序.大人の信仰へ

・ヨハネによる福音書9章は、生まれつき目の見えなかった人が、主イエスによって、見えるようにされたことから始まって、その人が近所の人々やファリサイ派の人々とやりとりする中で、次第に心の目(信仰の目)が開かれて行ったことが記されています。

・彼は目が見えるようになったことを喜んだには違いないのですが、どうも最初のうちは、主イエスとの関係が生まれたことを、それほど重大なことと受け取っていなかったふしがあるのですが、先週聴きましたように、近所の人たちやファリサイ派の人々から「お前の目がどのようにして開いたのか」と尋ねられて、目が見えるようになった経緯を話す中で、この人の中で主イエスの存在が次第に大きくなって来たのであります。そして、先週の最後の17節では、彼は主イエスのことを、「あの方は預言者です」と言うに至るのであります。これはまだ信仰告白としては、必ずしも的確とは言えませんが、主イエスに対する一定の信頼を表明した言葉であると言えます。

・しかし彼がこの言葉を述べたのは、主イエスに敵対しているファリサイ派の人々に対してでありました。彼らはまだ、主イエスによって目が開かれたという事実に疑問を持っています。彼らの中でも意見が分かれていたようであります。

・そこで今日の箇所ではまず、盲人であった人の両親が呼び出されます。そして19節にあるように、「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は見えるのか」と問います。生まれつき目が見えなかったというのは、本当かどうか、また、どのようにして見えるようになったのかを、確かめようとしているのであります。両親は彼が確かに生まれつき目の見えなかったことを証言しますが、「どうして今、見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもへ分かりません」と答えます。両親は現場にいたわけではないので、分からないというのが正直なところでありましょう。主イエスの指示に従って見えるようにされたということは、本人や人々から聞いていたでしょうが、そのことは敢えて言っておりません。それは、自分たちが見たわけではないので、責任をもって言えないということもあるでしょうが、もっと大きな理由がありました。22節にはこう書かれています。両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。――「会堂から追放する」というのは、単に会堂へ入れてもらえないだけではなくて、ユダヤ人の社会から村八分にされる、ということを意味します。そうすると、生活することさえ困難になるのであります。それで両親は主イエスのことに関わるのを避けたのであります。

・そして両親は21節の終わりで、こう言っております。「本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」――この言い方は、いかにも卑怯な責任逃れをしていると言われても仕方がないでしょう。生まれつき目が見えなかった息子が見えるようにされて、一家に大きな喜びがもたらされたのですから、イエスという方によってそうしていただいたということを、堂々と証言してほしい気がします。ユダヤ人たちの間に誤解があるなら正してほしいと思います。本人だけがいじめられるのではなくて、両親も一緒に戦う愛情がなかったのかと批判したくもなります。しかし、両親は直接現場を見たわけではないので、証言にはならないのも事実であります。主イエスは、他の人に現場を見せられなかったのであります。本人だけが、主イエスとの特別な関係に入れられたのであります。彼は両親の助けを得ずに、主イエスとの関係を証して行かなければならなくされたのです。

・両親は、「もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と言っております。これは、責任逃れの言い方かもしれませんが、信仰のことは本人が決断するしかないということも真理であります。信仰は、人の助けで持つものではありません。もちろん、両親や周りの人の温かい配慮によって、信仰に導かれるということはあります。しかし、信仰というのは、最後は、自分が責任を持たねばならないことであります。信仰を持つことで辛いことがあったとしても、自分が負わねばならないことであって、逃げることは出来ません。それが大人の信仰であります。今日の箇所は、この人が、大人の信仰へと導かれて行く過程が描かれています。この箇所を通して、私たちもまた、大人の信仰へと成長したいと思うのであります。

1.ユダヤ人たちの前で

・さて、ユダヤ人たちは、両親に尋ねても、本人が生まれつき目が見えなかったということがはっきりしただけで、埒が明かないので、もう一度本人を呼び出します。ここで「ユダヤ人たち」と書かれているのは、前回の箇所で「ファリサイ派の人々」と書かれていた人たちが中心と考えられます。24節を見ると、彼らはこう言います。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」――ここで「神の前で正直に答えなさい」というところは、原文では「神に栄光を帰するがよい」という言葉です。口語訳聖書ではそのまま訳されていました。しかし、この言葉は法廷などで証言をさせる場合に使われた言い方で、その意味するところは、「神の前で真実を語れ」ということですので、新共同訳では「神の前で正直に答えなさい」と訳されているのであります。盲人であった人は、今、一人の大人として、責任ある発言をすることを求められているのであります。彼は人を憚ることなく、ただ神に栄光を帰するために真実を語ればよいのであります。

・ところがユダヤ人たちはその後で、「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」と言っております。彼らは盲人であった人の答を聞く前に、自分たちの答を出してしまっているのであります。彼らはイスラエルの伝統的な信仰に立っていると自負している人たちです。彼らの考えによれば、9章のはじめの箇所で、弟子たちも言っていたように、生まれつき目が見えないのは、本人か両親が罪を犯したためであって、そのような人の目を見えるようにするということは、罪を赦すことになるわけで、神様を差し置いて、普通の人間にはそんなことは出来ないし、してはいけないことであったのであります。その上、目が見えるようにするに当たって、イエスは土をこねたらしい。土をこねるのは安息日に禁じられている労働にあたる。そういうことをする者は罪ある人間でしかあり得ない。――これが正統派ユダヤ人たちの考え方であったのであります。盲人であった人もユダヤ人でありますから、そういう伝統的な考え方は知っているはずであります。しかし同時に、主イエスが目を見えるようにして下さったという新しい真実を身に帯びながら、答を求められているのであります。

2.今は見える

25節で彼はこう答えております。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」――実に明解な答えであります。「あの方」と言って、「イエス」という名を言うことは避けていますが、目が見えるようになったのに主イエスが関わっておられることは、ユダヤ人にも分かっていたことであります。「罪人かどうか、わたしには分かりません」と言っているのは、<あなたがた偉い先生たちが律法に照らしながらあれこれおっしゃるのは、私たちがあずかり知るところではありません>という意味でしょう。そして彼は、自分が知っていること、自分が主イエスによってなされた事実だけを語ります。それは「今は見える」という事実でありました。こう明言することによって、彼は文字通り神に栄光を帰しているのであります。

・「今は見える」ということは、単純に物理的な(肉体的な)事実を述べているのでありますが、それ以上の重要なことを意味しています。彼はこう言うことによって、主イエスが見えているのであります。主イエスが自分や両親の罪を赦して下さるお方であるということが見えているのであります。それに反して、ユダヤ人たちは、主イエスが現に生まれつき目の見えなかった人の目を見えるようにしておられるのに、その事実をまともに見ることが出来ないでおります。従って主イエスがどのようなお方であるのか、主イエスがここで何をなさったのか、つまり主イエスが罪をも赦すことがお出来になる方だということが見えていないのであります。

・信仰の目が見える、見えないというのは、こういうことであります。私たちに対しても、神様は既に、主イエスによって救いの業をなして下さいました。誰もが否定出来ないように、歴史的事実として2000年前に行なって下さいました。そのことは弟子たちやその他の人々によって聖書の中に証言されています。しかし、多くの人はそれをまともに見ようとしないのであります。自分たちの生半可な科学的な知識とか、周囲の伝統的な考え方とかに囚われて、真実が見えていないのであります。また、もし、まともに見るなら、自分のこれまでの生活を変えなければならないのが恐ろしくて、まともに見ようとしないのであります。ユダヤ人たちと同じであります。

・しかし、盲人であった人は、主イエスによって目が見えるようにされて、主イエスというお方をまともに見るしかない立場に追い込まれました。そして、主イエスに敵対する人の前でも、堂々と自分が見ている真実を述べることが出来ました。信仰の大人になるということは、こういうことであります。何も、小難しい神学論を展開したり、堅い信念のようなものを獲得することではなくて、神様が備えて下さった事実を、たとえそれを述べることが自分にとって不利になるとしても、語らざるを得なくされること、これが大人の信仰であります。この盲人であった人は、自分で何か努力したわけではなくて、真実を語るしかないところへと主イエスによって追い込まれたのであります。私たちもまた、神様がなさって下さったことを、虚心坦懐に見て、その事実をそのままに、それこそ「神の前に正直に答える」ならば、責任ある大人の信仰を持っていることになるのであります。

3.弟子になりたいのですか

・目を見えるようにされた人が、事実に基づく明解な証言に対して、ユダヤ人たちはなお、主イエスの律法違反の行為を言わせようとして、こう言います。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」――彼らは、主イエスが目を見えるようにされた事実をまともに見ようとはせず、ただ、「土をこねた」という行為だけを問題にしようとしているのであります。

・それに対して彼は、少々苛立ちながら、こう答えました。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」――ここで、「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と皮肉混じりに言っていることは、巧まずして、彼の立場についての重要な認識を示していると言えるのではないでしょうか。ここで「あなたがたも」と言っているのは、<私と同じようにあなたがたも>ということではないでしょう。<主イエスの他の弟子たちと同じようにあなたがたも>という意味でしょう。しかし、主イエスによって目が見えるようにされるという事実に直面するということは、主イエスの弟子になること、つまり主イエスと永続的な関係を持つ者とされたということだと認識していることを示しています。彼はもう、完全に主イエスの側に立っているのであります。ここに、彼の信仰の著しい成長を見ることが出来ます。

・教会に来て、主イエスのなさったことや言われたことを聞き、それに興味を抱きながら、弟子にはなり切れない人がいます。主イエスから何か自分に益になるものを受けようとしながら、いざとなると距離を置いてしまうということがあり得ます。私たちも、うっかりすると、そういう信仰に陥ってしまいます。大人の信仰を持つとは、主イエスにも支配されない自分の立場を確保した上で、主イエスから良いものだけを得ようとするようなことではなくて、主イエスの弟子になり切ること、主イエスに身を預けることであります。それは自分を失うことではなくて、主イエスのもとにある本当の自分を発見することであります。

4.神のもとから来られた

・さて、目が見えるようにされた人から、思いもかけない挑戦を受けたユダヤ人たちは、彼をののしってこう言います(2829節)。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」――主イエスは以前にも(6章)、五千人の人々にパンを与えたことから、モーセがマンナを与えたことと比較されたことがありましたが、ここでもモーセと主イエスが二者択一的に捉えられています。

・ユダヤ人たちは「神がモーセに語られたことは知っている」と言っております。これは、自分たちは律法に通じているということを誇らしげに言っているのであります。しかし、主イエスはモーセの律法を成就するために来られた方であって、主こそが律法の主であり、モーセの主であり給います。彼らが主イエスを知らないのは、本当の意味では律法を知らないのであります。

・これに対して、目を開かれた人は、ユダヤ人を恐れず、堂々と反論します。30節から33節で彼が言っていることは、こういうことです。<あなたがたは主イエスを罪ある人間だと言っているが、神様は罪人の言うことはお聞きにならない。主イエスが生まれつき目の見えなかった自分を見えるようにされたのは、神様の御心に適っておられるお方だからだ。主イエスは神様のもとから来られた方だからこそ、私の目を見えるようにされたのだ。>このように彼は、主イエスを正しく認識しています。ユダヤ人たちは、主イエスがなさった出来事の事実を目の当たりにしながらも、主イエスを見る目が曇っていて、主イエスを正確に捉えることが出来ていないのに対して、盲人であった人の心の目(信仰の目)は、はっきりと主イエスを見ることが出来て、「神のもとから来られた」と告白するまでに、確実に成長しております。

・彼は生まれつき目が見えなかったのですから、十分な教育を受けられなかったでありましょう。相対しているファリサイ派のユダヤ人たちとは大違いであります。また、社会的地位からすれば、相手とは雲泥の差であります。そういう相手に向かって、彼は堂々と告白することが出来ました。信仰の目が開かれたからであります。私たちもまた、神の真実に出会い、信仰の目が開かれるならば、如何なる権力の前でも、如何なる圧力の前でも、また、如何なる不利益が予想されるとしても、堂々と主イエスを「神のもとから来られた」お方として告白することが出来るのです。

結.会堂からの追放――新しい礼拝へ

・最後に34節を見ますと、彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々を教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した、と記されています。――ユダヤ人たちは彼が生まれつき目の見えなかったのは、人間の罪の結果であると見ています。確かにそうなのかもしれません。しかし、彼は主イエスによって目がみえるようにされたばかりか、心の目も開かれたのであります。それは主イエスによって罪が赦されたということであります。赦された者は、人に真実を「教える」ことが出来る者とされます。

・しかし、ユダヤ人たちは、彼らの権力でもって、彼を会堂から外に追い出します。これは、最初にも申しましたように、単にこの時、会堂の扉の外に追い出されたということではなくて、ユダヤ人の社会から締め出されるということであります。ユダヤ人たちの仕方で神を礼拝し、生活することから締め出されたのであります。けれども、それは主イエスの御名によって礼拝し、生活する新しい生き方を始めることでもあります。彼は、目が見えるようになって、これまでとは全く違う新しい生活が始められるようになったのでありますが、その上、心の目も開かれて、肉体の目が開かれた以上に、新しい世界が開かれ、罪から解放された新しい人生が始まることになるのであります。

・私たちもまた、主イエスがなさった御業を見ることが許された者として、信仰の目を開かれた者たちであります。信仰の目が開かれた以上、もはや、古い生き方に留まることは許されません。そこから締め出されて、新しい礼拝による新しい生き方へと導かれたのであります。再び信仰の目が閉じられたり、まどろんでしまうようなことがないように、絶えず御言葉と聖霊によって、目が開かれているように、祈りたいと思います。
・祈りましょう。

祈  り
 ・憐れみ深い父なる神様!

・生まれつきの罪の中にあって、心の目が閉ざされていた者でありますが、主イエスによって、あなたの恵みの真実を見る目を開いて下さいましたことを感謝いたします。

・しかしなお、私たちの目はまどろみがちでございます。どうか絶えず、御言葉と聖霊によって、目を覚ましていることが出来るようにして下さい。どうか、信仰から信仰へと成長させて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2009年3月15日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書9:18−34
 説教題:「信仰の成長」
          説教リストに戻る