序.はっきり言っておく

・今日与えられておりますヨハネによる福音書107節以下の箇所には、主イエスが「わたしは良い羊飼いである」と言われた、私たちが良く知っている言葉が記されています。良く知っているだけに、私たちの中には、「良い羊飼い」について、一定のイメージが出来上がっているかもしれません。

・羊飼いのことは、このヨハネ福音書だけでなく、旧約聖書にも新約聖書にも、よく出て来ます。旧約聖書で有名なのは、詩編の23編であります。そこでは、こう歌われています。

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

 主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い

 魂を生き返らせてくださる。

 主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。

 死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。

 あなたがわたしと共にいてくださる。

 あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける

                 (詩編23編1−4)

 ここには、羊飼いが羊に必要な水や草のある所へ導いてくれ、危険からも守ってくれることが歌われています。

・新約聖書では、ルカ福音書にある「見失った羊」の譬え(ルカ15:17)が有名であります。百匹の羊のうち、迷い出た一匹を捜し回る羊飼いのことが語られていますが、谷間の崖で行き場を失っている羊を羊飼いが見つけ出した様子を描いている印象的な絵と共に、私たちには羊飼いのイメージがはっきりと定着しているのではないでしょうか。

・先ほど、旧約聖書の朗読で、エゼキエル書34章の一部を読みました。旧約聖書の中では、イスラエルの民は羊の群と捉えられ、民の指導者が羊飼い(牧者)に譬えられることが多かったようで、このエゼキエル書34章の前半では、群を養わない悪い牧者が登場し、後半の先ほど読んだ所では、わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる、と言われていて、ダビデ王の子孫にイスラエルの民を養い救い出す良き指導者が現れることが預言されているのであります。イスラエルの民はそのような羊飼いが現れることを期待しておりました。

・では、主イエスは、ここでも同じような羊飼いのイメージをもとに、御自分のことを示そうとしておられるのでしょうか。主イエスは色々なことを話される時に、旧約聖書の言葉をもとに話されました。ですから、ここでも、旧約聖書のあちこちで語られていて、ユダヤ人のイメージの中に定着している羊飼いのイメージを前提に話されたのは間違いないと思われます。

・しかし、このとき主イエスが話しておられる相手は、主にファリサイ派の人たちであります。彼らは旧約聖書で預言されているメシア(救い主としての羊飼い)の出現を待ち望んでいました。しかし、彼らは主イエスを受け入れようとしないのであります。主イエスは旧約聖書の預言を成就する方として来られたのですが、彼らは主イエスをそのように受け取らなかったのであります。なぜでしょうか。――それはユダヤ人たちが受け取っていた羊飼いのイメージを、主イエスは大きく超えておられたからであります。

旧約聖書に書かれている預言が間違っていたというわけではありませんが、旧約聖書の羊飼いのイメージでは収まらないお方として来られたのであります。

・主イエスは、10章の初めで、「はっきり言っておく」と言って、語り始められました。今日の箇所の初めの7節でも、「はっきり言っておく」と言っておられます。ここでは「わたしは羊の門である」とおっしゃって、羊飼いの喩えとは違っていますが、11節になって、「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃったところまで、「はっきり言っておく」と言われたことの内容が続いていることは間違いありません。

・「はっきり言っておく」という独特の言い方は、このヨハネ福音書の中に25回も出て来ます。これは直訳すれば、「アーメン、アーメン、あなた方に言う」でありまして、主イエスの口癖というよりは、非常に大事なことを宣言的に言われる時に、用いられた言い方であります。聞いている者たちが既に承知していることとか、容易に受け入れられるようなことを話される場合でなくて、聞いている者たちの常識を超えた、驚くようなことを、しかも断定的に語られる場合に、用いられています。

・ですから、「はっきり言っておく」と語り始められた時の主イエスの言葉を聴く時は、自分のこれまでの常識や先入観で聞いてはいけない、ということであります。私たちは、「良い羊飼い」について、一定のイメージを既に抱いているかもしれません。しかし、今、この言葉を聴く時には、それを棄てて、主イエスが今日、私たちに新しく語って下さる言葉として聴かなければならないのであります。これは、主イエス像についての、一つの説明のようなものではありません。だから、聴く私たちは、それを知識として頭にしまい込んでおけば済むものではありません。主イエスが私たちに向かって宣言されているのであります。それを受け入れるか受け入れないかが問われるのであります。

・この時、聞いている相手は、主イエスに敵対していました。主イエスを殺さなければならない、と思っていたのであります。ですから、「わたしは良い羊飼い」という言葉は、そういう人たちに対する挑戦的な言葉でもあったのであります。1節と8節に「盗人」とか「強盗」とかいう喩えが出て来ますが、これは直接的にはファリサイ派の人たちのことであります。

・私たちは、ファリサイ派の人たちのように、主イエスに敵対しているつもりはないかもしれません。しかし私たちは、本当に主イエスを私たちの羊飼いとして受け入れているのでしょうか。それぞれの生活の中で、主イエスがあなたの羊飼いになっているでしょうか。そのことが問われるのであります。ですから、私たちも、この言葉によって主イエスから挑戦を受けるのであります。

1.「羊」としての私たち

・ところで、既に前提として話していますが、主イエスは私たちを「羊」と見ておられるのであります。羊というのは弱々しい動物であります。羊は自分で牧草地を見つけたり、水のあるところに行き着くことが出来ません。羊飼いに誘導されなければ、生きて行くことが出来ないのであります。羊を襲おうとする動物に対しても無防備です。自立出来ないのであります。羊飼いに守ってもらわなければ、自分たちの安全・安心を確保出来ないのであります。主イエスは私たちを、そんな羊と見做されるのであります。

・私たち人間は曲りなりにも自立して生きているつもりであります。もちろん、人は一人で生きて行けないことは分かっています。人間は社会的動物で、社会的分業をし、共同体で助け合いながら生活しているわけであります。しかしそれで、社会はうまく行っているのでしょうか。科学技術が進歩し、社会の仕組みが高度化しても、人間社会は問題だらけであります。誰かを悪者にしただけでは解決できない問題があります。何も人類全体といった大きなことを考えるまでもありません。私たちの身近な小さな生活は、うまく行っているのでしょうか。自分たちは、それなりの考えを持ち、それなりの生活をしている。世の中にはずいぶんひどい事もあるが、自分たちは人に迷惑をかけるようなことをしていない。そう思って一定のプライドを持って生きているのであります。

しかし、主イエスは私たちをそうは見ておられないのであります。マタイ福音書には、主イエスが「群衆を飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)と書かれています。これは、2000年前のイスラエルのことだけが言われているのではありません。主イエスは、私たちをも同様に、飼い主のいない羊のようだと見ておられるのであります。

・それはなぜでしょうか。それは、主イエスは、神様と私たちの関係を見ておられるからであります。私たちが神様から離れて、自分の好き勝手な所へさ迷い出ている有様は、主イエスの目から見るならば、飼い主のいない羊なのであります。

・ここで、盗人とか強盗に喩えられているのは、直接的にはファリサイ派の人たちのことだと、先ほど申しました。彼らは当時のイスラエルの民を指導する立場にあった人であります。彼らは律法を行うことによって救われる道を、人々に教えました。しかしそれは、門から入らないで羊たちを奪い取る盗人や強盗のように、羊たちを滅ぼしてしまうことになります。主イエスは7節で「わたしは羊の門である」と言っておられます。イエス・キリストという門を通らないで、自分たちで律法を守る努力をすれば救われるという道は、滅びに至る道なのであります。同様に、私たちが、自分で営々と築いて来た人生において、人に迷惑をかけず、様々な不安を抱えながらも、当面の小さな幸せで満足している生き方は、主イエスの目から見るならば、盗人や強盗に襲われかねない無防備で危険な羊たちの状態と同じなのであります。私たちには、父なる神様から遣わされて、門から入って来る本当の羊飼いが必要なのであります。私たちは事の重大性に気付いていないかもしれません。しかし、主イエスは私たちの本当の姿を見通した上で、「わたしは良い羊飼いである」と宣言しておられるのであります。

12節では、羊を襲う狼の喩えも語っておられます。羊飼いに守られている羊は、狼の恐ろしさを知りません。私たちも、私たちを永遠に滅ぼしてしまう狼について、よく分かっていません。私たちは何となくある人生の不安を知っています。しかし、私たちは狼そのものを知りません。それは突然の事故に遭遇するとか、大病を患うとかいうような不幸な出来事以上に私たちを脅かすものであります。ある人は、狼とは、神の助けなしでも何とかなると考える人間の傲慢だと言います。「罪」という言葉で言い換えてもよいかもしれません。人間の悲惨の根源に罪があります。悪魔的な罪の力に私たちは一人で立ち向かうことは出来ません。むしろ私たちは、気付かないうちに、この罪という狼の餌食にされるのであります。

2.命を捨てる

・しかし、きょう私たちは、盗人や強盗や狼の恐ろしさだけを聞くためにここに集められたのではありません。主イエスが「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われていることに耳を傾けなければなりません。

・まず、「わたしは良い羊飼いである」という言い方でありますが、「わたしは何々である」という言い方は、このヨハネ福音書で、既に「わたしは命のパンである」(6:48)「わたしは世の光である」(8:12)「わたしは羊の門である」(10:7)というのが出て来ました。この後にも「わたしは道である」(14:6)とか「わたしはまことのぶどうの木」(15:1)などが出て来ます。これらは原文では、「わたし」が強調された言い方であります。「私こそが良い羊飼いである」「他ならぬ私が良い羊飼いなのだ」ということであります。

・また、「わたしは何々である」という言葉を聞く時に、注意しなければならないのは、主イエスのお話になる教えが私たちの心の糧(パン)として心の養いに役立つとか、主イエスの思想が世の光として世の中を明るくするということではないということであります。主イエスの何かが、ではなくて、主イエス御自身が命のパンであり、主イエスの存在そのものが世の光である、ということであります。「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃる場合も同様であります。主イエスの教えや思想が、良い羊飼いのように、迷いやすい私たちを導いたり、私たちに襲いかかる悪の力から私たちを守ってくれるというのではありません。そうではなくて、主イエス御自身が私たちの導き手であり、羊飼いでいらっしゃる、ということであります。聖書の中に書き残された様々の教訓が私たちを導いたり助けたりするのではなくて、主イエスが直接、私たちに手を差し伸べ、働きかけて下さるのであります。「わたし自身があなたの良い羊飼いなのだよ」と宣言しておられるのであります。

・さて、主イエスは「良い羊飼いである」とおっしゃいます。「良い」とはどういう意味でしょうか。この「良い」という言葉は、英語のgoodよりも強い言葉で、「理想的な」とか「完全な」とか「本物の」という意味が含まれていると言われます。つまり、主イエスのような羊飼いは、そこにもここにもあるというような羊飼いではない、ということであります。どこが他の羊飼いとは違うのか。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われます。当時の羊飼いが、本当に羊のために命を捨てたかどうかは分かりません。しかし、主イエスという羊飼いは、単に羊を牧草地に導いたり、禍から守ってくれるというだけでなくて、羊のために命をかけるのであります。つまり、主イエスという羊飼いは、私たちが生きるのに必要なものを与えたり、安全に人生を歩む道を教えてくれるというだけではなくて、私たちのために命を捨てる「完全な羊飼い」なのであります。私たちを「罪」という狼の牙から取り返すために、羊飼いである主イエスが命を捨てられたのであります。単に、羊のために労を惜しまないとか、羊と一緒になって戦うというのではありません。自分の命を捨てて、狼から守られるのであります。ですから、「羊のために」というのは、「羊に代わって」という意味になります。罪のために死すべき私たちに代わって、主イエスは十字架に架かって死なれ、その代わりに私たちは生かされるのであります。

・12,13節には、本物の羊飼いでない、雇い人のことが言われています。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。――この「自分の羊を持たない雇い人」とは、直接的には、この時、聞いていたファリサイ派の人々のことでありましょう。しかし、本物の羊飼いのような顔をして私たちを連れ出しておいて、いざ、困難や悪魔的な力が襲い掛かった時に逃げ出してしまう雇い人的なものは、色々な形で私たちに近づいて来るのであります。それは、思想であったり、政治であったり、技術であったり、宗教であったりします。そういうものを全部否定して、排除する必要はありません。しかし、イエス・キリストという本物の羊飼い以外は、私たちのために命を捨てるものはいないということを、はっきりと意識しておく必要があります。どんな優れた思想も、私たちの命を守ることは出来ません。どんなに強力な政治勢力であっても、私たちの罪との戦いに勝利してはくれません。むしろ、第二次大戦の時のように、私たちを罪の中へ巻き込んでしまいます。どんなに科学技術が進歩しても、私たちを罪から救い出すことは出来ません。どんな他の宗教も、自らの命を差し出すような神はいないのであります。キリスト教会であっても、もしキリストを指し示さないならば、雇い人的教会になってしまいます。

3.羊を知っている/羊も知っている

・次の14,15節の言葉は、「わたしは良い羊飼いである」と言われる更に深い意味が語られています。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」

・羊と羊飼いの関係については、この10章の初めでも語られていました。3節では、「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあり、4節には「羊はその声を知っている」とありました。羊飼いが羊の名を知っているということは、一匹一匹を他の羊と区別できるということであり、羊が羊飼いの声を聞き分けるということは、自分の羊飼いと他の羊飼いや、羊飼いでない盗人と区別出来るということであります。それはそれで、羊と羊飼いの重要な関係であります。

・しかし、ここで「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言われている「知る」という言葉は、聖書の中では、単に知識として知るとか、他と区別できるといった以上の深い関係を表わしていると言われます。「わたしは自分の羊を知っている」という場合の「知る」は、別の言葉で言えば「愛する」という意味であり、「羊もわたしを知っている」の「知る」も「愛する」とか「信じる」という意味を持っているのであります。羊飼いは羊のために命を捨てるほどに羊を愛しているのであり、羊もその愛を知って、信じきるのであります。それが、主イエスと私たちの関係なのであります。

ここでは更に驚くべきことが言われています。その羊飼いと羊の関係が、父なる神と主イエスの関係と同じである、と言われているのであります。父なる神様と子なるイエス・キリストとの関係と言えば、このヨハネ福音書の冒頭で、「初めに言があった。言は神と共にあった」(1:1)と言われ、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)と言われていたような、永遠の昔からの不動の関係であります。また、主イエスが十字架にお架かりになる前にゲッセマネの園で祈られた「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という、完全な信頼の関係であります。その関係と、羊飼いである主イエスと羊である私たちの関係が、同じである、と言われるのであります。単に、似ているとか、比較できるということではなくて、「同じである」と言われているのであります。それは、主イエスと私たちの関係が、父なる神と主イエスの関係に基いている、その関係に支えられている、ということであります。私たちの主イエスに対する愛が、いかに不確かで揺るぎやすいものであるかを知っています。しかし、主イエスは、そうではない。「私はあなたを、父なる神がわたしを知っていて下さるほどに知っており、愛しているのだ、だからまた、あなたも、私が父なる神を愛し、信じているほどに愛し、信じることが出来るのだ、と言って下さっているのであります。

結.主イエスの羊として

・きょう、私たちは「わたしは良い羊飼いである」という主イエス のお言葉を聴いて参りました。最初に申しましたように、これは主イエスの宣言であり、私たちへの挑戦的な問いかけでもあります。「お前は、信仰によって、敢えてこの羊飼いの群の中の、一匹の羊であることを願うか」と問うておられるのであります。私たちの周りには、様々な狼が私たちを主イエスから引き離そうと狙っています。その中で、私たちのために命を捨てて下さる羊飼いの羊とされていることほど、喜ばしいことはありません。
・祈りましょう。

祈  り
 ・イエス・キリストの父なる神様!

・あなたが主イエスを限りなく愛し給うように、主イエスが私たちのために命を捨てて下さったほどに愛して下さっていることを覚えて、畏れつつ感謝いたします。

・迷いやすく弱い羊でありますが、どうか、主の愛の中にとどめて下さり、主に従って行く羊とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年5月3日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書10:7−15
 説教題:「良い羊飼い」
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