序.どうして見えるようになったのか

・ヨハネによる福音書9章は、生まれつき目が見えなかった人が主イエスによって目を開かれたという奇跡の出来事と、その出来事を巡って、ファリサイ派の人々を中心とするユダヤ人と、目を見えるようにされた人とのやりとりが記されていて、最後に主イエスがもう一度登場されるのですが、そこまでの過程を通じて、目を見えるようにされた人が、肉体的な目が見えるようにされただけではなくて、心の目(信仰の目)が見えるようになっていく様子も読み取れるのであります。私たちはここから、信仰の目が開かれるということはどういうことなのか、どのようにして信仰の目は開かれるのか、ということを教えられるのであります。

・ですから、そのことを学ぶには、9章全体を見ないといけないのでありますが、そこには非常に豊かな内容が含まれていますので、敢えて4回に分けて聴いて行こうと考えております。そのうち、今日は、前回のテキストに含めていながら、触れる余裕がなかった8節から12節までと、13節から17節までの箇所を中心に学びたいと思います。

8節から12節までの箇所では、生まれつき目が見えなかった人の近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見た人々とのやりとりが記されていますが、その中の10節で、彼らは「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と尋ねています。また、13節から17節までの箇所では、ファリサイ派の人々とのやりとりが記されていますが、その中の15節では、彼らは「どうして見えるようになったのか」と尋ねています。近所の人たちとファリサイ派の人々とでは、後で述べますように、質問の動機は異なるのでありますが、尋ねていることは、生まれつき目が見えなかった人が、どうして見えるようになったのか、その不思議な出来事の真相であります。

・彼らは、肉体的な目が見えるに至った真相を尋ねているのであり、目を開かれた人は、彼が体験した客観的な経緯を答えているだけなのでありますが、実は、このやりとりを通して、彼自身の心の目(信仰の目)も次第に開かれて行くのであります。私たちはこの出来事を通して、主イエスは生まれながら目が見えなかった人の肉体的な目を見えるようにされたばかりでなく、本当の狙いは、この人の心の目(信仰の目)をお開きになることにあったことを知るのであります。前回、3節のところで主イエスが、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃったことを聴きました。この「神の業」とは、単に肉体の目が開かれるということだけではありません。この人の心の目が開かれることこそ、「神の業」であったのであります。

・ですから、今日私たちが与えられた箇所から聴き取らねばならないのも、この人の肉体的な目が「どうして見えるようになったか」ということだけでなく、心の目(信仰の目)が「どうして見えるようになったか」ということであり、そのことは、ただこの人だけの問題ではなく、私たちの心の目(信仰の目)が「どうして見えるようにされるのか」が語られているということであります。

・生まれつき目が見えない人は、光のない暗黒の世界に住んでいました。私たちは幸い肉体の目は開いていて、光の恩恵を受けているのでありますが、信仰の目はちゃんと見えているのでしょうか。ひょっとすると、まだ光のない暗黒の世界に住んでいるかもしれませんし、心の目は開いていたとしても、まどろみがちで、真実の世界がよく見えていないのではないでしょうか。――今日は、<私たちの心の目がどうしてはっきりと見えるようにされるのか>、そのことを、この箇所から聴き取りたいと願っております。

1.わたしがそうなのです

・さて、生まれつき目が見えなかった人は、主イエスが唾でこねた土を目に塗られて、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われると、言われるままにシロアムの池に行って洗うと、目が見えるようになったのでありますが、7節の終わりを見ますと、目が見えるようになって、帰って来た、と書かれています。どこへ帰ったのか、道端で物乞いしていて、主イエスが彼を御覧になった場所に帰ったのか、それとも自宅に帰ったのか、はっきりしませんが、8節を見ると、近所の人々が不思議がっていますので、恐らく自宅に帰って来たのでしょう。主イエスの所へ帰って行って、お礼の一言も言うのが当たり前だと思うのですが、恐らく主イエスは、もう元の場所にはおられなかったのでありましょう。

・彼のことをよく知っている近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々は、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言いました。彼らは、まだ目が見えるようになったことを祝福するところまで行っておりません。むしろ、これまで目が見えなかった本人であるのかどうか、信じられない思いで、「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいたのであります。

そこで本人が、「わたしがそうなのです」と言います。これは、<自分が生まれつき目の見えなかった者であり、座って物乞いをしていた本人である>、という意味です。当たり前の、何でもない言葉のようでありますが、非常に重要な意味を持っています。というのは、この言葉は、目が見えるようになったのは、主イエスによるのだ、ということを証しすることになるからであります。主イエスはユダヤ人の指導者たちからは、敵視されていました。この目を開かれた人がそういう事情を知っていたかどうかは分かりませんが、この後、主イエスによって目を開かれたことを証し続けることになって、遂に、この人もユダヤ人の会堂から追放されることになったことが34節に記されているのであります。もしこの人が、これ以上主イエスと関わることを避けて、「わたしはそれでない」と言ったなら、過去の自分を捨てて、全然別人として生きて行くことも出来たかもしれません。しかし、この人は、過去の自分を捨て去るのではなく、また主イエスとの関係を葬り去るのではなく、主イエスによってもたらされた新しい現実に従って生き始めているのであります。そのことを本人がどれほど自覚していたかどうかは別にして、とにかく、主イエスによって救われた者として、主イエスと関わり続ける生き方が始まっているのであります。そのことが、「わたしがそうなのです」という何でもないような言葉で、確立しているのであります。

・このことは、私たち自身の救いについても当てはまることであります。この生まれつき目が見えなかった人は、自分の方から目が見えるようになることを望んで、主イエスに接近したのではありませんでした。主イエスが弟子たちの質問に答えるかたちで、この人の上に神の業を現れるようにされたのであります。私たちの場合も、自分から救いを求めたと思っている方もおられるかもしれませんが、実は、神様の方から、神の業が現われる対象として選んで下さったのであります。そして、色々な条件が整えられて、主イエスとの出会いが起こったのであります。私が救いを選び取ったと言うよりも、いつの間にか、心の目を開かれる者とされていたのであります。その現実を否定して、主イエスとの関係がなかったかのように振舞うことも出来ないわけではありません。しかし、それは、神様のなさっている現実とは違う道を無理矢理歩むことになってしまいます。神様が用意して下さった現実を受け入れて、その現実に従って歩むのが、「わたしがそうなのです」と述べる道であります。

更に付け加えて申しますならば、この「わたしがそうなのです」という言葉は、原文では、858節で主イエスがおっしゃった「わたしはある」という言葉と同じで、英語で言えば、「I am」であります。この言葉は、このヨハネ福音書では重要な場面で何度も出て来た言葉で、旧約聖書の中で示された神様のお名前としての「わたしはある」にも通じる言葉であって、主イエスの神様としての存在を示す言葉であります。それと同じ言葉を、目が見えるようにされた人が使っているということは、本人が意識しているわけではないとしても、神様としての主イエス・キリストと切り離せない存在であるということを表しております。

2.シロアムに行って

・次に進みますが、この人がそう言いますと、10節にあるように、人々は、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と問います。本人が自分だと言っているのですから、人々は<それはよかったですね>と祝福すべきところでありますが、彼らはただ、奇跡がどうして起こったのかという、好奇心に満たされています。

・その質問に対する、目を開かれた人の答えは、11節にあるように、「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」というもので、自分が経験した事実を淡々と述べております。しかしそれは、主イエスの御業を証ししていることになっているのであります。

ここで、この人の答えの中にある、「シロアム」という地名について、触れておきたいことがあります。今日、旧約聖書の朗読で創世記49章の1節から12節までを読んでいただきました。そこはイスラエルの先祖ヤコブが息子たちに遺言を述べている場面の一部でありますが、長男のルベンから順に祝福の言葉を述べて来て、四男のユダ(この子孫からダビデ王や主イエスが生まれる)のところへ来て、10節の終わりで、「ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」と述べられているのであります。この「シロ」というのが、後にユダヤ教の文書の中では「シロアムの池」と結びつけて読まれていたようで、メシアの到来を予告するものと解釈されていたのであります。「シロアム」という言葉は『遣わされた者』という意味だということが、ヨハネ福音書の著者の解説として7節に書かれていました。ですから、「シロアムの池」に行くということは、「神から遣わされた者」の所に行くということであり、<シロアムへ行ったら救いに与る>ということにつながるのであります。シロアムの池というのは、ヒゼキア王の時代に、エルサレムの水源確保のために掘られた水路によって水が供給されており、仮庵祭の中では、シロアムの池で汲んだ水が神殿に持ち込まれて、水の儀式が行われたということを前にお話ししました。7章に述べられていましたように、主イエスは仮庵祭の水の儀式が行われている最中に、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われました。その言葉には、今申し上げたような背景があったのであります。それと同じ背景をもって、主イエスは生まれつき目が見えない人に向かって、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われたのであります。シロアムに行くとは、<神から遣わされた者の所に行く>、ということであり、<メシアに出会える>、<そこには救いがある>、という意味が込められているのであります。この生まれつき目が見えなかった人が、どうして見えるようになったのかと言えば、主イエスの言葉に従ってシロアムの池に行ったからであり、そこで神から遣わされたメシアである主イエスの救いに与ったのだ、ということでありまして、このことをヨハネ福音書の記者がここで言おうとしているのであります。

この答えを聞いた近所の人々は12節で、「その人はどこにいるのか」と尋ねています。鍵を握るのはイエスという人物であるということが分かったので、その人が何処にいるのかを尋ねているのであります。しかし、この人は「知りません」と答えています。シロアムに行くために主イエスと分かれてから、どこに行かれたのか、分からなかったのでありましょう。しかし、近所の人に尋ねられるまでは、この人も主イエスという方のことをそれほど意識していなかったのかもしれません。少なくとも必死で探し出そうとした形跡はありません。しかし、近所の人々とやりとりをして、出来事のおさらいをしているうちに、自分に起こっていることが、とてつもなく大変なことだということが分かって来るとともに、主イエスの存在が彼の中でだんだんと大きくなって来たのではないでしょうか。

・ここにも、私たちが心の目(信仰の目)が開かれるということはどういうことか、ということが示されているように思います。私たちが信仰の目を開かれる時というのは、パウロの場合のように、突然、主イエスの声が聞こえて、回心するようなケースもあるかもしれませんが、多くは、この生まれつき目が見えなかった人の場合のように、だんだんと救いの事実に目が開かれて行くのであります。この人の肉体の目はすぐに開かれました。しかし、心の目は徐々に開かれて行きます。ここまででは、まだおぼろげであります。最終的には35節で再び主イエスが彼に出会って下さらなければなりませんでした。しかし、近所の人々やファリサイ派の人々とやりとりしているうちに、徐々に気付き始めているのであります。そのように、私たちの心の目も、徐々に開かれるのであります。救いの事実はもう起こっているのであります。しかし、私たちの気付きは、ゆっくりなのであります。

3.あの人をどう思うか

・さて、近所の人々は、目が見えるようになった人とのやりとりを通して、この人が生まれつき目の見えなかった人であり、物乞いであった人で、イエスという人によって目が見えるようにされたらしい、ということが分かったのでありますが、誰も目が見えるようになった現場にはいなかったので、未だ信じられない思いで、困惑したようであります。そこで人々は、13節によると、盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行きました。主イエスがファリサイ派の人たちによって問題視されていたことを知っていて、新たな事実をどう判断するか、興味があったのかもしれませんし、自分たち自身がこの出来事をどう理解したらよいのか、権威あるファリサイ派の律法学者の判断を仰ぎたいという気持ちがあったのかもしれません。

・ファリサイ派の人々は、先程も見ましたように、近所の人たちと同じように、どうして見えるようになったのかを、盲人であった人に尋ねました。しかし、その質問の意図は、近所の人々の場合とは違っています。彼らは、この奇跡の業が安息日に行われたことを問題視しているのであります。というのは、「土をこねる」という行為は、左官屋さんが土をこねたり、農夫が土を耕すのと同じように、労働に当たるから、安息日にしてはならないことを主イエスがしたという疑いを持って尋ねたのであります。しかし、この人は、そういうファリサイ派の人々の悪意を込めた問いに対しても、近所の人々に対して答えたのと同じように、自分が経験した事実をそのまま述べているのであります。

・この答えを聞いて、ファリサイ派の人々の意見が分かれました。16節にあるように、ある人は「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と律法の形式的な規定に拘った意見を述べましたが、別の人は、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と、起こった事実をもとにした意見を述べました。いずれにしろ彼らは、主イエスがなさった救いの業を前にして、自分自身が主イエスをどう受け止めるかを問われているのであります。しかし彼らは、結論を出さずに、盲人であった人に答を求めます。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」――すると彼は、「あの方は預言者です」と答えます。

・彼は、目が見えるようになった時には、その奇跡に驚き喜びつつも、すぐに主イエスを探そうとまではしませんでした。しかし、近所の人々に経緯を尋ねられて答えているうちに、この出来事が主イエスによって起されたことをはっきりと自覚するようになり、主イエスに敵対しているファリサイ派の人々の前でも、臆することなくその事実を述べることが出来ました。そして今や、問われるままに、この時点での彼の主イエスに対する見方を率直に述べたのであります。これは彼の信仰の目が開かれていく過程の中で、大きな前進であります。主イエスを預言者と見るということは、必ずしも十分な信仰を表しているとは言えません。御存知のように、主イエスが弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになったときに、弟子たちは「預言者の一人だ」と言う人がいるということを述べていました。しかし、主イエスはその答えでは満足なさいませんでした。そして、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と言われ、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたときに、「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とおっしゃいました。――けれども、この時点では、盲人であった人が「預言者です」と言ったのは、信仰の大きな進歩であります。彼はそう答えることによって、主イエスに対する信頼を表明したのであります。

結.主が見えてくる

・最終的には35節以下で、主イエスがもう一度彼の前に現われて、38節で「主よ、信じます」と言って、主の前にひざまずくところで、彼の救いが完成することになります。

・しかし、ここまでのところで、私たちは盲人であった彼の心の目(信仰の目)が開かれていくのを見ることが出来ました。まだ、おぼろげではありますが、彼の心(魂)は確実に主イエスの方に向けられているのであります。主が見えてきているのであります。神の業は、肉体の目が開かれるだけでなく、心の目が開かれることにも現われつつあるのであります。

繰り返しになりますが、私たちの信仰の目が開かれるのも、この人の場合とよく似ているのであります。この人は最初、自分からは目を開かれることも、主イエスに救われることも、求めてはいませんでした。弟子たちの質問がきっかけで、主イエスが神の業を現されるのに用いられることになりました。私たちもそうではなかったでしょうか。私たちも、自分から求める先に、神様は私たちのために救いの道筋を用意して下さっていました。そのことを、私たちは気付いていませんでした。その後、私たちはそれぞれのきっかけで主イエスと出会うことになりました。それでも初めは、この方が自分に何をして下さるのか分からず、自分の人生に大きく関わるお方だとは気付きませんでした。そのために、この方を積極的に追い求めないこともありました。しかし、神様が主イエスを通してして下さった救いの御業は厳然たる事実であります。そのことと関係なしに生きることも出来ます。しかし、周りの人々(主イエスを信じる人や信じない人)との触れ合いの中で、やがて自分が救われているという事実に、次第に目が開かれて来たのであります。そのようにして、私たちもまた主イエスを告白する者とされ、神の業を現すものとされたのであります。

私たちの信仰はまだ、おぼろげで、あやふやなところがあるかもしれません。しかし、主の救いの業は2000年前の御受難と復活によって既に行われているのであります。その事実が私たちの心の目(信仰の目)を次第に開いて行きます。そして、主イエスはこのように礼拝を通して私たちに出会って下さいます。そして、今日も、神の業は現されているのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・父なる神様!

・あなたは私たちが気付く前から、私たちのための救いの御業を為して下さり、私たちの心の目を開こうとしていて下さることを覚えて感謝いたします。

・どうか、このあなたの恵みの事実から目を背けたり、目を閉じることがありませんようにさせて下さい。私たちはまどろみがちな罪深い者でありますが、どうか、主の素晴らしい御業のゆえに、御栄光の一端を現すことが出来る者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2009年3月8日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書9:8−17
 説教題:「信仰の目を洗う」
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