序.外に追い出されて

・主イエス・キリストの御受難を覚えるレント(受難節)も半ばを過ぎました。皆さんはこの期間をどのように過ごしておられるでしょうか。聖書の中の受難物語を読んで、主イエスのお苦しみを偲ぶというのも一つの方法かもしれません。初代教会では、この時期に断食をして主のお苦しみを偲んだと伝えられています。この期間は、レジャーを楽しむことを避けたり、禁酒するというのも一つの過ごし方かもしれません。最近ではそういうことを実施しているという話をあまり耳にしなくなりましたが、普段と同じような生活をしているというのでは、レントが設けられている意味がないと言えるでしょう。

・主イエスの御受難を覚えると言っても、ただ主イエスの十字架のお苦しみを想像して、さぞや苦しかったであろうと同情するだけでは、あまり意味がないのであって、やはり、自分たちも十字架の苦しみの一端を体験することによって、身をもって御受難を覚えることが出来るのではないでしょうか。とは言っても、断食や禁酒のように、楽しみを断つことをしただけで、主の御受難を味わえるというものでもないように思います。十字架というのは、もちろん、肉体的な苦しみの最たるものでありますが、それと同時に、主イエスの十字架は、人に捨てられるという、大きな精神的苦痛を伴うものでありました。

・そのような主イエスの十字架のお苦しみを、私たちが体験することなど、とても出来ないのでありますが、この受難の主イエスを受け入れるということは、ある意味で私たちも人々から捨てられることになるのだ、ということを知らなければなりません。この世の多くの人たちは、今も、主イエスを受け入れていません。その中で主イエスを信じるということは、多くの人たちから引き離されることを意味します。

・ところで、ヨハネによる福音書第9章は、生まれつき目の見えなかった人が、主イエスによって目を開かれるという奇跡の出来事から始まって、主イエスを敵視していたファリサイ派の人々を中心とするユダヤ人たちと、目を開かれた人とのやりとりの中で、目を開かれた人が、肉体の目だけでなく、次第に心の目(主イエスに対する信仰の目)も開かれていく様子が記されているのであります。彼は自分の目が主イエスによって見えるようにされたという事実を語るうちに、ついに主イエスが「神のもとから来られた」お方であることを告白するに至るのであります(33節)。

・しかし、当時既にユダヤ人たちは、主イエスをメシアと告白する者がいれば、会堂から追放して、いわば村八分にすることを決めておりましたので(22節)、目を開かれた人は、会堂から追い出されてしまいます。こうして彼は計らずも、主イエスとともに十字架への道を歩むことになるのであります。もちろん彼が十字架を負うわけではありませんし、彼のこれ以降の人生は主イエスと同じ苦しみに満ちたものではなかったでありましょう。むしろ、目が見えるようにされ、心の目も開かれた喜びに満ちた人生が始まったのではないかと想像されますが、主イエスの恵みを受けた者は、同時に、主イエスを受け入れない人々からは追い出されて、主イエスの十字架の御受難の一端を担わなければならない、ということにもなるのが必定であります。

・そういう意味で、この目を見えるようにされた人は、主イエスの恵みを受けて主イエスを信じるようになった人々の代表であり、典型的な受難節(レント)の人物ということが出来るのであります。

・では、このあと、この人はどうなったのか、――そのことが今日の聖書の箇所(935節以下)に記されています。ここから、レントの中にある私たちが受けるべき恵みと、この時期を私たちがどう過ごすべきかを聴き取りたいと思うのであります。

1.主が見出してくださる

35節には、こう書かれています。イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

・主イエスが、生まれつき目の見えなかった人に「シロアムの池に行って洗いなさい」(7節)と言われてから、主はどうしておられたのか、聖書には何も書かれていませんが、この人のことを心配されていたであろうことは、十分想像がつきます。

やがて、主イエスは、この人がユダヤ人の会堂から外に追い出されたことをお聞きになりました。この翻訳では、そこで文が一旦切れて、「そして彼に出会うと」と続いていますが、原文では、一つの文章で、主イエスは、お聞きになるとすぐ彼に出会われたのであります。それも、「出会われた」という訳になっておりますが、原文は「見つけ出す」とも訳される言葉であります。主イエスは、彼が会堂から追い出されたということをお聞きになると、すぐに彼を探して、見つけ出されたのであります。たまたま出会ったというようなことではなかったと思われます。主イエスは、主を告白したがために追い出された人を、放ってはおかれません。見つけ出して出会って下さるお方であります。

・私たちもまた、主イエスによって救われ、信仰の目を開かれた者であります。しかし、目を開かれた者は、人々の前で主を告白せざるを得ない者とされます。すると、ここで言う「追い出される」というようなことが起こされるのであります。信仰を持たない人たちからは、はみ出ざるを得ないのであります。もし、信仰を持っていると称しながら、他の人たちと何ら矛盾なく、同じような生活を続けているとすれば、その人の信仰は本物でないと言わざるを得ません。信仰が本物であれば、その人の生活は信仰を持たない人たちと一緒ではあり得ないのであります。

・けれども、信仰を持った人は人々から追い出されて、孤独な戦いを強いられるということではありません。主イエスが、追い出された者を見つけ出し、出会って下さるのであります。

2.主よ、信じます

・主イエスは目が見えるようにされた人に出会われると、「あなたは人の子を信じるか」と問われました。この原文では「あなた」が強調された言い方になっております。「他の人はともかく、あなたは信じるか」と問われているのであります。自分自身の覚悟が問われる、厳しい問いかけであります。

・「人の子を信じるか」という問は、「人間としてこの世に来られた主イエスを、神の子、キリスト(メシア)と信じるか」という問いかけであります。弟子たちでさえ、この問いかけにはっきりと答えられたかどうか分からないくらいの、厳しい問いかけであります。けれども、この問いかけは、ただ人を問い質すような、突き放した問いかけではありません。彼を正しい認識へと導くための問いかけであります。主イエスが彼の中に明確な信仰を生み出そうとして問いかけておられるのであります。

・彼は、主イエスのことを、これまでにも聞き及んでいたでありましょうし、先に声は聞いていたのでありますが、開かれた目で主イエスを見るのは、これが初めてであります。ですから、今、目の前にいる方が主イエスだとは気がついていないのであります。そこで、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えます。原文でははじめに「そして」という語が付いていて、「主よ」という語が後になっていまして、直訳すると、「そして、その方はどんな人ですか、主よ、その方を信じたいのです」となります。この言い方には、彼のせき込むように求める気持ちが表れています。ある人はこれを、サウロがダマスコに行く道で天からの光に照らされて「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」という声が聞こえた時に、「主よ、あなたはどなたですか」と叫んだことや、パウロがフィリピの牢に繋がれていた時に地震が起こって、囚人たちの鎖がはずれたことに驚いた看守が、パウロたちに「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と言ったことに似ている、と言っております。つまり、自分に対して圧倒的な人格が迫っていることを感じて、その力に吸い寄せられるようにして叫んでいる、ということであります。

・この言葉に対して主イエスもすぐに、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と、力強く答えられました。主イエスが、御自身がメシアであることを、これほどはっきりと言われるのは、珍しいことであります。

彼はすぐに、「主よ、信じます」と言って、主の前にひざまずきました。「ひざまずく」というのは、<礼拝する>という言葉であります。彼は、遂に、主イエスを礼拝するところまで導かれたのであります。

振り返りますと、彼は、近所の人々や、ファリサイ派の人々から色々と問われました。そのことによって、次第に信仰の目が開かれて来ました。そして今、決定的な主イエスの「あなたは人の子を信じるか」という問の前に立たされて、信仰の完成へと導かれたのであります。彼は主イエスのなさったことを証言したことによって、会堂から追い出されました。ユダヤ人としての礼拝の場所から追放されたのであります。しかし今、主イエスの前にひざまずいて礼拝する者とされたのであります。ヨハネによる福音書が書かれた第1世紀の終わり頃には、ユダヤ教によるキリスト者排斥がはっきりして来た時期でありまして、筆者ヨハネは、この目を開かれた人の礼拝が、キリスト教の礼拝の先駆けであったのだ、という思いをもって記しているのであります。

3.裁くため

39節以下は、この第9章の総括に当たる部分に入りますが、39節で主イエスは、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」とおっしゃいました。生まれつき目の見えなかった人は、肉体の目が見えるようになると共に、主イエスを主と仰ぐ信仰の目も見えるようになったのでありますが、逆に、ファリサイ派を中心とするユダヤ人たちが主イエスを見る信仰の目は、閉じられてしまうのであります。

・「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」という主のお言葉は、大変厳しい言葉でありますし、主イエスのこれまでのお言葉と矛盾しているようにも聞こえます。317節では、私たちもよく知っている次のような言葉を語っておられます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」これと今日の言葉は矛盾のように聞えます。

しかし、これは矛盾ではありません。317節の言葉は、主イエスがこの世に来られた目的を述べておられるのであります。主イエスはあくまでも、世を救うために来られたのであって、裁くことを目的に来られたのではありません。けれども、結果的には、ファリサイ派の人々のように、主イエスを受け入れることが出来ない人は、裁かれざるを得ないのであります。主イエスを受け入れないで救われる、ということはあり得ないからであります。神様の御意志は、あくまでも「万人救済」なのであります。しかし、主イエスを信じないで救われる道を、神様は用意されませんでした。ですから、万人が救われるわけではないのであります。主イエスを信じないが、裁かれもしないというような、中立の道はありません。主イエスを見ない者は、神の国を見ることは出来ないし、永遠の裁きに入らざるを得ないのであります。

4.見えると思う罪

40節以下には、ファリサイ派の人々と主イエスの問答が記されています。彼らは目を見えるようにされた人と主イエスの問答を聞いておりました。彼らは「我々も見えないということか」と言っております。彼らは39節の主イエスの言葉は、自分たちのことを言われているのだということが分かったようであります。しかし彼らは、主イエスの言葉でもって、心配になったので、「我々も見えないということか」と尋ねているのではなさそうであります。むしろ、自分たちこそは神様のことが分かっており、救いに入れられるのは自分たちだという誇りを抱きながら、<そのような我々を見えないなどと言うのか>と、食って掛かっているのであります。彼らは見えていると思っているのであります。そこに彼らの問題があります。

・そこで主イエスは41節でこう言われます。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」――生まれつき目の見えなかった人を、弟子たちは(そしておそらくユダヤ人たちも)、本人か両親に罪があると考えました。しかし主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」(3節)とおっしゃいました。生まれつき目の見えなかった人は、肉体的に目が見えなかったばかりでなく、心の目も見えていませんでした。しかし、それは罪のせいではなかったと主は言われたのであります。ここでもファリサイ派の人々に対して主イエスは、もし彼らが「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」と言われます。彼らが律法のことも知らず、また主イエスのことも知らずにいたのであれば、彼らにも罪はなかった筈であります。

・ところが彼らは、律法を知っており、彼らは救いに至る道が見えていると自負していたのであります。主イエスに出会ってからも、自分たちの方が正しくて、主イエスは間違っていると、自分たちこそ見えているつもりでありました。目を見えるようにされた人は、肉体の目を見えるようにされたことで、信仰の目も見えるようにされましたが、ファリサイ派の人々は、そのことが見えておりませんでした。そのようなファリサイ派の人々に対して、主イエスは「だから、あなたたちの罪は残る」とおっしゃいます。彼らには主イエスの救いが見えていないのであります。自分を誇る罪が、彼らの目を覆ってしまっているのであります。

・私たちはどうでしょうか。私たちは、生まれつき目の見えなかった人と同様に、元は、信仰の目が開かれていなかったのでありましたが、幸いなことに、主イエスが私たちに出会って下さったことによって、目が見えるようにされた者たちであります。

・それならば、私たちの目はずっと見えているのでしょうか。そして、主イエスのお姿をはっきりと捉えることが出来ているのでしょうか。それとも、いつのまにかファリサイ派の人々と同じように、「見える」と思っている間に、目が曇ったり、まどろんだりしてはいないでしょうか。自分を誇る罪が、目を曇らせてしまって、主イエスが見えなくなってしまっていないでしょうか。――

・信仰を与えられた者が、生涯信仰の目を開き続けることは、決して容易でないことを、私たちは多くの実例で知っております。受洗した頃の新鮮な喜びが、他の関心や忙しさなどにかき消されて、いつのまにか御言葉への渇きを覚えなくなってしまうことがあります。逆に、信仰生活を突き進むのはよいのですが、信仰者や教会のあり方について自分なりの基準が出来上がってしまって、自分を誇り、人を裁いてしまうということも起こるのであります。他人の罪はよく見えるが、自分の罪が見えなくなるのであります。私たちは自分が「見える」と言って自らを誇っていないか、主イエスのこの御言葉をいつも思い起こす必要があります。

結.あなたと話しているのが、その人だ

・そして、この生まれつき目の見えなかった人が、どのようにして信仰の目を見えるようにされたかということを思い出す必要があるように思います。

・彼は主イエスによって目が開かれたという、恵みの原点に立ち続けました。そうすることによって、誰が何と言おうと揺らぐことがありませんでした。私たちが立つべき原点も、主イエスがなして下さった十字架と復活の恵みの出来事であります。その原点に立ち続けるならば、主イエスが見えなくなったり、他のものに心を奪われるということがありません。

・この原点に立つということは、目を見えるようにされた者がそうであったように、周囲から様々な抵抗を受けることにもなります。遂には、それまでの居場所から追い出されるということもあり得るのであります。私たちは、そういうことに極めて弱いのであります。家庭が大事、仕事が大事、生活が大事ということになってしまいます。しかし、会堂から追い出された人を、主イエスがもう一度探して見つけ出して下さったように、主のために苦しんでいる人を決してお見捨てにならず、出会って下さるということであります。主は、礼拝において、御言葉において出会って下さいます。そして、「あなたと話しているのが、その人だ」と言って下さるのであります。そのようにして、主は私たちの信仰の目をいつも呼び覚まして下さるのであります。この主の前にひざまずいて、御言葉に耳を傾けることなしに、自分で何かが見えていると思うならば、何も真実が見えていないことになってしまいます。
・祈りましょう。

祈  り
 ・主イエス・キリストの父なる神様!御名を賛美いたします。

・今日も御言葉によって、聖霊にあって、主が私たちに出会って下さいましたことを感謝いたします。

曇りがちな目を絶えず目覚めさせて下さい。見えているとの錯覚や自惚れから解放して下さい。弱く、惑わされやすい者であります。どうか、絶えず私たちをあなたの御前に引き出して下さい。

どうか、このレントの季節に、主の御受難の恵みを深く覚えさせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>     2009年3月22日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書9:35−41
 説教題:「見えると思う罪」
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