「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」               (ヨハネによる福音書1011

 羊飼いは、民を導く神または指導者の喩えとして、旧・新約聖書にしばしば登場するので、私たちは一定のイメージを抱いている。しかしここでは、「はっきり言っておく」という、主イエスが常識を超えたことを断定的に宣言される際の言い方に続いて標記の言葉が語られており、先入観を捨てて聴き取らねばならない。
 主イエスは私たちを「羊」と見ておられる。羊は羊飼いなしには生きて行けず、外敵に対しても無防備な動物である。そのように、私たちも、神を離れては生きて行けないにもかかわらず、自立して生きているつもりであり、悪魔的な罪に対して無防備な存在なのである。
 そのような私たちに対して「わたしは良い羊飼いである」と語られる。これは「わたし」が強調された言い方で、主イエスの教えや思想が心の養いになるとか、迷いやすい私たちを守り導くということではなくて、主イエス御自身が私たちを、身をもって守り導いて下さるということである。
 「良い」とは、「羊のために命を捨てる」ことである。主イエスは羊である私たちのために、単に労を惜しまないとか、共に戦って下さるというだけでなく、罪のために死すべき私たちに代わって死んで下さるのである。
 また、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言われる。この「知る」とは、単に知識として知るとか、他と区別できるだけでなく、「愛する」「信じる」という愛と信頼の関係を表わす。
 更に、驚くべきことに、「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」とも言われる。私たちの主イエスに対する愛は、不確かで揺るぎやすいと思っているが、主は、父なる神と子なるイエスの不動の愛と信頼の関係が、主イエスと私たちの間にもあると断言される。主は、命をかけて、そのような関係を創りだして下さるのだ。主は、「お前は、敢えてこの羊飼いの群の中の、一匹の羊であることを願うか」と問うておられる

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年5月3日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書10:7−15
 説教題:「良い羊飼い」
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