序.神の支配が見えない中で

・先ほど、開会の讃美歌で讃美歌2116番を歌いましたが、その1節では「われらの主こそは、世界の王なれば、国々しまじま、喜びたたえよ」と歌われていました。私たち信仰者は、世界を創られた神が、今も王として全世界を御支配なさっていることを信じているのであります。

・しかし、現代は神様の御支配が見えにくい時代であると言えるかもしれません。中世のヨーロッパでは、ある意味では神様の御支配がよく見えた時代でありました。人々の生活の全てにわたって、目に見えるかたちで神様の支配が及んでおりました。日曜日の礼拝を中心に生活が組み立てられていましたし、政治的にも領主や国王の上にローマ教皇がいて、良い悪いは別にして、教会の権威が政治の上にも力を持っていました。ところが18,19世紀になると、近代合理主義が台頭し、個人の自由が尊重されるようになって、教会の権威という形で目に見えていた神の支配が、次第に見えなくなって来たのであります。20世紀になると、経済力による世界の支配が争われるようになって、二度の世界大戦が行われることになってしまいました。科学や経済や武力といった人間の生み出した力に頼って世界を治めようとすることの愚かさを経験しながらも、21世紀に入っても人類は同じことを繰り返えそうとしていて、神様の御支配は、欧米においても、ますます見えにくくなっているのであります。

・わが国は、ヨーロッパのような、神様の御支配が見えた時代を経験しておりません。明治時代にキリスト教が入って来て、医療や教育や、文化の面で、神の支配を垣間見たことはあったかもしれませんが、キリスト教信者の数は1%を越えることなく、今日に至っており、神様の御支配は隠されたままであります。教会は世の中を動かす何の力も持っていないように見えるのであります。

・では、私たち個人の生活ではどうでしょうか。キリスト者と言いながら、私たちの生活の中で、目に見える形で神様の御支配に明け渡している部分がどれだけあるかというように考えると、日曜日の午前中以外は、殆ど神様の御支配の外にあるような生活をしてしまっているのではないでしょうか。もちろん、神様のためにどれだけの時間を割いているかというような、目に見える形が問題というよりも、私たちの生き方の根本において、神様に委ねているかどうかが問題であります。人生の重要な場面で、あるいは大きな試練に遭遇したときに、自分を神様の御支配に委ねているかどうかが問題であります。

・神様の御支配は、個人にとっても、教会という形においても、いつも私たちの目に、はっきりと見える形で示されるとは限りません。むしろ隠された形でしか示されないのであります。

・今日は、イザヤ書が与えられておりますが、イザヤの時代も同様でありました。これが書かれた時代の背景をきっちりと確定することは出来ませんが、イスラエルがアッシリアに滅ぼされた前後なのか、更に下がって、バビロン捕囚以後のことなのか、いずれにしましても、神の約束を受けた民であるにも拘わらず、大国の力による支配を受けざるを得ない状況の中で、神様の御支配が見えにくくなっているのであります。13節を見ますと、わたしたちの神なる主よ、あなた以外の支配者が我らを支配していますと言っております。1618節を見ますと、イスラエルの民を襲った苦難が妊婦の産みの苦しみに譬えられていて、その苦しみも、救いを国にもたらすこともできなかった、と語っています。

・しかしイザヤは、決して主なる神を見失ってはいないのであり ます。ここは、24章から始まった「イザヤの黙示録」と呼ばれる部分の一部でありますが、ここには、苦難の中にありつつも、神様の御支配への絶大な信頼の告白が語られているのであります。今日は、この箇所を通して、私たちもまた、神様の御支配の確信へと導かれたいと願っております。

1.神に従う者の道は平ら

・まず7節で、神に従う者の道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる、と言っております。「神に従う者」と訳されている原語は一語で、「正しい者」あるいは「義人」という言葉であります。10節に反対の「神に逆らう者」という言葉も出て来ますが、この原語は「罪人」あるいは「悪人」であります。けれども、何が正しいことであるかと言えば、神に従うことであり、何が罪で何が悪かと言えば、神に逆らうことであって、一般的な正・不正、善悪とは違うので、ここではこのように「神に従う者」と訳しているのであります。

・神に従う者の道は、平らでまっすぐにされる、と言います。現実のイスラエルの民が歩まなければならない道は、決して平坦ではなく、起伏に満ち、多くの障害が待ち受けていて、紆余曲折が予想される道であった筈であります。多くの苦難を伴う歩みであった筈であります。そうであるのに、なぜ、平らでまっすぐにされる、と言えるのでしょうか。強がりを言っているのでしょうか。状況を直視しないで、現実から目を逸らしているのでしょうか。

そうではありません。8節を見ますと、主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み、わたしたちはあなたを待ち望みます、と言っております。「あなたの裁き」という言葉が出て来ました。9節の3行目にも出て来て、あなたの裁きが地に行われるとき、世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう、と言われています。―「裁き」というと、何か悪いことをしたことに対する「懲らしめ」あるいは罪に対する「罰」というような、マイナス面で捉えてしまいますが、元来は、「正しい判断」「正しい支配」を表す言葉でありまして、「公義」「正義」などとも訳せますし、この箇所を「法」と訳す人もいます。イスラエルの歴史の中で王を立てる以前の時代の指導者のことを「裁きびと(士師)」と呼びました。<正しい指導や判断をする人>という意味です。「裁き」というのはそういう意味を持っていますから、ここで「あなたの裁きによって定められた道を歩む」というのは、<神の正義・神の法によって定められた道を歩む>という意味になり、そうであるからこそ、<その道は平らであり、神によってまっすぐにされる筈であるので、それを待ち望む>と言っているのであります。目の前に見えている現実は決して平坦ではなく、多くの障害が横たわっているにしても、神様がその正しさをもって、平らでまっすぐな道にして下さる、最善をなして下さる、と確信しているのであります。現実を見ていないのではありません。敵の支配によって歪められた現実を見ています。しかしその向うに、神の平らでまっすぐな道が伸びているのを見ているのであります。これは、「神に従う者」(信仰者)の基本的な告白であると言えます。

8節の後半から9節前半にかけてを御覧下さい。こう言われています。あなたの御名を呼び、たたえることは、わたしたちの魂の願いです。わたしの魂は夜あなたを捜し、わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。ここには、「魂」と「霊」という言葉が出て来ます。ここでは二つは同じような意味で使われていると思われますが、これらは「息」とか「呼吸」を示すこともあって、生命の源を表しています。またこれらは、人が神と交わりを持つために神から与えられたものとされています。つまり、神との交わりを持つことが、「息」であり「命」なのであります。神との交わりが切れるならば、生きることは出来ないのであります。ですから、「御名を呼び、たたえることは、わたしたちの魂の願い」と言います。言い換えるならば、<神を礼拝し、賛美することが、生きるための切なる祈りである>、と言っているのであります。「わたしの魂は夜あなたを捜し」とも言っております。「夜」とは、暗闇と悩みの時であります。神の支配が見えにくい中で、暗闇の中に放り出されたような思いをしているのでありましょう。しかし、その中で魂が神を捜し求めているのであります。神との交わりの命が回復されることを願っているのであります。――私たちは苦しみに遭遇した時に、また、神の支配が見えにくい時代の中で、このような魂の祈りをしているでしょうか。神の御名を呼び、たたえることを求めているでしょうか。神を礼拝することによって、命を与えられることを確信し、祈っているでしょうか。「あなたの御名を呼び、たたえることは、わたしたちの魂の願いです。」――すなわち、神を礼拝することは、私たちの霊の命が求めている願いなのであります。この願い、この祈りから、神に従う者の、平らでまっすぐな道が見えて来るのであります。

9節後半では、あなたの裁きが地に行われるとき、世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう、と言われています。神様は私たちの魂の願いを聞いて下さって、「裁き」を行って下さいます。「裁き」とは、「正しいこと」「正義」であります。神様は、この地上において「正しいこと」を行って下さるのであります。そして世界中の人々が、何が正しいことかを学ぶというのであります。

2.敵対する者に向けられる火

何が正しいかが明らかになるということは、何が正しくないかも明らかになるということであり、いわゆる「裁き」という言葉でイメージされるような、悪い部分が取り除かれたり、罰せられるというようなことも起こることになります。

1011節には、「神に逆らう者」すなわち「正しくない者」「悪者」のことが述べられています。まず、神に逆らう者は、憐れみを受けても、正しさを学ぶことがありません、と言われています。ここに「憐れみを受けても」と言われていることに注目したいと思います。これは、「恵みを受けても」とも訳されます。神様は神に逆らう者にも、憐れみ(恵み)を施されるのであります。それにも拘わらず、神に逆らう者は、正しさを学ばないのであります。これは、神の民であるイスラエルに敵対する者たちについて言われていることでありますが、憐れみを受けても正しさを学ばないのは、決して異邦人だけではありません。私たちキリスト者も、この言葉を他人事として聴いてはならないでありましょう。私たちも神の憐れみを受けています。それなのに、感謝もせず、ただ不平を鳴らし、つぶやいてばかりいるとすれば、正しさを学ぶことが出来ません。誤った道へ行ってしまいます。

・続いて、公正の行われている国で不正を行い、主の威光を顧みようとしません。主よ、あなたの高く上げられた御手を彼らは仰ごうとしません、と言われています。正しさを学ばないとか不正を行うということは、単に悪いことを行うということではなくて、「主の威光を顧みようとしない」ことであり、神様の「高く上げられた御手を仰ごうとしない」ことであります。つまり、神を崇め、礼拝することをしない、ということであります。これも、神に敵対する者や、神を知らない人についてだけ言われているのではないと受け止める必要があるのではないでしょうか。礼拝を軽んじて、自分の都合で礼拝したりしなかったりするようなことは、主のご威光を顧みないことであり、主の高く上げられた御手を仰ごうとしないことであります。

・続いて、民に対するあなたの熱情を仰がせ、彼らに恥を受けさせてください、と言っております。直訳では「民の熱情を見て恥じ入る」でありますが、その意味は、「民に対する神の熱情」だと解釈して、このように訳されています。神が民に対して熱情を持っておられるのであります。神に逆らう者もそれを見て恥を受ける、というのであります。しかしその神の熱情に対して、イスラエルの民が熱情をもって応えるならば、それを見て、敵対する者たちを恥じ入らせることが出来る筈であります。そういう意味では直訳の、「民の熱情を見て恥じ入る」でも良いように思います。私たちもまた、神の私たちに対する熱情を仰ぐべきであります。そこから、神を仰ぐ熱情も出て来ます。その熱情は、見る人を恥じ入らせるほどのものであって然るべきであります。神の熱情を受けた人が、礼拝を疎かにしているのを見て、誰が恥じ入るでありましょうか。私たちは、神が私たちに注いで下さる熱情に応えて、私たちも熱情をもって礼拝すべきであります。冒頭で、現代は神の支配が見えにくい時代であるということを申しました。確かに、教会の力は見えにくくなっています。しかし、神様の熱情が見えにくくなっているわけではありません。神様が御子イエス・キリストによって示された私たちに対する熱情は、はっきりしております。見えにくいのは、それに対して応えるべき私たちの熱情であります。

11節の最後には、敵対する者に向けられるあなたの火が、彼らを焼き尽くしますように、との願いが述べられています。「火」は旧約聖書の中では、神の怒りを表わしています。モーセが偶像礼拝について警告した時に、こう言っております。「あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。」――神が民を愛される熱情は、偶像礼拝する者や、敵対する者に対しては、焼き尽くす火となるのであります。イザヤは敵対する者に神の火が向けられることを願っています。しかし、もし自分たち自身が神に敵対している、或いは敵であるべき支配者に服しているのであれば、その火は自分たちを焼き尽くすことになります。だからイザヤはすぐにその後で、神の救いの業に目を向けつつ、願いが聴き届けられる確信を述べます。

3.すべての業を成し遂げられる神

12節でこう言っております。主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなたです。「平和」というのは、前回も申しましたように、「シャローム」であり、それは単に戦争や争いがない平穏な状態を指すのではなくて、真に満ち足りて、生命力がみなぎっている状態を言います。それは人間が満たすものではなく、神から賜わるものであり、神の業によって成し遂げられるものであります。現実は、13節で、あなた以外の支配者が我らを支配しています、と言っているように、大国がイスラエルを支配しております。けれども、その中でイザヤは、しかしわたしたちはあなたの御名だけを唱えます、と告白しているのであります。主が真のシャロームを成し遂げて下さることを信じるからであります。

1415節は、おそらくイスラエルの過去の歴史を振り返りながら、勝利した時のことを述べているのだと思われます。14節で、死者が再び生きることはなく、死霊が再び立ち上がることはありません、と言っているのは、敵の死者のことであります。それゆえ、あなたは逆らう者を罰し、滅ぼし、彼らの記憶をすべて無に帰されました、と、敵が完全に滅び尽されたことを思い起こしているのであります。その一方で、15節では、主よ、あなたはその民を増やされました。あなたはその民を増やし、栄光を示し、その土地の境を四方に広げられました、と言って、神の民イスラエルの繁栄を振り返っております。おそらく、ダビデの時代を思い起こしているのでありましょう。しかしこれらは、単にイスラエルの古き良き時代を懐かしんでいるのではありません。主なる神は、将来において再び、このような業を成し遂げて下さるに違いない、と確信しているのであります。

4.産みの苦しみ

・しかし、目の前の現実は厳しいのであります。16節から18節までは、その苦難の現実を妊婦の出産の苦しみに譬えて語っています。出産の苦しみは、一方では妊婦の命を奪いかねない危険な苦痛でありますが、もう一方では、新しい命を生み出す喜びがまっている苦しみであります。しかし、イスラエルの苦しみは、風を産むようなものだったと言います。結果的に、18節にあるように、救いを国にもたらすこともできなかったのであります。

・現代の教会を取り巻く状況、また私たちの身の回りにある解決の見通しが立たない困難な状況も、風を産むような苦しみなのでしょうか。救いをもたらすことのない空しいものなのでしょうか。

結.光の露
 ・そうではありません。19節でイザヤはこう言っております。

 あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。

・ここでは死者の復活の希望が語られています。イスラエルが苦難を耐え忍んだら、その対価として、イスラエルの再生があるというのではないのです。私たちが苦難の時代を耐えたら、その結果、救いがもたらされるというのではありません。イスラエルも私たちも、塵の中に住まう者でしかありません。主が光の露(命をもたらす力)を送って下さって、死霊の地に降らせられるのであります。12節にもありましたように、すべての業を主が成し遂げて下さるのであります。

20節には、さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ。激しい憤りが過ぎ去るまで、と言われています。神に逆らう者に対する神の激しい憤りが示されます。これは、明らかに出エジプトの時の過越しの出来事を念頭に置いた表現であります。主イエスがその過越しの小羊となって下さいました。21節には、見よ、主はその御座を出て、地に住む者に、それぞれの罪を問われる。大地はそこに流された血をあらわに示し、殺された者をもはや隠そうとはしない、とあります。主なる神は、私たち自身をも含めた人の罪を放置されません。罪を問われます。血が流されなければなりません。しかし、主は、裁きの血を御子イエス・キリストの十字架において流されました。そのことによって、罪の塵の中に住まう者に、光の露が送られたのであります。そして、死すべき者が命を得るのであります。

・現代は神の支配が見えにくい時代であります。神なき力が世界を支配しているように見えます。しかし、真の支配者は主なる神であります。この世の支配者は、一時的に神から支配を委託されているだけであります。彼らは間違いを起こします。それは神によって必ず正されます。やがて神の御支配が誰の目にも明らかになる時が来ます。そのことを私たちに確信させるのが、神が送って下さった「光の露」であります。「光の露」は、この世と私たち自身の罪を滅ぼして、暗闇が支配しているかに見える世界に命の光を輝かしてくれます。この「光の露」を送って下さる神を信じ、主に従う者は、塵の中に住まいながらも、目を覚まして、平らでまっすぐな道を見据えつつ、日々、喜びに満たされて歩むことが出来るのであります。

・祈りましょう。

祈  り
 ・世界を御支配なさっている父なる神様!

・塵の中にあって、光を見失いがちになる私たちに、聖霊において光の露を注いで下さいましたことを感謝いたします。

・どうか、塵の中から立ち上がる者とならせて下さい。どうか絶えず、御名を呼び続ける者とならせて下さい。どうか、あなたが備えて下さる平らでまっすぐな道を歩む者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>     2009年3月29日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書26:7−19
 説教題:「神に従う者の道」
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