そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。    (ヨハネによる福音書9:17)

 生まれつき目が見えなかった人が、主イエスによって目が見えるようにされた出来事は、肉体の目だけでなく、心の目をも開くことになる。
 目が見えるようになって帰って来た人を見て、近所の人々は、それが本人であるかどうかを怪しんでいると、彼は「わたしがそうなのです」と言った。これは事実を確認しただけの言葉であるが、主イエスを証しすることになり、この言葉によって、彼は主イエスと関わり続ける新しい生き方を始めることになった。近所の人々が好奇心から、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と問うのに対し、彼は、「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」と、自分が経験した事実を淡々と述べる。だが、「シロアム」とはユダヤ人にとって救いの場所を意味し、間接的に主イエスが救い主であることを証ししたことになる。こうして、彼の中で主イエスの存在が次第に大きくなる。
 次に、人々は彼をファリサイ派の人々のところへ連れて行く。彼らは、主イエスが安息日に「土をこねた」ことと、しるし(奇跡)を行った事実との間で判断に苦しんで、盲人であった人に「お前はあの人をどう思うのか」と尋ねると、彼は臆することなく、「あの方は預言者です」と答える。これは、信仰告白としては未熟であるが、主イエスへの信頼を表明したもので、信仰の大きな進歩と言える。こうして彼の心の目(信仰の目)は次第に開かれて行くのである。
 の人と同様、私たちも、最初は主イエスに救われることも、信仰も求めていなくても、主の方から関わって下さるならば、やがて少しずつ私たちの心の目(信仰の目)が開かれ、神の業を現す者とされている(9:3)ことに気付くのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>      2009年3月8日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書9:8−17
 説教題:「信仰の目を洗う」
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