この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。……イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。        (ヨハネによる福音書1928,30

 聖書は、主イエスの十字架上の肉体的な苦しみについては、くどくどと表現せず、標記のように、ただ一言「渇く」と言われたことを記す。しかし、主イエスには肉体的な苦しみがなかったとか、超越しておられたのではない。確かに主は、十字架刑という最も残酷で苦しい死を味わい尽された。それにしても、主はかつて、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(ヨハネ414)、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(同737)と言われていたのに、御自身はなぜ、「渇く」と言われたのか。御自身のためには「生きた命の水」を湧き出させることは出来なかったのか。――それは、私たちは皆、渇いている者であり、本来は十字架の上で神の裁きを受けて、渇かなければならない者であって、その私たちの渇きを、主が代わって受けて下さったからである。これこそが、私たちに「生きた命の水」を与えて下さる苦しみだったのだ。
 福音書記者は、このことが聖書の言葉の実現であると言う。これは詩編
22
16の実現である。また、酸いぶどう酒が主の口に差し出されたことも、詩編6922の実現として、ここに記し(29節)、主が「成し遂げられた」(30節)と言われたことを書く。つまり、主イエスは旧約聖書に預言されて来た神の救いの御計画を完全に成し遂げられたのである。こうして、私たちの罪が赦され、死から命へと移されることになった。
 最後に「息を引き取られた」(30節)と記されている。これは「霊を引き渡された」とも訳せる。主は御自分の霊を神の御手に引き渡されると共に、その霊の働きを、愛する弟子たち、すなわち教会に引き渡されたのである。主イエスの霊は、聖霊として、今も教会において働き、私たちを生かし続けているのである。 

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年4月5日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書19:28−30
 説教題:「成し遂げられた死」
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