「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」               (ヨハネによる福音書103b−4

 旧約聖書では、しばしばイスラエルの民が神の「羊」であるとされ、その民を神から託された指導者たちは「羊飼い」に喩えられる。だが、主イエスは、民の指導者を自認しているファリサイ派の人々を、羊の囲いの門を通らないで、ほかの所を乗り越えて来る盗人・強盗に喩えられる。彼らは、主によって目を開かれた人が主を証ししたことで、会堂から追い出してしまった(934)からである。「門」とは、「わたしは羊の門である」(7節)と言われるように、イエス・キリスト御自身である。キリストに問うことなく、自分の考えやこの世的な知恵を押し通し、自分の名誉や利益のために民を利用する指導者は、羊飼いに相応しくない。十字架と復活のキリストという狭い門(マタイ71314)を通らないでは、民を救いの囲いの中に導くことは出来ない。
 真の羊飼い(指導者)は、標記において、「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言われているように、羊の一人一人の名、性格、悩みなどを熟知しており、また「先頭に立って行く」と言われているように、進むべき道をよく知っていて羊を正しく導くとともに、危険に向っても先頭に立って行くのである。これは教会の指導者のあるべき姿を示すとともに、十字架の主イエスこそが、そのような真の羊飼いであることを示している。
 一方、羊は「その声を聞き分ける」(3節)と言われ、「その声を知っているので、ついて行く」と言われているように、聖書に記されたキリストの言葉を、自分の都合に合わせて聞くのではなく、自分にとって厳しいものであっても、ゆるがせにすることなく聞き分け、それに従って行くことが求められている。そこには、赤子が母親の声を聞き分けるように、主の御言葉への信頼が必要である。真の羊飼いである主イエスを信頼して、ついて行くとき、私たちは緑の若草と命の水辺へと導かれるのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年4月19日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書10:1−6
 説教題:「主の声を聞き分ける」
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