序.羊飼いと盗人・強盗

・ヨハネによる福音書によって御言葉を聴いて参りましたが、今日から10章に入ります。ここの11節には有名な、「わたしは良い羊飼いである」という言葉があります。主イエスが良い羊飼いであるということが、この章のテーマであります。9章とは話題がすっかり変わったかのように思えます。9章では、生まれつき目の見えなかった人が主イエスによって見えるようにされた事実を、ファリサイ派を中心とするユダヤ人たちは受け入れることが出来ず、ついに、目が見えるようになった人を会堂から追い出してしまったことが書かれていて、最後の部分(前回の35節以下)では、主イエスが再びその人に出会われて、御自身を明らかにされる一方、ファリサイ派の人々が自分たちは「見える」と思っているところに罪があることを御指摘なさったことが記されていたのであります。

10章のはじめは「はっきり言っておく」という主イエスの言葉で始まっています。この共同訳では省略されていますが、原文では、「はっきりあなたがたに言う」と言われているのであります。あなたがたと言われている相手はファリサイ派の人々であります。この後、羊と羊飼いのことを話されるのですが、その話は、ファリサイ派の人々に向けて語られたのでありまして、1節に出て来る盗人とか強盗というのは、ファリサイ派の人々のことを比喩でおっしゃっているのであります。しかし、6節を見ていただきますと、イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった、と記されています。また、19節を見ていただきますと、この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた、と書かれています。これらから分かるように、今日の箇所の話は、9章からの続きであり、この話の後にもユダヤ人たちとの対決は続くのであります。

・では、今日の話はユダヤ人に対する話しであって、私たちとは直接関係のない話かというと、そうではありません。一つには、私たち自身も、ユダヤ人たちと同じように、主イエスに対して無理解であるかもしれません。私たちは羊飼いである主イエスによって養われる羊たちの1匹であると勝手に決めているかもしれませんが、ひょっとすると、羊を奪いに来る盗人や強盗になっていないか、ということを考えて見なければなりません。主イエスの大切な羊を躓かせたり、排除したりするようなことをしてしまっていないか、反省してみる必要があります。

・しかし、今日の主イエスのお話は、ただ主イエスに敵対するファリサイ派の人々だけに語られたのではないことも明らかであります。目を見えるようにしてもらった人も聞いていたかもしれません。主イエスはユダヤ人たちから追い出されたこの人を、御自分の羊の囲いの中に入れようとされておられます。19節以下のところでは、ユダヤ人の中でも主イエスに対して肯定的な見方をする人がいたことも書かれていますから、主イエスはそういう人を何とか御自分の羊の囲いの中に入れたいとお考えになっていたかもしれません。更に16節では、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる、その羊をも導かねばならない」と言っておられます。主イエスはユダヤ人以外の異邦人も含めて、すべての人が囲いの中に入って、救いに与ることを願っておられます。その中には私たちも含められている筈であります。

・良い羊飼いとその羊の囲いの話は、主イエスが救いたいと思っておられるすべての人に向けられた招きの言葉でもあります。今日は、この良き羊飼いの御言葉を聞こうとしているのであります。あの目が見えなかった人は、主イエスによって肉体の目が開かれただけでなく、心の目も開かれたのでありますが、私たちもまた心の耳を開いて、御言葉に耳を傾けたいと思うのであります。

1.門から入る

・さて、主イエスは12節でこう言っておられます。「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。」――この喩えは、パレスチナにおける当時の牧畜生活が背景になっています。羊飼いたちは、主人から委託されている羊を入れる囲いを、他の羊飼いと共同して持っていて、朝が来ると、それぞれ自分の羊を囲いから連れ出して、牧草地で運動させたり、草を食べさせたり、水のある所に連れて行って水を飲ませて、夕方になると、囲いへ連れ帰るのが仕事であります。

・囲いは塀または垣()をもって囲まれていて、屋根はなく、門があり、そこに門番がいました。正規の羊飼いは当然、門から出入りするわけですが、羊を盗もうとする者は、門を通らずに、塀や垣根を乗り越えて侵入するのであります。

先ほど、旧約聖書のエゼキエル書34章の一部を朗読していただきましたが、34章全体が、羊であるイスラエルの民を養う牧者について書かれています。旧約聖書では、色々な箇所で、イスラエルの民が神の羊であるとされ、指導者たちは神から民を託された羊飼いに喩えられています。主イエスはそういう聖書の箇所を思い浮かべながら語っておられるし、聞く方もすぐそのように理解して聞いたと思われます。ですから、ここでも「羊」は神様に選ばれた民のことであり、「羊飼い」とは、その民を指導する役目を担っている人たちであります。今、主イエスの話を聞いているファリサイ派の人々は、民の指導者であることを自認している人たちであります。しかし、主イエスは、主人から委託を受けていない、正規の羊飼いでない者がいて、門を通らないで、ほかの所を乗り越えて来る者がいることを話されます。これはファリサイ派の人々のことをおっしゃっていることは明らかであります。

・主イエスの目から見れば、彼らはイスラエルの民を神様の御心に従って養うどころか、自分たちの名誉や利益のために、民を利用していると見ておられるのであります。主イエスからすれば、生まれつき目の見えなかった人も、選ばれた民であり、指導者たちが大事に養うべき羊でありました。しかし、ファリサイア派の人々は彼が主イエスを証しした故に、会堂から追い出し、選ばれた民の囲いの外へ放り出したのであります。それは自分たちの利益だけを考える盗人や強盗と同じだ、ということであります。

・一方、この喩えでは、「門から入る羊飼い」のことが語られています。これは、ファリサイ派の人々ではない、良い指導者のことを指しているとみられますが、当時、そんな指導者が別にいたというわけではないので、本来あるべき指導者のあり方を教えられたとみることが出来ますが、そんな指導者は主イエス御自身しかおられないということも言えるわけであります。そのことについては、11節以下で「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃって、その良さについて、更に突っ込んだことをおっしゃるわけですので、ここでは、普通のまともな羊飼い、神様の御心に従って民を指導する指導者と理解しておこうと思います。

・そのような指導者は、何もかつてのイスラエルだけでなく、今も必要とされます。新しい民である教会を指導する牧者がそれであります。具体的には、牧師や長老・委員、神学者などがそれでありましょう。信者を食い物にする盗人や強盗のような牧師や長老・委員ではないにしても、本当に羊たちのために仕えている羊飼いになり得ているのであろうか、この世の力や悪と戦うリーダーとなり得ているのだろうか、結局は自分の名誉や自己満足のために、極端な場合には自分の生活を守るために、与えられた仕事をこなしているだけなのではないか、ということを、自分も含めて反省させられるのであります。

・ここで一つ考えたいことは、主イエスが「門から入る者が羊飼いである」とおっしゃっている「門」とは何か、ということであります。主イエスの喩えを一つ一つ何かに当てはめて解釈する必要もないのでありますが、7節まで進むと、主イエス自身が「わたしは羊の門である」とおっしゃり、9節でも「わたしは門である」と言われるのであります。であれば、門から入らない羊飼いとは、<キリストを通らない指導者><キリスト抜きの指導者>ということになります。ファリサイ派の人々は、正に、キリストを受け入れようとしない指導者でありました。キリスト教会の指導者が、キリスト抜きの指導者ということは、形の上ではあり得ないのでありますが、実際はキリストに問うことなく、自分の考えやこの世的な知恵を押し通す指導者、キリストに仕えるのでなく、自分に仕えさせる指導者になってしまうことがあるのであります。それが、「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者」であります。

・このことは、教会の指導者ばかりでなく、キリスト者一人一人の信仰の有り様についても言えることであります。キリストを信じているようでいながら、実際はキリスト教の雰囲気が好きであるとか、ヒューマニズムによる生き方をキリストの教えと混同する場合があります。十字架のキリストという門を通らないでは、救われる民の囲いの中に入ることは出来ないのであります。主イエスはマタイによる福音書でこう言っておられます。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ71314)私たちが勝手に造り出したキリスト像ではなくて、聖書の中に示された十字架と復活のキリストに出会うのでなければ、そしてこのお方に従うのでなければ、キリストの羊ではありません。

2.羊の名を呼ぶ/先頭に立って行く

・次に、35節の言葉を聴きましょう。「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

・ここには羊飼いの側の性質と、羊の側の性質の両方が語られています。まず、羊飼いの側の性質から聴いて行きたいと思います。最初の「門番は羊飼いには門を開き」というのは何を意味するのか、確定した解釈はありませんので、省略します。羊飼いの大切な性質は、一つは「自分の羊の名を呼んで連れ出す」ということであります。囲いの中では複数の羊飼いの羊が一緒に入っていたそうですので、自分の羊だけを連れ出す必要がありました。だから実際に羊に名前がつけられていて、呼び出すのであります。名前を知っているということは、その羊の姿や顔形はもちろんのこと、その羊の性格まで熟知しているということであります。これが良い指導者の条件だ、ということであります。牧師や長老・委員はこうでなければならない、ということであります。プライバシーにどれだけ入り込むかということは、気をつけなければならない面もありますが、一人一人の信者が何を求めており、何を悩んでいるかを知ることは、指導者として大切なことであります。しかし、なかなか核心に触れることが出来ず、相応しいアドバイスを与えたり御言葉による適切な指導をしたり、慰めを与えることが出来ないのが現状であります。

・しかし、ここで私たちが聴かなければならないことは、教会の指導者が信者の一人一人を知る前に、真の羊飼いである主イエスが羊の一人一人を熟知しておられるということであります。

・もちろん、それだからと言って、教会の指導者が一人一人のことについて知らなくてもよいということにはなりませんが、主イエスが一人一人のことを既によく知っておられるということを指導者も本人も知らなければなりません。だから真の羊飼いである主は、決して羊たちを間違った所へ連れ出すことはない、ということであります。

・次に、羊飼いは「先頭に立って行く」と言われていることに注目したいと思います。羊飼いは何処に若草があり何処に水があるかを知っているので、先頭に立って行くということもあるでしょう。指導者は、教会が行くべき道、また一人一人が進むべき道について、よく分かっていなければなりません。しかし、ここでもっと大切なことは、行く先に危険がまっているかもしれないということであります。狼が羊を襲ってくるかもしれないということであります。そういう危険に向かって、羊飼いは先頭に立って行くのであります。この点においても、主イエスは真の羊飼いであられます。主イエスは十字架が待っているエルサレムへ向われる時、「先頭に立って進んで行かれた」(マルコ1032)と書かれており、ゲッセマネで苦悩の祈りをされた後、「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」(マルコ1442)と言って弟子たちを促されました。このように主イエスは弟子たちの先頭に立って十字架への道を進まれたのであります。私たちを待ち受けているのは、罪の結果としての死であります。主イエスはこの最大の危機に向って、先頭に立って真っ向から挑んで下さったのであります。そして自ら血を流して下さったのであります。この羊飼いを先頭に持っている限り、私たち主の羊はサタンの餌食になることはありません。罪によって滅ぼされることはないのであります。

3.羊はその声を聞き分ける

・次に、羊の側について言われている性質について聴きたいと思います。その性質とは、「羊はその声を聞き分ける」(3節)と言われ、「羊はその声を知っているので、ついて行く」(4)と言われていることであります。羊の方も自分の羊飼いの声を知っていて、他の羊飼いの声と聞き分けることが出来るのであります。そうでないと、間違った羊飼いに付いて行ってしまうことになります。

・私たちも真の羊飼いである主イエス・キリストの声を聞き分けることが出来ないといけないということであります。これは、一つには、聖書を正しく読み、説教を正しく聞き分ける力をつけないといけない、ということであります。キリスト教の中で異端的なものが出て来るのは、結局は聖書の聞き取り方の違いからであります。聖書の中から、自分に都合のよい所だけを聞いたり、自分の考えに合う所だけを聞いていたのでは、キリストの声を聞いたことになりません。厳しい言葉であっても、自分に都合の悪いことであっても、キリストの声であれば、聞かなければなりません。その覚悟をもって聞くことが必要であります。

・今年は年間の目標として、「御言葉に親しみ、伝える」ということを挙げていますが、「御言葉に親しむ」とは、ただ聖書をよく読むということではありません。<聖書の言葉をゆるがせにしない>ということであります。聖書の中の自分に都合のよい所だけとか、自分の気に入った所だけを読むのでなく、たとえ厳しいことが書かれている所であっても、神の言葉として重く受け止める、ということであります。今年の修養会では、聖書のあるテキストを一緒に読むことを考えています。これは聖書をただ勉強するということではなくて、各自が聖書の御言葉を真剣に受け止める読み方をする練習をしようと思っています。それが、キリストの声を聞き分ける耳を養うことになると思うからであります。

・ところで、キリストの声を聞き分けるには、聖書の知識や読み方の修練だけでは足りません。一番大切なことは、御言葉への信頼であります。御言葉を語り給うキリストへの信頼であります。羊が羊飼いの声を聞き分けることが出来るのは、羊が羊飼いを信頼しているからであります。泣きわめいていた赤ちゃんが母親の声を聞くと泣き止みます。それはお母さんを信頼しているからであります。主イエスの言葉は、単なる教えではありません。十字架の裏づけを持った言葉であります。だからこそ、信頼できるのであります。

・「羊はその声を知っているので、ついて行く」(4節)とあります。主イエスの声を知っていて、聞き分けることが出来る者、言い換えると、聖書の言葉を聞き分けることが出来る者は、主イエスについて行くことが出来るのであります。「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」(5節)とも言われています。主イエスの声を知っている者は、他の声に惑わされてついて行くようなことはしないで、むしろ誘惑の声から逃げ去るのであります。

結.目だけでなく耳も開かれる

・生まれつき目の見えなかった人は、主イエスに出会って、目を開かれました。肉体の目が開かれただけでなく、心の目(信仰の目)が開かれました。それはまた、心の耳が開かれるということでもあります。彼は、主イエスの声を聞き分けることのできる羊になりました。一方、ファリサイ派の人々は、自分たちは「見える」と思っていましたが、主イエスの本当のお姿を見ることは出来ませんでした。また、主イエスの御言葉を聞き分けることも出来ませんでした。6節にこう書かれています。イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。私たちも目が見えているつもり、物事が分かっているつもり、神様のこと・イエス様のこともある程度承知しているつもりであります。それだから、主イエスの真実のお姿を見逃してしまっていないでしょうか。主イエスの真実の声を聞き逃してしまっていないでしょうか。

・しかし、主イエスは今日も、私たちを見放すことなく、私たちを緑の若草と命の水辺へとつれ出そうと、私たちに声をかけて下さっています。この主イエスの声を聞き逃さず、聞き分ける者とされたいと思います。主は私たちの目だけでなく、耳も開いて下さるお方であります。
・祈りましょう。

祈  り

・主イエス・キリストによって私たちに今日も出会って下さり、声をかけて下さる父なる神様!感謝いたします。

・どうか、主の御言葉を聞き分ける耳をお与え下さい。そしてどうか、主に従って行く羊とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年4月19日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書10:1−6
 説教題:「主の声を聞き分ける」
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