序.異教社会の中で

・二ヶ月に一度、ペトロの手紙から御言葉を聴いて来ております。

・これまでにも申しましたように、この手紙は、小アジア地域の異教世界の中にあるキリスト者に宛てて書かれたものと考えられています。この手紙が書かれた時期は、キリスト教に対する本格的な迫害が始まる少し前だと考えられていますが、異教の世界に生活していることで、様々な軋轢があったことでありましょうし、周りの人たちに伝道することの困難を覚えていたに違いないのであります。そういう意味では、今日の私たちが置かれている状況と似ていると言えるのであります。

・日本のキリスト者の御家庭で、代々クリスチャンホームというのはめったになくて、多くは御本人が初めてとか、せいぜい親がクリスチャンだという程度です。ですから、親戚縁者は殆ど仏教徒の場合が多くて、家に仏壇があったり、お葬式は仏式の場合が多いので、生活の色々な場面で悩まなければならないことが多いわけであります。神社も地域社会としっかり結びついていることが多くて、私もこちらに来て、自治会の班長をして「とんどさん」をどうするかという問題にぶつかりました。私の場合は他所から来た人間ですし、「牧師ですから出来ません」で済みますが、地域に長く住んでおられる方は、そうは行かないかもしれません。昨年亡くなられた木村姉も、長くクリスチャンであられましたが、お葬式はお家との関係で、仏式でなさらざるを得ませんでした。

・こうしたことは伝道の面でも大きな障害になっているかもしれません。キリスト教に興味を持って教会に行くようになっても、いざ洗礼を受けてクリスチャンになるということには、大いに抵抗があるのではないでしょうか。クリスチャンになるということは、家の宗教を棄てるということで、どうしても親戚づきあいの上で、踏み出せないということがあるのではないでしょうか。

・さて、この手紙の宛先のキリスト者の具体的状況は、現代の日本とは違っていたと思われますが、個々のキリスト者が、周囲の異教の人たちの生活ときっぱりと縁を切って、キリスト者として孤高を守るのか、ある程度妥協しながら、適当に両立させるような生活をするのか、大いに悩みがあったのではないかと想像されますし、そういうことが教会の発展に足枷になっていたということは、私たちの悩みと共通点があったのではないかと思われます。

・そんな中で、この手紙の筆者(ペトロとされる)が、まず述べたことは、3節からの段落の小見出しにありますように、キリスト者として救われていることの「生き生きとした希望」についてでありました。その救われた希望の中身というのは、3節の後半から述べられていますが、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」ということでありました。そして、更に6節以下では、「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練で悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりも尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」と語っています。

・次いで13節以下では、具体的な勧めに入りまして、小見出しにもありますように、「聖なる生活をしよう」と勧めるのであります。「聖なる生活」というのは、聖人のようにこの世を棄てるということではなくて、現実を直視しながら、キリストが現れる日の恵みをひたすら待ち望みつつ、欲望に引きずられない生き方のことであります。

17節以下では、「先祖伝来のむなしい生活」を離れて、神を畏れる生活をするよう勧められていて、それは「金や銀のような朽ち果てるものによらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によって贖われた生活」であると言っております。つまり、罪から解放された生活であります。

・さて、今日の22節以下の箇所は、その「聖なる生活」の続きでありますが、この段落で筆者が勧めていることは、22節にあるように、あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りにない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい、ということであります。一言で言うと、「愛し合いなさい」ということであります。

・異教社会の中で、周囲の人たちとの関係に悩みながら、伝道を進めようとするときに、必要なことは、「愛し合う」ことだ、と言うのであります。ここで「愛し合う」というのは、「兄弟愛」という言葉がありますように、まずは教会の中の兄弟姉妹が愛し合うことであります。異教社会の中にあるということと、教会の中での兄弟愛とがどう結びつくのか、と思われるかもしれませんが、教会の中で本当の愛が見られないようで、どうして異教社会の中にある人々に、キリストの愛を伝えることが出来るか、ということであります。教会の外の多くの人々は、教会のことに無関心であるように見えます。しかし、色々な所で教会の姿は現われてしまいます。個々の信者の言動を通しても現れますし、教会の諸活動を通しても見えるのであります。まして、教会やキリスト教のことに多少なりとも関心を持っている人は、鋭く感じ取ってしまいます。教会の中で一致がなかったり、差別があったり、気の合う者たちだけの集団になって、他の人が入りにくいようなことになっていると、それはすぐ、近隣の人や、家族に見えてしまうのであります。それでは、キリストを証しすることは出来ません。

・ですから、教会は、また個々の信者は、キリストの愛に相応しい集団になっているのかどうかということを、絶えず顧みる必要があります。では、この手紙の筆者は、兄弟愛について、どのように語っているのでしょうか。一つ一つの言葉を追いながら見て行きたいと思います。

1.真理を受け入れて

・まず、「あなたがたは、真理を受け入れて」とあります。「受け入れて」というと、キリスト教の真理を他の宗教や哲学の真理とも比較しながら、これが妥当だと判断して受け入れる、というようなニュアンスに聞こえるのですが、原文では「従順」または「服従」と訳せる言葉が使われているのであります。キリスト者は真理に服従するのであります。では「真理」とは何か。それは、すぐ前の段落で言われていたことであります。「キリストの尊い血で贖われた」ということであります。キリストはヨハネによる福音書の中で、「わたしは道であり、真理であり、命である」(146)と言っておられます。真理とはキリストなのであります。私たちのために尊い血を流して下さったキリストこそ、真理なのであります。キリスト教の真理とは、勉強して到達するものではありません。頭で考えて納得するものではありません。差し出されたキリストの愛に、ただ服従するしかない、真理であります。従って、真理に服従するとは、キリストの愛によって生き始めるということであります。愛とは何かとか頭で考えるのではなく、キリストの愛は素晴らしいと感心しているだけでなく、自分の生活の中で愛に生きるということであります。キリストの愛に生きるということですから、好きな人、気の合う人だけ愛するということではありません。敵を愛する、気に入らないと思う人を受け入れる、自分に嫌なことをした人をも赦すということであります。周囲の人たちはそれを見て、キリストの愛を垣間見るのであります。真理の一端に触れるのであります。自分の気に入った人だけ受け入れて、嫌いな者を排除しているのを、周囲の人が見れば、「何だ、キリスト教も、自分たちと同じではないか」ということになってしまいます。それでは伝道になりません。

・キリストの愛に従うということは、時には、とても辛い、プライドに傷がつくようなことであります。しかし、キリストが自分を受け入れて下さり、自分のために血を流して下さったことを思えば、キリストの愛を真似るしかありません。それが「真理に服従する」、「真理を受け入れる」ということであります。

2.魂を清め

・次に、「魂を清め」とあります。「魂」というのは、「霊」とも「命」とも訳されますが、私たちの存在の根元にあるものを言います。それが「清め」られたのであります。ここで使われている「清め」という語は完了形であります。すでに清まったということです。私たちの存在の根元がすでに清められてしまったのであります。これから自分を清めなければならないとか、キリストに見習って愛に励まなければならないというのではないのであります。キリストの真理を受け入れる(キリストの愛に服従する)ということは、私たちの根元から清まることなのであります。

3.偽りのない兄弟愛

・その結果、「偽りのない兄弟愛を抱くようになった」と言います。原文には「抱くようになる」という言葉はありません。動詞は先ほどの「清め」であります。直訳すると、「偽りのない兄弟愛へと清まった」ということになります。ですから、「偽りのない兄弟愛」も、これから励まねばならない努力目標ではなくて、キリストの真理を受け入れる(真理に服従する)ことによって、真実の兄弟愛へと清められてしまったのであります。

・「偽りのない」というのは、「偽善がない」ということであります。見せかけではない、ということであります。私たちの愛はしばしば見せかけの偽善の愛になります。夫婦の愛や親子の愛ですら見せかけになることがあります。まして、教会における兄弟姉妹の愛は見せかけになりやすいところがあります。教会は気の合った人の集まりではありません。色々な人が集まっているところです。育ちや学歴や職業や社会的地位もまちまちです。自然的な感情では仲良くなりにくい集団です。しかし、教会だからというので無理矢理合わせているところがあります。ですから偽りの愛になりがちであります。

・それではなぜ、筆者は「偽りのない兄弟愛を抱くようになった」と言い切るのでしょうか。それは、「真理を受け入れて」いるからであります。キリストの愛を受けているからであります。キリストの愛を受けるに価しない者が愛されたので、その愛から離れられなくなっているからであります。だから、キリストの愛を真似ることが出来るのであります。キリストの愛を真似ることによって、少しでもキリストの近くにいることが出来るからであります。逆に言うと、もし教会の中で、偽りの兄弟愛(見せかけの兄弟愛)になってしまっているとしたら、それは、キリストの愛を受け入れていないから(キリストに服従していないから)であります。

・この伝道所でも、少し前に兄弟愛に亀裂が入ってしまいました。未だに修復されていません。偽りの(見せかけの)修復をしても、意味がないでしょう。修復する道は、双方が「真理を受け入れる」以外にありません。キリストの愛を受け入れて、それに服従するならば、「偽りのない兄弟愛」が甦る筈であります。そしてそれは、周囲に対しても大きな証しになる筈であります。

4.清い心で深く

22節の終わりで、「清い心で深く愛し合いなさい」と勧めています。すぐ前で「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清めてしまった」と完了形で言ったばかりですのに、改めて、「愛し合いなさい」と勧めるのであります。真理を受け入れ、キリストの愛に服従した筈ですのに、改めて勧めなければならないには、キリストの愛への服従が十分ではない、あるいは途切れてしまうという実状があったからでありましょう。私たちも真理を既に受け入れているし、キリストの愛もよく分かっているつもりであります。しかし、頭では分かっても、キリストの愛に服従することが出来ていないことがあるのではないでしょうか。偽りの兄弟愛に終ってしまっていることがあるのではないでしょうか。

・だから、もう一度、「清い心で深く愛し合いなさい」という勧めを聞かなければなりません。「深く」という言葉は口語訳聖書では「熱く」と訳されていました。情熱的にというよりも、「熱心に」という意味であります。この言葉はまた、「根気よく」とか「辛抱強く」とも訳される言葉であります。愛することは、ただ燃え上がるだけではなくて、根気や辛抱がいるということであります。それは、嫌いな相手とも辛抱強く付き合うということではありません。キリストの愛に根気よく触れるということであります。キリストの愛は、一度分かったらすぐ身につくというものではありません。根気よくキリストの愛に触れなければ、自分のものとはならないのであります。

5.朽ちない種による新生

・そこで筆者は次の23節で、永続的にキリストの愛に触れる方法を伝授いたします。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。種は一見死んでいるように見えますが、そこから新しい命が芽生えて来ます。朽ちる種もあります。「朽ちる」という言葉は、このペトロの手紙の中に既に何度か出て来ました。18節では「金や銀のような朽ち果てるものにはよらず」という言葉がありました。そういう地上の宝は朽ち果てます。朽ち果てる宝には金や銀のような物質的・金銭的なものだけでなく、人間の知恵や経験も含まれるでしょう。これらは一時的には価値があり力を発揮するように見えますが、やがて朽ちてしまいます。

・では、「朽ちない種」とは何でしょうか。主イエスは「種まきの譬え」を話されました。その場合の「種」は御言葉であります。ここも同じであります。「神の変わることのない生きた言葉」が「種」であります。「変わることのない」と訳されている言葉は、「留まる」「いつまでもある」という言葉であります。神の言葉は<生きていて、いつまでもある>、つまり<生き続ける>ということであります。命がずっと宿っているのであります。

・その<生き続ける御言葉>によって、あなたがたは、「新たに生まれたのです」と言っております。私たち自身は死すべき者であります。しかし、「朽ちない種」である「生きた御言葉」を受けた者は、新たに生まれるのであります。命を持った御言葉から新しい命をもらって生き返るのであります。

22節の「兄弟愛」との関連で言えば、私たちの愛は、すぐ萎んでしまったり、何かがあると敵意に変わってしまったりします。私たちの愛は変わりやすく、永続的ではありません。しかし、「生きた御言葉」を受けると、愛が新たに生まれるのであります。御言葉とは、キリストの死と復活を語る福音の言葉であります。その御言葉によって私たちのうちにキリストの愛が甦るのであります。壊れた兄弟愛も復活させられるのであります。そのような「朽ちない種」が私たちの間に蒔かれたのであります。

結.主の言葉は永遠に変わることがない

24節には先ほど朗読していただいたイザヤ書の言葉が引用されています。これは、イスラエルの民のうちの主だった人たちがバビロンに連れて行かれた捕囚の時代に、預言者イザヤが語った言葉であります。壮麗なエルサレム神殿もバビロンの手によって破壊されてしまった。かつての華やかさは、草の花のように枯れてしまっている。誇るべきものはもう何も残っていないように見える。そういう中で、預言者は、永遠に変わることがないものがある、それが主の言葉である、と語っているのであります。

・日本にプロテスタントの教会が出来てから今年で150年を迎えます。宣教師たちによって種が蒔かれて、最初のプロテスタントの教会が横浜の地に建てられましたが、そのゆかりの横浜海岸教会で、421日に記念講演会が開かれました。しかし今、日本の教会は、「草は枯れ、花は散った」かのように、勢いがありません。じり貧の状態が続いています。しかし、主の言葉が枯れてしまったのではありません。「主の言葉は永遠に変わることがない」のであります。主の言葉は今も生き続けているのであります。

・私たちの伝道所も、本日、伝道所開設17年の記念日を迎えております。しかし現状は、いささか勢いに欠けているように見えます。礼拝に来なくなっている会員や求道者がおられます。高齢化は否応なく進んでいます。最近、礼拝に若い人の姿が少し見られるのは、うれしいことですが、まだ教会の勢いとはなっていないように見えます。教勢においては横ばいが続いています。本日の主題の兄弟愛について言えば、表面的には和やかな雰囲気が何とか保たれているように見えます。しかし、兄弟姉妹の間には修復出来ないままの傷も残っています。この伝道所の長期的な課題である独立教会への道筋もなかなか見えて来ません。目の前の実状からは、華やかな展望は開けて来ないように思われます。

・では、この伝道所に主の言葉が絶えてしまったのでしょうか。決してそうではありません。主の日ごとに、主は御言葉を語って下さっています。御言葉の種は蒔き続けられています。御言葉を通して主の愛は注ぎ続けられているのであります。そうであれば、主の変わることのない生きた愛の言葉は、私たちを新たに生まれさせて下さいます。キリストの愛が新たな従順を生み出し、私たちの中にある愛の障壁を乗り越えさせて下さいます。心に傷を負った人の間での心の交流も芽生えて来る筈であります。そして22節で言われているような、「清い心で深く愛し合う兄弟愛を抱く」ことが出来るようになります。そうすると、癒しとか修復と言われる以上のことが起こってきます。23節で「新たに生まれる」と言われているようなことが、一人一人の内にも、また伝道所全体にも起こってくるのであります。いや、それは決して遠い将来のことではありません。22節で言われていることは、完了形で書かれていると言いました。主の変わることのない生きた御言葉が語られ、聴かれている所では、既に、「新たに生まれる」ということが起こっているのであります。私たちの伝道所の中にもそのことは静かに起こりつつありことを信じたいと思います。

・そして、教会の内側で、変わることのない生きた御言葉によって新たに生まれるということが起こっており、そこから偽りのない兄弟愛が創り出される(あるいは修復される)ということが現実に起こっているならば、必ず、そのことは教会の外側に現われるのであります。教会の内側の勢いは、周りをも巻き込むのであります。それは、教会の勢いの源である御言葉の力が、そしてキリストの愛が、教会の周囲にも溢れ出るからであります。金や太鼓の伝道活動よりも、大切なのは、教会の内部で、福音の真理(キリストの愛)を本気で受け入れ、それに服従することであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・愛の御言葉を語り続けて下さる父なる神様!
 ・今日も変わることなく生きた御言葉を賜わって感謝いたします。

・どうか、あなたの愛の御言葉を受け入れ従順に従うことによって、自らも愛に生きる者とならせて下さい。どうか主イエス・キリストの愛に倣う者とならせて下さい。どうか、あなたによって新たに生まれ変わる者とされていることに気づかせて下さい。

 ・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年4月26日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一1:22−25
 説教題:「朽ちない種による新生」
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