序.十字架の上からの御言葉

・人が死に当たって話した最後の言葉は、誰の言葉にしろ、重みがあり、心に残るものでありますが、神の子イエス・キリストが十字架の上で語られた御言葉は、格別な重みがあり、誰もが聞き逃すことの出来ない言葉であります。四つの福音書に記された十字架の記事を足し合わせると、主イエスは十字架にお架かりになりながら、七つの言葉を語られたことになるのでありまして、「十字架上の七言」と呼ばれていますが、今日の聖書の箇所にはそのうちの、五番目と六番目に語られたとみられる御言葉が書き残されています。28節の「渇く」という言葉と、30節の「成し遂げられた」という言葉であります。これらは息を引き取られる直前の苦しみの中で語られた短い言葉であります。しかし、これらは苦し紛れの中から出た断末魔の叫びではありません。これらの言葉には、私たちに対する重要なメッセージが込められています。これらの言葉には、主イエスの生と死の意味が込められています。そして、主イエス・キリストの生と死は、単に二千年前の一人の偉大な人物の生と死として意味があるだけではなくて、今の私たちにとって、重要な意味を持つ生と死であります。これらの言葉には、私たちのこれからの生にとって、そして私たちの永遠の命に向かってのメッセージが込められているのであります。今日は、この二つの主イエスの御言葉を中心に、受難週にあたって、主が私たちに語って下さるメッセージを聴き取りたいと思います。

1.「渇く」

・まず28節を御覧ください。この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した、と書かれています。冒頭に「この後」とありますが、その前にどんなことがあったと書かれているのか、前のページを見ると、主イエスが十字架を負ってゴルゴタまで来られたこと、そして他の二人の犯罪人と共に十字架につけられたこと、罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれていたこと、兵士たちが旧約聖書の預言どおり主イエスの衣服を分け合ったこと、そして主イエスがヨハネとみられる弟子に、母マリアを託されたことが淡々と記されています。十字架につけられたということは、手に釘が打ち込まれた筈であります。その痛みに主イエスの顔が歪んだかもしれません。血が滴り落ちたに違いありません。しかし、聖書はそんなことは記しておりません。映画であれば、主イエスの苦しみを表現するために、主イエスの表情や、血が流れる様子を写し出すところでありますが、聖書はそんなことはいたしません。血を流されたことは、息を引き取られた後、34節にあるように、死を確実にするために槍でわき腹を刺した時に、水と共に流れ出たことが書かれているだけであります。息を引き取られるまでは、主イエスであっても、痛みは大きかった筈ですし、その苦しみを何とも思われなかったというようなことはない筈であります。しかし聖書は、主イエスのお苦しみをくどくどと表現することはいたしません。主イエスの肉体的な苦しみを表す唯一の表現が、ここに記されている「渇く」というお言葉であります。

・聖書がなぜ、主イエスの肉体的なお苦しみを詳しく書かなかったのか。それは、十字架の苦しみというものは、殊更書かなくても十分に想像できたし、肉体的なお苦しみにだけ感動して、もっと大きな精神的な苦しみに思いが至らないようなことになるのを避けたかったのかもしれません。しかし、主イエスには肉体的なお苦しみがなかったとか、超越しておられたかのように考えるのは間違いでありましょう。確かに、十字架の肉体的な苦しみをも味あわれたのであります。そのことが、この短い「渇く」という言葉で十分に表現されているように思います。

ところで、主イエスはなぜ、「渇く」と言われたのでしょうか。もちろん多量の出血で、ものすごい渇きを覚えられたからでありましょうが、聞きようによっては弱音を吐いていると思われそうな言葉をなぜ語られ、それをわざわざ書き残したのでしょうか。いっそ、こんな言葉はなかった方がよかったのではないか、とも考えられます。これまでの主イエスの言動と矛盾するように思える言葉でもあります。というのは、このヨハネ福音書で学んで来たように、主イエスは御自分のことを「生きた命の水」を与える者とされていました。サマリアの女とシカルの井戸端で出会われたとき、主イエスは、こうおっしゃいました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:1314)と。また、仮庵祭の最中に、神殿で水の儀式が行われている時に、それに対抗するかのように、こう言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7:3738)と。そのように語っておられたにもかかわらず、それと矛盾するような「渇く」という言葉を、他の福音書では書いていないのに、ヨハネは敢えて書いているのです。なぜでしょうか。――それは、私たち皆が、渇いている者であり、私たち皆が、本来は十字架の上で神の裁きを受けて、この渇きを味わわなければならなかった者であるからであり、その私たちの渇きを、主イエスが代わって受けて下さったからであります。「渇く」という言葉は、本来は私たち自身が吐く筈の言葉でありますが、主イエスが私たちに代わって口にされたのであります。もちろん口だけではなくて、本当に渇かれたのであります。そこで分かって来ることは、主イエスが「生きた命の水」を与えるとおっしゃったことは、他でもないこのことだったのだ、ということであります。「生きた命の水」を与えて下さるというのは、心に気持ちのよいスカッとするような言葉や元気が出るような言葉を語ってさるというようなことではなくて、実は、私たちの肉体的な渇きも心の渇きも、すべてご自分で代わって担って下さるということだったのです。もし主イエスが十字架の上で苦しまれず、「渇く」ということをおっしゃらなかったならば、私たちは皆、永遠の渇きに定められるしかない者であったのであります。

・そして更に、ここでヨハネが強調したかったのは、28節で記しているように、そのことが、「聖書の言葉が実現した」ことであり、主イエスが「渇く」とおっしゃったことによって、神様の永遠の救いの業が「成し遂げられた」ということであります。さきほど詩編22章を朗読していただきました。これは受難週によく読まれる箇所でありますが、それは、マタイによる福音書によれば、主イエスが十字架上で四番目に語られた「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というお言葉が、詩編22章の冒頭にあるからであります。しかし、それだけではなくて、この詩編には、今日の「渇く」という言葉を暗示することも語られています。それは13節以下でありまして、こう書かれています。雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。餌食を前にして獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。(詩編22:1316) この言葉も主イエスの十字架において実現したと受け止められているのであります。パウロがコリントの信徒への手紙一15章3節で、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだ」(15:3)と言っておりますのは、今日の箇所に書いてあるようなことを含めて、主イエス・キリストの十字架の御業はすべて、旧約聖書の預言の成就であり、その御業によって、私たちの罪は赦されたのであり、そのことによって、私たちは永遠に生きる命の水を与えられた、ということであります。

2.酸いぶどう酒

・続いて29節に書かれていることも、旧約聖書と関係があることであります。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した、とあり、30節には、イエスは、このぶどう酒を受けると、とあります。「酸いぶどう酒」がなぜ置いてあったのか。これは安物の酒で、水の少ない地方では水の代わりに飲むもので、兵士たちが長い間受刑者を監視するので、その間の飲料として用意していたのではないかと考えられます。主イエスが「渇く」とおっしゃったので、見かねた人々がそれを差し出したようであります。主イエスはそれを受けられました。他の福音書によりますと、ゴルゴタに到着してすぐ、「苦いぶどう酒」を飲ませようとしたが、その時は、主イエスは飲もうとされなかった、と書かれています。(マルコ15:22、マタイ27:34)これらをどう解釈するのか、色々な意見がありますが、決定的な答えはありません。ただ、これらが詩編6922節の実現であると見ていることでは一致しているようであります。そこではこう述べられています。人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。(詩編69:22)「酸いぶどう酒」と「酢」の違いはあるのですが、詩編69編は、神を信じるゆえに敵から嘲りをうけている者の歌であります。福音書に書かれているぶどう酒も、受刑者の渇きを和らげようとするやさしさが含まれていたのかもしれませんが、聖書がここで言いたいのは、旧約聖書の言葉の実現ということであります。詩編に記されていた人々の嘲りが、主イエスに向けられているということであります。ゴルゴタに着いた時は、主イエスはその嘲りのしるしである「苦いぶどう酒」を受けることを拒否されました。しかし今は、十字架につけられ、死に至らしめられるという人々の嘲りの極みの中にあって、人々の嘲りを受け入れられたのであります。<こんな、一時的に渇きを和らげるものなど要らない>と言って拒否することはなさいませんでした。他の受刑者と同じように、「酸いぶどう酒」を受けられたのであります。こうして、聖書の言葉は実現したのであります。

・このことが記されているのには、もう一つの理由があると言われます。それは、「酸いぶどう酒」をいっぱい含ませた海綿を「ヒソプ」に付けて差し出したということと関係があります。ヒソプというのは、香りの高い草花で、茎がまっすぐに伸びていて、パレスチナの山野に自生する植物で、旧約聖書の中に何度か出て来るのですが、最も人々の記憶にあるのは、出エジプトの前に、過越しの犠牲の動物の血を家の鴨居と柱に塗るために用いられたのが、このヒソプであった(出エジプト12:22)ということであります。つまり、ヨハネがここで、「ヒソプに付け」と書くときに、あの過越しの時にヒソプによって塗られた動物の血によってイスラエルの民は救われたのだが、その同じヒソプが差し出された主イエスの血とその苦しみによって、自分たちは救われたのだ、ということを言いたかったのであります。

・また、ぶどう酒は、最後の晩餐において、主イエスが杯を取って、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪から赦されるように、多くの人のために流される私の血である」(マタイ26:2728)と言われたことを思い出させるものでもありました。

3.「成し遂げられた」

・こうして主イエスはぶどう酒を受け取ると、「成し遂げられた」と言われました。この言葉は28節で「今や成し遂げられた」と書かれているのと同じでありますし、「聖書の言葉が実現した」とある「実現した」というのも、同じルーツの言葉であります。口語訳聖書では、「すべてが終った」と訳されていましたので、「万事休す」とおっしゃったように受け取られかねませんでしたが、この言葉の意味は、<目標が達成した><事業が完成した>ということであって、贖いの御業が完成したということであります。ですから、「成し遂げられた」の方がよい訳だと言えます。

ある人は、この一語の中にいくつかの深い真理がこめられていると言います。一つは贖罪の大事業が完成したこと、二つ目は主の死についての神の御計画と御意思が完成したこと、三つ目は神の律法を完全に守るということが行われたこと、四つ目はそれまで献げられて来た動物の犠牲に代わる完全な犠牲を献げ終えたということ、五つ目は(先ほどから何度も申し上げているように)旧約聖書の預言が成就したということ、そして六つ目は主イエスのお苦しみが終ったということであります。このように主イエスの十字架には多くの意味が込められています。しかもそれは、主イエス御自身にとっての完成であるだけでなく、私たちにとっての救いの完成であります。まだ後に、私たちが補わなければならないこと、満たさなければならないことが残っているのではありません。私たちの救いに必要なことは満たされたのであります。もっとも、主イエスの再臨の時までに、私たち一人一人が救いに入れられるという御業が残っています。教会が果たして行くべき役割が残っています。それにはまだまだ為すべきことが沢山あるような気がいたします。しかし、主イエスがなさった贖罪の御業に不十分なことがあるわけではありません。犠牲が足りないわけではありません。主のお苦しみが不十分だったわけではありません。足りないのは、私たちが主イエスのなさった愛の御業に気づいて悔い改めることであります。そのために教会は終わりの日まで宣教の業を続けなければなりません。しかし、主は決して宣教の業を教会にだけ任されたということではありません。主は聖霊において教会と共に働き続けて下さいます。そして最終的に一人一人の救いの完成へと導いて下さるのであります。

・十字架の御業によって「完成した」とか「成し遂げられた」と言いましても、それで終ってしまって、後はない、ということではありません。一人一人が死から命へと移されることが、十字架の時から始まったのであります。それは十字架と復活の御業が語り伝えられることによって進められます。それ以外の方法によってではないのです。そのことが今も日々、教会を通して行われているのであります。

結.息を引き取られた

・最後に、30節の終わりに、こう記されています。頭を垂れて息を引き取られた。これは地上を歩まれた主イエスの命が事切れた、ということであります。しかし、それだけの意味ではありません。ここで「息」と訳されている言葉は「霊」とも訳される言葉であります。また、「引き取られた」と訳されている言葉は「引き渡された」とも訳せる言葉であります。するとここは、「霊を引き渡された」とも訳せるのであります。「十字架上の七言」の最後の言葉はルカ福音書の2346節にありますが、そこでは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言っておられます。最後に御自分の霊を父なる神の御手に引き渡されたのであります。肉体の命と共に霊を父なる神に明け渡されたのであります。人に殺されたのではなく、御自分の御意思で引き渡されたのであります。

更に、この「霊を引渡された」という言葉は、もう一つの意味を含んでいると言われています。それは、主イエスは御自分の霊を父なる神に引き渡されたと同時に、御自分の霊の働きを、自分の愛する弟子たち、すなわち教会に引き渡された、ということをも意味しているという理解であります。教会が主イエスの霊を手に入れて自由に出来るというようなことではありません。しかし、主イエスの霊は聖霊として、教会において働くのであります。そうして、主イエスの命は教会に、そして私たち一人一人に引き渡されたのであります。これが、主イエスの十字架によってなしてくださった恵みの御業であります。
・感謝して祈りましょう。

祈  り

 ・主イエス・キリストの父なる神様!

・主が十字架の上で、苦しみの中で語られたお言葉を、今も語って下さっている御言葉として聴くことが許されまして、主が「渇く」とおっしゃるまでに、御自分を私たちのために捧げて下さいまして、私たちの救いが成し遂げられた恵みを覚えて感謝いたします。

どうか、この十字架の御言葉を聴き続ける者とならせて下さい。

どうか、私たちの魂の渇きを、主の渇きによってもたらされた命の水で、絶えず潤して下さい。

 どうかまた、主の霊を注ぎ続けて下さって、終わりの日まで、主 の御言葉を一人でも多くの人々に届けるために、この教会と私たち一人一人が用いて下さいますように。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年4月5日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書19:28−30
 説教題:「成し遂げられた死」
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