮庵祭から約3ヵ月後のことであります。主イエスの時代は、ユダヤはローマの支配下にあったわけで、そこから何とか脱したいというのがユダヤ人の密かな願いであったのでありますから、この祭りは国粋的な意味でも大切な祭りであったと思われます。そうしたことが、今日の箇所の背景にあるということであります。

2.もしメシアなら

・さて、主イエスが神殿の境内で「ソロモンの回廊」を歩いておられると、ユダヤ人たちが主イエスを取り囲みました。「ソロモンの回廊」というのは、神殿の東側にあった回廊で、人々が集まって教えを聞くことが多い場所であったようであります。主イエスも受難週に神殿で連日議論をされたことが他の福音書に記されていますが、おそらく「ソロモンの回廊」でなさったのではないかと考えられますし、後に、ペトロとヨハネが説教をしたのも、「ソロモンの回廊」であったと、使徒言行録に記されています。

・ここでユダヤ人というのは、やはりファリサイ派の人たちを中心とするエルサレムの指導者層の人たちであります。彼らは「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(24)と言います。このユダヤ人たちの言葉には、主イエスに対して好意的な面と、敵意に満ちた面との二通りの意味があると考えられます。1921節には、ユダヤ人の間に対立があったということが書かれていて、主イエスに敵対する人ばかりでなく、主イエスがメシアではないかと期待する人たちもいたので、そういう両面の人たちの思惑がこの言葉に反映していると見られるのであります。一方の人たちは、言葉通り、主イエスがメシアなのかどうか、本当に気をもんでいるのではないかと考えられます。ユダヤ人たちは、かつてマタティアという人が英雄的な働きをして神殿を再奉献したように、メシアが現れて、ローマの支配のもとにある現状を打破してほしいと願っていました。主イエスが、そういう期待に応えてくれるのかどうか、気をもたせず、はっきりして欲しい、と言うのであります。けれども、彼らの期待がどれほど大きかったとしても、それが信仰につながるわけではありません。自分たちが思い描くメシア像に、主イエスを従わせたいとしているだけであります。

・一方、主イエスを完全に敵視する人たちは、何とか主イエスを陥れて、逮捕する口実を見つけようと考えていました。もし、主イエスが御自分のことをメシアだと明白に発言されるならば、それは神を冒涜することになるとして、直ちに訴えることが出来ると考えて、「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と迫っているとみられるのであります。彼らはメシアが現れると困るのであります。自分たちの立場がなくなるのであります。彼らは自分たちの権威で本物のメシアと、そうでないメシアを裁くつもりで、本物のメシアを排斥してしまっているのであります。

・この両面のユダヤ人の姿は、私たちの姿でもあります。私たちにも主イエスに対して好意的に期待する面と、主イエスに敵対的で退けようとする面があります。私たちは、一方では主イエスに様々な期待を寄せます。身勝手な期待であります。自分たちの問題を解決してくれるメシアとしての期待を抱くのであります。ユダヤの民衆がそうでありました。病気を癒してほしい、生活を豊かにしてほしい、政治的な自由を獲得したい、理想的な王を持ちたい、という期待を抱きました。私たちも、主イエスがメシアなら、現実に困っている様々な問題を、早く解決してほしい。「いつまで、私たちに気をもませるのか。はっきりさせてほしい」と叫びたく思っているのであります。他方では、主イエスが私たちの生活に、あまり立ち入ってほしくないのであります。自分に必要な範囲でだけ関わるのはよいけれど、主イエスによって生活が支配されたくないのであります。自分を支配するメシアは排除してしまいたいのであります。自分が支配者でありたいのであります。これらのどちらも、本物のメシアに対する態度としては相応しくありません。どちらも、良い羊飼いの羊とはなり得ないのであります。

3.あなたたちは信じない

・ユダヤ人たちが苛立ちながら、「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と言ったのに対して、主イエスは25節で、こう答えられました。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。」

・ここで「わたしは言った」とおっしゃっているのには、二つの意味があると思われます。一つは、言葉で言われたことであり、今一つは、行なわれた業を通して示されたことであります。

・主イエスは、あからさまに「私はメシアである」とは言われませんでした。むしろ、弟子たちが主イエスをメシアと公言することを止められました(ルカ9:21)。それは、人々に誤った期待を抱かせるからであります。しかし、この福音書の中でも、主イエスは御自分が神のもとから来られたことを何度も述べておられますし、「わたしは世の光である」とか「わたしは良い羊飼いである」という言い方は、主イエスがメシアであることを察しさせるに十分なお言葉でありました。

・また、主イエスは、言葉だけでなく業を行なわれました。この福音書でも、ベトザタの池で、三十八年も病気で苦しんでいた人を癒されたこと、五千人の人々を満腹させられたこと、生まれつき目の見えない人の目を開かれたことが記されています。それらは、主イエスが神から遣わされたメシアであることを証ししています。

・しかし、2526節で主イエスが「あなたたちは信じない」と言われるように、ユダヤ人たちは主イエスの言葉も業も信じないのであります。目を開かれた人自身が、「目の見えなかったわたしが、今は見える」(9:25)とはっきり証言しているのに、ユダヤ人たちはそれを受け入れることが出来ずに、彼を会堂から追い出してしまいました。彼らは自分たちの凝り固まったメシア像の故に、主イエスをどうしても受け入れることが出来ないのであります。

・このユダヤ人の姿はまた、私たちの姿でもあります。私たちも、自分に都合のよい、勝手に作り上げたメシア像によって、主イエスの言葉も業も受け入れられなくなってしまい、本当のメシアを信じることが出来なくなってしまうのであります。私たちは教会に来て、聖書に記された主イエスの言葉も業も聞いているのであります。そして自分なりに主イエスを受け入れているつもりであるかもしれません。しかし、主イエスとの間に人格的な交わりがあるでしょうか。真実な祈りがあるでしょうか。主イエスの御心に従っているでしょうか。自分の考えや感情に従っていて、自分に都合の悪いことは、聞こうとしていないということはないでしょうか。私たちもユダヤ人と同じように、主イエスから「あなたたちは信じない」と言われるのではないでしょうか。

4.羊は主の声を聞き分ける

26節でユダヤ人たちを「あなたたちは信じない」と断じられた主イエスは、その理由を、「わたしの羊ではないからである」と言っておられます。主イエスを信じるかどうかは、主イエスの羊であるかどうかにかかっている、ということであります。続いて27節では、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」と言っておられます。このことは既に、3節から5節の所でも、14節でもおっしゃっていました。主イエスの羊であれば、主イエスの声を聞き分けて、羊飼いである主イエスに従って行くが、主イエスの羊でない者は、主の声を聞き分けることが出来ず、主イエスに従って行かないのであります。27節では、「わたしは彼らを知っており」とあって、主イエスが羊たちを知っておられることの方だけが強調されていますが、14節では、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と、お互いに知っていると言われています。

・では、そのような互いに知り合える関係にどうしてなり得るのか、どうすれば、羊飼いの声を聞き分ける羊になることが出来るのか、ということが問題であります。羊は羊飼いの声を聞き分けるために、特別な訓練が必要なのでしょうか。――先週の月曜日に、教会修養会を開きましたが、その主題は「御言葉を聞き分ける」でありました。福音書のある箇所を読んで話合いながら、そこから御言葉を聴き取るワークショップをいたしました。これは、御言葉を聴き取るための一種の訓練であります。しかし、こういう訓練を積めば、羊飼いの声を聞き分けることが出来るのかというと、そうではありません。信仰がなければ、いくら訓練しても、聞き分けることが出来ませんし、たとえ信仰者であっても、聖霊の働きがなければ、ただ訓練だけでは、主イエスの言葉を聞き分けることは出来ないのであります。――主の言葉を聞き分けられるかどうかは、羊飼いである主が私たちを選んで、羊にして下さるかどうかにかかっているのであります。

・主イエスはユダヤ人たちについて、「あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」と、断定的に言われました。彼らは選びから漏れているということであります。現に彼らは、この後、主イエスを打ち殺そうとして、石を取り上げたことが31節に書かれています。そしてついには、主イエスを十字架にまで追いやるのであります。――先ほど、私たちはここに登場するユダヤ人の姿に似ているということを見ました。それならば、私たちは羊として選ばれてはいないので、主イエスの羊にはなり得ないということなのでしょうか。私たちもユダヤ人と同じように、結局は主イエスに向かって石を投げざるを得ない者なのでしょうか。確かに私たちは、そのような者であることを認めざるを得ません。主イエスは、ユダヤ人と同じように私たちにも「わたしの羊ではない」とおっしゃるのではないでしょうか。

・しかし、そのような私たちに、主イエスはなぜ、今日、この箇所をもって私たちに語りかけておられるのでしょうか。それは、主イエスが私たちのような者をも、御自分の羊にしようと招いておられるからであります。主は御自分の羊のことを、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」とおっしゃいます。初めから自分の羊にする気がない者に、こんなことを話されないでしょう。主はこのお言葉をもって、今日、私たちを羊にしようとしておられるのであります。私たちが努力して羊になるのではありません。私たちが羊飼いの声を聞き分ける能力を身につけて、羊になるのではありません。主イエスが私たちを羊にしようとして下さっているのです。その主イエスの御心を、聖霊の導きによって受け止める時に、私たちは主イエスの羊になるのであります。

5.決して滅びず

・主イエスは更に28節でこう言われます。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」――これと同じ主旨のことを、前に639,40節では、父なる神さまの御心として、おっしゃっていました。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心とは、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(6:39,40)――神さまは、私たちが一人も失われないことを望んでおられるのであります。そのために主イエスを、お遣わし下さったのです。そして皆が、決して滅びることなく、主イエスの羊になって、永遠の命を得ること、そして終わりの日には復活することを望んでおられるのです。

・私たちは羊飼いである主イエスのもとから離れて、勝手に囲いの外へ迷い出してしまう羊であります。あるいは、10章の初めで言われていた盗人や強盗によって盗み出されるかもしれない弱い羊であります。しかし、父なる神さまから遣わされた羊飼いである主イエスは、「だれもわたしの手から奪うことはできない」とおっしゃって下さるのであります。それは主イエスが、私たちのために、自分の身を捨てて十字架に架かって下さるお方であるからであります。そして御自身が死の墓より復活して下さって、私たちのために、「永遠の命を与える」と保証して下さるのであります。

主イエスは更に29節で、「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」と言われます。――「わたしの父がわたしにくださったもの」とは、主イエスの羊とされる私たちのことであります。その私たちのことを「すべてのものより偉大である」とおっしゃるのであります。これは余りにももったいない言葉なので、昔から、これは父なる神様のことを言っておられるのだと解釈されたり、主イエスが持っておられる力のことだと考えられることもありました。でも、主イエスがおっしゃったのは、文脈からみると、やはり「わたしの羊」とおっしゃる私たちのことであります。羊飼いである主イエスが、私たちのことを、かけがえのない宝として、「すべてのものより偉大である」と思っていて下さるということであります。そして、その大切な私たちを「だれも父の手から奪うことは出来ない」と言って下さるのであります。

最後に、「わたしと父とは一つである」と言われます。これは、私たち羊を守ることにおいて、御自分の手と父なる神の手は一つである、ということであります。父なる神と主イエスが一体となって私たちを救いに導いて下さる、ということです。このように、私たちの救いは、父と子によって保証されているのであります。

結.真の神殿奉献祭への招き

・このことを言われたのは、神殿奉献祭が行われている時でありました。神殿奉献祭は、エルサレム神殿がギリシャの神を祀る場所にされていたのを奪還して、再び真の神様を礼拝する場所として奉献したことを記念する祭でありました。

・しかし、その神殿もユダヤ人の驕りと不信仰によって汚されていました。もう一度、主イエスの血によって清められなければなりませんでした。そして、羊のために血を流し給う羊飼いである主イエス・キリストによって、真の礼拝が回復されたのであります。私たちは、今日も、新しい本当の神殿奉献祭の礼拝に招かれているのであります。主イエス・キリストを私たちの羊飼いと仰ぎ、その御言葉を聞き分け、聞き従う礼拝こそ、真の礼拝であります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・羊飼いなる主イエス・キリストの父なる神様!

・今日も、私たちのような者をも羊として慈しんで下さり、あらゆる狼の攻撃からも奪われることのないよう、十字架の愛をもって守って下さることを覚えて、感謝いたします。

・どうか、いつも羊飼いなる主の声を聞き分け、従って行く羊とならせて下さい。どうか、滅びることなく、永遠の命に生きる者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年5月24日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書10:22−30
 説教題:「決して滅びず」
          説教リストに戻る