序.主の復活の後に――岸に立ち給う主

・復活節の礼拝を共に守ることが出来ますことは、感謝であります。

・旧約聖書の時代には、安息日は土曜日に守られていましたが、キリスト教の礼拝が日曜日に行われるようになったのは、日曜日に主イエスが復活されたからであります。主がお甦りになった日に礼拝をすることによって、私たちは毎週、復活の主イエスと出会うのであります。

・そうであれば、殊更に復活節礼拝などと言って、特別な礼拝をするまでもないとも言えるのでありますが、やはり一年に一度、主イエスの御受難を覚える季節を経て、主の復活の日の朝に、特別な思いをもって、復活節礼拝をすることによって、主の復活の恵みをより深く覚えることが出来るのではないでしょうか。

・私たちが連続して聴いて来ておりますヨハネ福音書では、20章の前半(18節まで)には、主の復活の朝、婦人たちが墓に行くと主のお体がなくなっていたことと、マグダラのマリアに主が現われたことが記されていて、19節〜23節には、その日の夕方に弟子たちが戸を閉じて集まっている所に現われたこと、24節〜29節には、最初に来られた時にいなかったトマスが主の復活を信じられなかったので、一週間後に主がもう一度現われたことが記されているのであります。

・そして、20章の30節以下には、この福音書の結びとも思える記述があるので、ここで終るのかと思うと、21章でまた、主イエスの復活後の出来事が記されるのであります。そういうことで、研究者の中では、21章は後に追加されたのではないか、と言われて来ました。そうなのかもしれません。だからと言って、21章に書かれていることは編集者の創作だとか、あまり価値がない付け足しということではなくて、どうしても書き残しておかなければならないので、書き加えられたのであると考えられます。

・復活節の礼拝では20章をテキストにして説教されることが多いと思いますが、20章のはじめの出来事は、これまでに他の福音書で聴いておりますし、11節以下の箇所は2006年に、19節以下の箇所は2004年に取り上げましたので、今日は21章の1節から14節までの箇所から復活節の御言葉を聴くことに致しました。

・ここには、弟子たちにとっては二度目ないしは三度目に復活の主イエスが現われて下さった出来事が書かれていますので、あまり新鮮な驚きがないと思ったり、念押しのようなものかと受け止めてしまい勝ちでありますが、今回この箇所を与えられて、改めて、私たちにとって、なくてはならない貴重なことが記されている箇所であることを思わされたのであります。

・と申しますのは、私たちは主イエスの復活のことは、もう耳に蛸が出来るほど聞いているのでありますが、そうだからと言って、私たちは復活について確信を持てているだろうか、主の復活を知った者に相応しい新しい生き方をしているだろうか、ということになると、極めて心もとないところがあるからであります。

・主の弟子たちとて、復活の主イエスに一度や二度お会いしただけでは、その後どうすればよいのか、まだ新しい生き方がよく分からないまま、生まれ故郷のガリラヤへ帰って、もとの漁師の生活を始めようとするのであります。この弟子たちの姿は、正に私たちの姿そのものではないかと思わされるのであります。その弟子たちのために、主イエスはわざわざ、ガリラヤ湖の岸辺にもう一度現われて下さったのが、21章に書いてあることであります。

・ここで主イエスは多くを語ってはおられません。特に今日の14節までの箇所では、朝の食事に関係して語られた四つの言葉が記されているだけで、特に教えのようなことは何も話しておられません。しかし、この中に、弟子たちのこれからの生活を成り立たせる重要なことが示されているのであります。そのことはまた、私たちの信仰生活を成り立たせる事柄でもあります。本日はそのことをこの箇所から聴き取りたいと思うのであります。

1.「わたしは漁に行く」――途方に暮れつつ

・さて、この日、主イエスが弟子たちに御自身を現された場所は、1節に記されていますように、ティベリアス湖畔であります。ティベリアス湖とはガリラヤ湖の別名であります。ガリラヤ湖周辺は主イエスと弟子たちの出身地方であり、最初の宣教活動の舞台でありました。そして、マルコによる福音書によれば、主イエスは、「復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(1428)と予告しておられ、復活の朝には婦人の弟子たちに対して天使が「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」(167)と告げたのであります。

・そんなことがあったからでありましょう。弟子たちは、エルサレムで復活の主イエスにお会いしてしばらくの後、ガリラヤにやって来たのであります。ここには七人の弟子たちが一緒にいたと記されています。彼らは皆ガリラヤ地方の出身であります。また、恐らくこの内の四人はガリラヤ湖の漁師でありました。彼らは主イエスに召されて、漁師の仕事を捨てて弟子となったのでした。

その弟子たちが復活の主イエスにお会いした後、主イエスから命じられていたように、直ちに宣教活動に入ったかというとそうではなかったということが、今日の箇所から分かるのであります。

3節を見ますと、シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った、とあります。彼らはかつて、漁師の仕事を捨てて主イエスに従ったことを忘れてしまったかのように、昔の生活に戻ろうとしているのであります。主イエスが十字架に架けられて、殺されたところで終ったのであれば、これも理解できないことではありません。

しかし、主イエスは甦られました。しかも、弟子たちは復活の主イエスに二回も出会っているのであります。大きな喜びがあった筈であります。当然、その後の弟子たちのあり方にも大きな変化が起こる筈であります。ところが、この弟子たちの様子を見る限り、主の復活が、彼らに何の変化も起こさせていない、何のモチベーションも与えていないかのようであります。主の復活という驚くべき出来事も、人間の生き方に何の変化ももたらさないということなのでしょうか。

・漁に行こうとする弟子たちを非難する人がいます。彼らは主の復活の事実に出会いながら、まだ目が覚めていないのではないか。彼らは生前に主イエスが言っておられたことを思い出すべきだ。自分たちが主イエスを裏切ったことを悔い改めて、直ちに主イエスを十字架に架けた人たちと対決して、宣教活動を始めるべきであったのに、その勇気がなかったのか、と非難するのであります。

・一方で、弟子たちを擁護する人たちは言います。主イエスの復活の事実に出会ったとしても、彼らは生きて行かなければならない。彼らが生きる糧を得るためには、何らかの仕事につかなければならないので、取りあえず自分たちに馴染みの漁師の仕事に戻るのは自然な成り行きではないか、と言うのであります。皆さまは、どのようにお考えになるでしょうか。

・私は、この弟子たちの様子は、当然であるように思います。生活のためには漁に行くのも止むを得ない、というのではありません。復活の主イエスにお会い出来たことは、確かに大きな出来事であります。復活について半信半疑であった弟子たちの思いを跳ね飛ばして主イエスへの信頼を取り戻す出来事でありました。しかし、<これから自分たちはどうすべきなのか>、ということについて、まだよく分からなかったとしても、当然ではないでしょうか。裏切った自分たちに何が出来るか、という不安もあったでしょう。どうしてよいか分からないまま、ガリラヤで主イエスに会えるという言葉に導かれるままに、やって来て、ここで彼らが出来ることと言えば、かつてのように漁をすることしかなかったのではないでしょうか。

・そのことは私たち自身のことを振り返れば分かることであります。私たちも聖書を通して、そして礼拝を通して、復活の主イエスに出会ったのであります。その時から、私たちの生活はどのように変わったでしょうか。あのパウロのように、主イエスに出会った瞬間から、人生が大きく変わる場合もあります。しかし、多くの場合は、すぐに新しい生活が始まるわけではありません。主の復活がなかったかのように、相変わらずの生活が続いて場合が多いのかもしれません。すぐに新しい生き方がはっきりと見えて来るわけではありません。そのことをもって、<復活の理解が不十分だ>とか、<決断が鈍い>といって非難することは出来ないのではないかと思うのであります。主の復活の出来事はそれほどに、私たちの理解を超えた出来事であり、私たちを途方に暮れさす出来事なのであります。

・しかし、大事なことは、既に主イエスは甦られたのであります。先週に聴きましたように、罪の贖いは成し遂げられたのであります。主は既に勝利して下さったのであります。すべての問題の根本にあった問題は解決済みなのであります。しかも主イエスは、十字架と復活という御自分の使命を全うされて、<後はどうぞ皆さんでうまくやって下さい>などと言って放り出されるのではありません。主の復活が信じられなかった弟子たちのところに、既に二度も現われて下さいました。それでもまだ、何をしてよいか弟子たちには分かっていないことも、主イエスはよく御存知です。だから、ガリラヤで会おうとおっしゃったのです。主イエスはガリラヤ湖の岸辺に立って下さるのであります。

2.舟の右側に網を――153匹の大きな魚

・ペトロの提案に同調して、弟子たちは舟に乗り込みました。漁を始めたのであります。しかし、その夜は何もとれなかったのであります。何をしてよいか分からないまま、当面の必要を満たすために漁に出ました。しかし、それもうまく行かなかったのであります。慣れている筈の漁が失敗に終ったのであります。彼らはいよいよどうしてよいか分からなくなったのではないでしょうか。

そのとき、4節にありますように、主イエスが岸に立っておられたのであります。徒労に終った弟子たちの傍らに来て下さったのであります。どうしてよいか分からない弟子たちを、主イエスは放っておかれませんでした。

だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかったようであります。復活の主イエスのお姿は共に生活していた時のお姿とは違っていたのでしょうか。それとも、まさかこんな時に主イエスが来て下さるとは思ってもみなかったので、主イエスには見えなかったのでしょうか。

ところが、主イエスの方から「子たちよ、何か食べる物があるか」と問われます。「子たちよ」という呼びかけは、指導的な立場にある人が、自分の生徒や子供たちに愛情を込めて語りかけるときの言い方だそうであります。主イエスは、元の仕事に帰ってしまった不甲斐ない弟子たちを非難はされません。むしろ、彼らの食べ物のことを心配されます。弟子たちが漁に失敗したことをご存じないわけではないでありましょう。失意の弟子たちに、御自分の方から近づかれるためであります。主イエスは私たちにも、このように言って近づいて下さるのではないでしょうか。どうしてよいか分からず、何の収穫物も持ち合わせていないような私たちに向かって、「子たちよ、何か私に提供できるものがあるか」と言って、近づいて来て下さるのであります。

弟子たちは「ありません」と答えるしかありませんでした。私たちも、「主イエスにお献げするようなものは何もありません」と答えるしかないのではないでしょうか。主イエスを信じる者とされたとはいえ、主イエスにこれだけの働きをしましたと報告出来るようなものは何もない私たち、この世の働きで得たものにしても、主イエスに堂々と差し出せるようなものは何もない私たちであります。

・「ありません」と答えるしかなかった弟子たちに、主イエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」とおっしゃいます。そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった、と書かれています。漁の専門家たちが夜通し漁をして何もとれなかったのに、主イエスの御指示どおりすると、引き上げることが出来ないほどの魚がとれたのであります。――これは、かつてペトロやアンデレたちが弟子に召されたときの事を思い起こさせる出来事であります。否、主は、もう一度彼らを召し出すために、わざと以前と同じことをなさったのではないでしょうか。

7節には、イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに「主だ」と言った、と書かれています。「イエスの愛しておられたあの弟子」とは、筆者のヨハネ自身のことだと考えられています。かつての出来事を思い起こすと同時に、目の前におられるのが、復活の主イエスだと気づくのであります。これを聞いたシモン・ペトロも、主イエスだと気づいたのでしょう。漁をするために裸同然の格好をしていましたが、そのまま主イエスの前に出るのは恥ずかしいと思ったのでありましょう。大慌てで上着をまとって湖に飛び込みます。それは主イエスのもとに行ってぬかずくためであります。主イエスは復活なさったことをお示しになるだけではなくて、もう一度弟子たちを召し出すために来られたのであります。
・主イエスは何物かを主の前に差し出すことが出来る者を弟子として召されるのではありません。差し出す物は何も「ありません」としか言えない者を、召し出されます。一度裏切って主イエスのもとを逃げ去った者たちをもう一度用い給います。

3.復活の主との食事――礼拝と聖餐から

・さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてありました。その上には驚いたことに、魚がのせてあるではありませんか。おまけにパンも用意されています。食べる物のことで不安であった弟子たちのために、朝食に必要なものは、主が既に用意して下さっていたのであります。さきほど「何か食べる物があるか」と問われたのは、主イエスが食べ物を探しておられたのではなくて、弟子たちが食べる物がなくて困っているのではないかと、心配していて下さったのだということが分かります。私たちは主に従って行く生活を志すにしても、まず生きるに必要なものをどうするのか、という不安がつきまといます。まずそちらの方を確保してから、主のため、教会のためにもお仕えしましょう、と考えます。しかし、生きるに必要な物も、主が備えて下さるのであります。

・しかし主イエスは同時に、「今とった魚を何匹か持って来なさい」とも言われます。主の指図に従ったことによって得られた収穫物であります。しかし、弟子たちが降ろして、網が破れそうになるほど重たかったのを弟子たちが引き上げたものであります。それも、持って来るようにおっしゃるのであります。主イエスは、私たちの働きを役に立たないなどとおっしゃいません。私たちの労苦した収穫物をも用いて下さるのであります。

主イエスは「さあ、来て、朝の食事をしなさい」とおっしゃいます。復活の主イエスとの食事に招かれたのであります。本当なら、弟子たちの方が食事の用意をして、復活の主をお招きすべきであったかもしれません。そして主の十字架のときに、自分たちが逃げ去ったことを謝罪して、せめてもの償いをすべきであったかもしれません。しかし、弟子たちがもう一度、主と共に食事を出来るのは、あくまでも主イエスの方からの再度の招きがあったからであります。十字架の前にとった主イエスとの晩餐は、最後の食事とはなりませんでした。この時から復活の主との食事が始まったのであります。そしてこれは、終わりの日にあずかる主の祝宴をあらかじめ告げるものとして、終わりの日まで繰り返し教会が守り続けるべき食事の先駆けでありました。つまり、今日もこの後で行います聖餐式が、このガリラヤ湖の岸辺の食事によって暗示されていると言ってよいと思います。

13節には、イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた、魚も同じようにされた、と記されています。パンを取って裂くということは、主イエスが十字架の前の食事でもされて、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」とおっしゃいました。そしてこのことは初代教会が引続き主イエスの贖罪の記念として行なうようになりました。この時には魚も同じように弟子たちに与えられましたが、これは十字架の主イエスの血を象徴するぶどう酒に代わっています。しかし「魚」というギリシャ語の「イクシウス」は「イエス・キリスト、神の子、救い主」という言葉の頭文字を並べると出来ることから、クリスチャンが迫害された時代には「魚」を表わす「イクシウス」が同志であることの暗号とされました。それも、復活の主イエスが魚を取って与えて下さった出来事の思い出と重ね合わされていたのかもしれません。いずれにしても、私たちの礼拝と聖餐式は、復活の主イエスとの食事の再現でありまして、終わりの日における天国での祝宴を目指して、行い続けるものであって、その食事に招き給うのは、主イエスであるということであります。

結.だれも、問いただそうとはしなかった――主と共にある喜び

12節の中程には、こう書かれています。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。つまり、復活の主イエスが自分たちと共にいて下さり、自分たちに命を与え続けて下さるお方であることを、もはや改めて確かめる必要がないほどに確信出来たのでありましょう。

・今日は旧約聖書の朗読で、エゼキエル書47章を朗読いたしました。そこには神殿から流れ出す水が死海にまで達することが書かれています。そしてその9節以下にはこう書かれています。川が流れて行く所はどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべての生き物が生き返る。漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる。この中の「エン・エグライム」というヘブル語は数字で表わすと、今日の箇所に出て来た魚の数の153匹になるそうです。こういう解釈は、こじつけみたいに思われるかもしれませんが、エゼキエルの預言において神殿から流れ出る水について言われていることが、今や教会の礼拝で行われている事柄であるのは間違いのないことであります。この復活の主イエスが出会って下さる礼拝と聖餐式が行われる所から流れ出す命の水が、魚ならぬ私たちの命を生き返らせるのであります。そして、魚が大海の魚のように非常に多くなるように、この命の水によって、多くの人々が真の命に生き返らされるのであります。主イエスの復活を祝う復活節は、私たちが復活の命に与る者とされたことを喜び、感謝する日でもあります。
・祈りましょう。

祈  り

 ・主イエス・キリストの父なる神様!

・復活節の礼拝に加えられ、甦りの主イエスが招いて下さる食事に与ることが赦されましたことを感謝いたします。

・十字架の主イエスについて行けなかった弟子たちをも再び立ち上がらせようと招き給う主が、私たちのような弱い者をも招いて用いようとしていて下さいます。私たちは自分たちの力では、一匹の魚も取ることの出来ない者であります。どうか、主イエスの御指示に従って網を打つ者とならせて下さい。そしてどうか多くの人々と共に、永遠の命に与ることを喜ぶことが出来ますように。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年4月12日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書21:1−14
 説教題:「復活の主との食事」
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