序.羊の囲いを巡って

・先週は、主イエスが「わたしは良い羊飼いである」と言って下さる御言葉を聴きました。そこでは、聴く者は羊飼いである主イエスに属する一匹の羊であることが前提とされていました。(少なくとも、そういう前提で聴きました。)そして、良い羊飼いである主イエスは、自分の羊のために命を捨てるという、驚くべき恵みが語られていたのであります。

・それに続いて今日の箇所の16節では、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」と言っておられます。先週の話は、囲いの中の羊の話であったことが分かります。しかし、主イエスの関心は囲いの中の羊に留まらず、まだ囲いに入っていないほかの羊にも向けられているのであります。私たちは囲いの中にいる羊のつもりで、主イエスの話を聞いて来ました。しかし、単純に私たちは囲いの中にいる羊として聞いていてよいのでしょうか。

・ところで、この話を聞いていたのは、ファリサイ派の人々でありました。そして、10章の初めからここまでの中では、門を通らないで入って来る盗人や強盗の喩えが語られましたし、自分の羊を持たない雇い人のことも語られていました。これらは、暗にファリサイ派の人々のことを指して言っておられることは明らかであります。彼らは明らかに、主イエスの羊とは考えられません。

・では、ここで「羊」とはどういう人たちを喩えているのか、ということが問題となります。先週の説教の中で、主イエスは当時のイスラエルの群衆を、飼い主のいない羊のようだと見ておられたというマタイ福音書(936)の記述に触れました。そのことからすると、ここで「羊」とは、イスラエルの群衆であり、ファリサイ派の人々は、彼らイスラエルの群衆を敵から守らない雇い人、または、彼らを食い物にする盗人や強盗と解釈することで、一応、すっきりするのであります。

・しかし、主イエスのお話というのは、そのようにすっきり仕分けただけでは、聴いたことにならないのであります。私たち自身が、そのどちらなのかということが問題であります。

・私たちはイスラエルの群衆と同じように、飼い主のいない羊であり、主イエスが私たちをそのように見ていて下さるということは、有難いことであります。しかし、この話が、ファリサイ派の人々に向けて語られたのであれば、私たちにもファリサイ派の人たちと同じところがあると指摘されているというように受け取らなければ、主イエスの話の肝心な部分を聞き落とすことになります。私たちは決して、柔和で従順な羊なんかではなくて、むしろ、自分のことしか考えない無責任な雇い人であったり、キリストという門を通らないで囲いに入ろうとする盗人や強盗であったり、場合によっては、羊飼いである主イエスと敵対する狼であったりいたします。そのことを覚えながら、この話を聴くときに、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃることが、単に弱い羊である私たちを守って下さるということではなくて、私たち自身が羊や羊飼いの命を奪おうとする者であり、そのような私たちのためにこそ命を捨てて下さることであることが、深く分かって来るのであります。ですから、私たちが単純に囲いの中の羊であるとの前提で主イエスの話を聞くのは適切ではありませんし、私たちが囲いの中にいるのかどうかということは、決して自明のことではないのであります。

・では一体、囲いとは何を意味するのでしょうか。囲いの中の羊だけが救いに与ることが出来るとすれば、どうすれば、囲いの中に入ることが出来るのでしょうか。――今日は、16節の主イエスのお言葉を巡って、そのような問いを持ちながら、16節以下の御言葉を聴いて参りたいと思います。

1.囲いの外の羊をも

・さて、今日の箇所では、囲いの外にいる羊のことが語られます。この「囲い」とは何を意味するのでしょうか。旧約聖書の伝統からすれば、これは神に選び分かたれたイスラエルの民という囲いであります。そうであれば、「囲いに入っていないほかの羊」というのは、異邦人のことを指しています。主イエスが異邦人の救いについて関心を持っておられたことについては、思い当たることがいくつかあります。一つは、ヨハネ福音書の4章で聞いたサマリアの女のことであります。サマリア地方では異邦人との混血が行われ、偶像礼拝が行われるようになったことで、ユダヤ人はサマリア人を囲いの外の人たちと考えて差別していました。しかし、主イエスはそのサマリアを訪れられ、シカルの井戸で罪ある女に「永遠の命に至る水」の福音を語られて、信仰へと導かれました。また、主イエスがティルスとシドンの地方に行かれたとき、娘の病気のことで憐れみを求めた異邦人のカナンの女の謙遜な信仰に応えて、娘の病を癒されました(マタイ152128)。このほかにも、主イエスの視野には、異邦人が入っていたことを思わせる記事がいくつかあります。

・ファリサイ派の人たちは、ユダヤ人の囲いに拘る人たちであります。主イエスは今、そのようなファリサイ派の人たちに向かって、改めて、救いが異邦人にも向けられることを宣言されたのであります。そして、ご承知のように、主イエスは復活された後、弟子たちに、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝える」ように命じられました。こうして、主イエスによって、救いの対象は全世界に広げられることになったのであります。これは私たち異邦人にとって、誠に有難いことでありました。私たちもまた、主イエスという羊飼いの囲いの中に加えていただくことが出来たのであります。

・しかし、主イエスが「ほかの羊をも導かなければならない」と言われたのは、ユダヤ人という枠が乗り越えられたというだけの意味ではありません。今や、世界中に主イエスを羊飼いとする囲い、すなわち教会が建てられていて、これが新しいイスラエルの民と理解されるわけでありますが、主イエスは、その教会という囲いの外の羊をも視野に入れておられるということであります。信仰をもってクリスチャンになった人を囲いの中の羊と見るならば、未信者の方々は「囲いの外の羊」であります。主イエスが、そのような「囲いの外の羊」をも導かなければならないと考えておられるのであれば、私たちは自分が囲いの中に入れられたことで満足していてはならないのであります。私たちもまた、未だ囲いの外にいる羊のことを、主イエスと一緒に考えるのでなければ、囲いの中に入れられている者に相応しくないのであります。16節の中程で、「その羊もわたしの声を聞き分ける」と言っておられます。羊が羊飼いの声を聞き分けるということは、3節でも言われていました。また14節では、「わたしは良い羊飼いである」と言われた後、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」とおっしゃっています。この「知っている」という言葉には、「愛する」とか「信じる」という意味が含まれているということを、先週お話しました。つまり主イエスを羊飼いとする羊は、主イエスのお心と一つになっているということであります。主イエスが「囲いの外の羊をも導かなければならない」と考えておられるのであれば、私たちも囲いの外の羊が導かれることに、心が向いていないとおかしいということであります。私たちは自分の家族や友人や周囲の人々が囲いの中に導かれるために、どれだけ祈り、どれだけ心を用いていることでしょうか。

・そういうように考えますと、私たちは本当に囲いの中にいるのだろうか、ということを考えてみなければなりません。囲いの中と外の区別が、洗礼を受けたかどうかという形式だけではなくて、本当に生きた信仰をもっているかどうか、羊飼いである主イエスの声を聞き分けられる羊かどうかという区別だと考えると、私たち自身が、果たして囲いの中にいると安心してよいのか、いつの間にか、囲いの外に飛び出してしまっている恐れさえあるわけであります。私たちは、「お前は本当に羊飼いである主イエスの声を聞き分けることが出来るのか」と問われるならば、些か心もとないのであります。「主イエスと心が一つになるほどに、主をよく知っているのか」と問われるならば、「いえ、知らないことが一杯です。主を愛することも、主を信じることも、いい加減で、主を裏切ることの方が多い者です」と言わざるを得ないのではないでしょうか。私たちは囲いの中に入れてもらえるような羊ではないことを認めざるを得ません。

・しかし、主イエスは、「その羊をも導かなければならない」とおっしゃるのであります。これは「必ずその羊を導くことになっている」と訳してもよいほどの、主イエスの強い御意志を表わすお言葉であります。囲いから漏れそうになっている羊だけでなく、明らかに囲いの外にいる羊をも、導こうとしておられるのであります。

2.一つの群になる

・更に、主イエスは16節の後半では、「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群になる」ともおっしゃいます。19節以下に書かれているように、現にこの時に主イエスの話を聞いている者たちの間に対立がありました。主イエスを認める人と認めない人がいたのであります。その後の2000年の教会の歴史の中には、絶えず分裂がありました。多くの教派に分かれているのが現実であります。一つの教会の信者たち中でも、いがみ合いがあります。全く情けない現状があります。主イエスはそのような現実を見ておられない、或いは見通しておられない、ということでしょうか。そうではありません。ここで主イエスは「一人の羊飼いに導かれ」と言っておられます。皆が仲良くして一つの群になるのではありません。皆の考えや気持ちが一つになって一つの群になるのではありません。羊飼いが一人だから、一つの群になるのであります。

・パウロはガラテヤの信徒への手紙の326節以下で、こう言っております。

 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。         (ガラテヤ32628

 一人一人がイエス・キリストに結びついていることで一つの群になるのであります。一人一人がイエス・キリストに結びついていないで、表面的に和気藹々に見えても、或いは一つの目的に向かって協力して何事かをしているように見えても、それは本当の「一つの群」ではありません。

・私たちが礼拝ごとに告白している「使徒信条」の中で、「わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会を信じます」と言っております。「聖なる公同の教会」というのは、キリストによって結ばれた一つの群のことであります。目に見える形では、決して一つの群に見えていません。多くの分裂があります。しかし、イエス・キリストという一人のお方を信じている者たちの群れであるが故に、一つの群なのであります。「聖なる公同の教会」というのは、信じるべきものであります。しかし、非現実的なものではなくて、キリストにあって現実に一つの教会なのであります。

・では、信者と未信者の間の区別とか、正統と異端の区別というのは、無視すべきことなのでしょうか。様々な囲いというものは人間が作り出した区別に過ぎないものであって、不必要なものなのでしょうか。主イエスは決してそんなことを言っておられません。10章の1節では、「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者」があることを警告されていますし、7節では、「わたしは羊の門である」とおっしゃって、この門から出入りすることによってのみ救われることを述べられたのであります。だから、囲いによって内と外が区別されていることは大切なのであります。どこからでも入れるようでは困るのであります。

・今、日本基督教団で大きな問題になっているのが、聖餐式に信者でない人も与らせるべきであるという考えを持つ人たちがいることであります。彼らは、陪餐を信者だけに限るのは差別ではないか、と主張するのであります。しかし、パンとぶどう酒によって主イエスの現臨と十字架の贖いを覚えるのは、信仰によってであって、信仰を持っていなければ、意味のないことであります。

・教会は何によってこの世と区別されているのか、人間の集団とどこが違うのかということは、非常に大切なことであります。キリスト教会では聖書があらゆる判断の規範とされます。そこに神の御心が込められていると信じているからであります。もし、聖書以外の人間の知恵が重視されて、聖書が読まれなくなると、途端に信仰がおかしくなって、異端的な教会になってしまうのであります。このように、囲いは必要なのであります。主イエスも囲いを取り除けとおっしゃっているのではありません。

・主イエスがここでおっしゃっていることは、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」ということであります。これは、囲いを撤廃するということではなくて、神が設けられる囲いは厳然とあるのであります。そして主イエスはその囲いの外にいる羊を、御自分で囲いの中に導かなくてはならない、とおっしゃっているのであります。弟子たちや誰かが、外の羊を主イエスの所に連れてくるというのではないのであります。主御自身が、外の羊を囲いの中へ導こうと決心なさっているのであります。それは、只ならぬ決心であります。そのことが17,18節に述べられています。

3.捨てる力、受ける力

・まず17節で、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる」と言われます。これは15節までに述べられたことの続きであります。主は羊のために命を捨てる決心をしておられるのであります。十字架の死について述べられているのであります。それが、囲いの外の羊をも導くことになるのであります。主が命を捨てられるのは、決して、周囲の状況から止むを得ず向かわねばならない道なのではありません。15節には「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っている」とお語りになっていましたが、そのような父なる神との緊密な関係の中で、自由な決断として、命を捨てられるのであります。

・そしてそれは、「再び受けるため」だと言われます。これは復活のことを言っておられるのであります。復活の主イエス・キリストのもとに、一つの群である教会が生まれることを信じておられるのであります。

18節では、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」と言われました。この後半の訳は、口語訳に比べて弱くなっています。この訳では「できる」という訳し方をしておりますが、原文には「力」とか「権威」と訳せる言葉が入っています。口語訳では、「わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある」と訳されていました。普通、命を捨てるというのは、病気や止むを得ない状況に追い込まれてであります。しかし、主イエスは誰からも命を奪い取られることのないお方であります。その命をお捨てになるのは、誰にも冒されない権威と力があるからであり、再び命を受ける力があるからであります。

18節の終わりには、「これは、わたしが父から受けた掟である」と述べておられます。「掟」というのは、神様の「定め」ということであります。「定め」と言っても、運命のようなものではありません。神様の愛から出た御計画、御意志であります。主イエスは、その定めに従って、命を捨て、また復活するという絶大な力と権威を振るわれたのであります。これが、すべての羊を囲いの中に導くためになさったことであります。

結.主の声に導かれて

19節以下には、この主イエスの話を聞いたユダヤ人の間で対立が生じたことが書かれています。多くのユダヤ人は、主イエスが「悪霊に取りつかれて、気が変になっている」とみて、主イエスの話に耳を貸す必要がないと主張しました。しかし、ほかの人たちは悪霊に取りつかれた者が、盲人の目を開くようなことはできない、と考えました。彼らはユダヤ人でありながら、神が備えられた囲いの外に、出て行こうか、行こまいか、迷っているのであります。

・このユダヤ人たちの姿を私たちは笑うことが出来ません。私たちも、囲いの中にいた方が良いのか、外に出た方が良いのか、自分で判断しようとしています。しかし、主イエスは囲いの中の羊だけでなく、囲いの外の羊をも導きいれることの出来る力をもっておられます。私たちのために御自分の命を捨て、またそれを受ける力をもって、私たちを導こうとしておられるのであります。

・主イエスはそのお力をもって、今日も私たちを囲いの中へと招いておられます。私たちはその主の声を聞き分ける者とされたいと思います。

・次週は春の特別伝道礼拝を迎えます。まだ、羊の囲いの中に入ろうかどうか迷っている方がおられます。囲いの中に入れられていながら、自分では、まだ入りきっていないように思っておられる方もいらっしゃいます。あるいは、まだ羊飼いなる主イエスのことを何も知らず、羊の群の一匹になることの必要も感じていらっしゃらない方もおられるでしょう。しかし、主イエスという羊飼いは、囲いの中にある羊も、まだ外をウロウロしている羊をも、すべての羊を囲いの中に導くために、御自分の命を捨てて下さるのであります。私たちもまた、自らが囲いの中へと招かれていることを喜ぶとともに、羊飼いである主の心を心として、まだ迷っている羊のために、主イエスと共に働く者とされたいと思うのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・私たちの羊飼い主イエス・キリスト父なる神様!

・今日も羊飼いの御声をもって私たちを呼びかけ、囲いの中へと導いて下さいます幸いを、感謝いたします。
・どうか、いつも主の声を聞き分ける者とならせて下さい。

・囲いの中に入るかどうか迷っている方々や、まだ主の囲いを知らない方々が、どうか、来週の特別伝道礼拝に招かれて、羊飼いの御声を聞くことが出来ますように、お導き下さい。

・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年5月10日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書10:16−21
 説教題:「囲いの外の羊」
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