「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」               (ヨハネによる福音書9:41

 生まれつき目の見えなかった人は、主イエスによって見えるようにされた事実をユダヤ人たちに証言するうちに、主イエスに対する信仰の目も開かれて、やがて主イエスを「神のもとから来られた」と告白するに至ったが、これを聞いたユダヤ人たちは、彼を会堂から追い出してしまった。こうして彼は、計らずも主イエスの御受難の一端を担うことになった。だが、そのような彼を、主イエスは放っておかれず、探し出して出会われた上、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。これは「ナザレ人イエスを神の子・メシアと信じるか」との意味であり、彼の中に正しい明確な信仰を生み出すための問いかけであった。目の前におられるのが主であると知ると、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。こうして、ユダヤ教の会堂での礼拝から追放された彼は、主イエスを礼拝する者とされた。
 一方、ファリサイ派の人々は、彼の目が見えるようにされたことを受け入れられず、救い主としての主イエスが見えていない。主は「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われた。かつて「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためでなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ317)と言われていた。だが、その主を受け入れない者は、結果的に裁かれねばならない。ファリサイ派の人々は、自分たちこそ律法に通じており、救いに至る道が見えていると自負していた。その誇りが、彼らの信仰の目を覆っていたのである。主は彼らについて、標記のように語られた。私たちは、主イエスと出会って信仰の目を開かれた者であるが、「見える」ことを誇り、安心している間に、目が曇り、主イエスが見えなくなっていないだろうか。礼拝において「あなたと話しているのがその人だ」と言って下さる主の前にひざまずくのでなければ、真実は見えなくなってしまうのだ。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年3月22日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書9:35−41
 説教題:「見えると思う罪」
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