既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 (ヨハネによる福音書2146

 復活された主イエスは、週の初めの朝、墓でマグダラのマリアに現れ、その日の夕方、ユダヤ人を恐れて隠れていた弟子たちに現れ、その時一緒にいなかったトマスのために一週間後に現れた。弟子たちは復活の主に出会って、直ちに宣教活動を始めるのかと思うと、彼らは故郷のガリラヤに戻り、主に従う前の、漁をする生活に戻ろうとする。彼らは何をすればよいのか分からなかったのである。この弟子たちの姿は、復活の主に出会いながら、生き方が定まらない私たちの姿を思わせる。
 弟子たちは漁に出かけたが、その夜は何もとれなかった。そのような弟子のために、標記のように、主イエスが岸に立たれる。「何か食べる物があるか」との問いに、彼らは「ありません」と答えるほかない。私たちもまた、堂々と主の前に差し出せるものは何もない。
 主は弟子たちに舟の右側に網を打つよう命じられる。その御指示どおりにすると、大量の魚が網にかかった。弟子たちは、召された当時に同様の出来事があったことを思い出し、主であることに気づく。
 陸に上がってみると、炭火がおこしてあり、魚やパンが用意されていた。主は弟子たちの食べ物のことを気遣い、備えておられたのだ。だが、弟子たちがとった魚を不要だとはされず、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われる。主は私たちの生活と働きに必要なものを備えて下さる。その上で、主の御指示に従って得たものをも用いて下さる。
 主は、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われ、パンと魚を弟子たちに与えられる。これは、最後の晩餐を思い出させるものであり、教会の聖餐がこの時から始まり、終わりの日まで続けられることになる。こうして、復活の主は、礼拝と聖餐の場に私たちを招いて、私たちに新しい命を与え、主に仕える新しい生活へと召し出して下さるのである。そこには、引き上げられないほどの収穫が約束されている。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年4月12日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書21:1−14
 説教題:「復活の主との食事」
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