イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである。」                   (ヨハネによる福音書9:3)

 主イエスは、生まれつき目の見えない人をご覧になった。その人は光を見たことがなく、暗黒の世界に住んでいた。肉体の目が開かれていないという不幸と同時に、神の光を見ることなく、心の目も開かれていなかった。そういう意味では、彼は罪の暗黒の中をさ迷う私たちの代表である。
 この人を、弟子たちも見たが、彼らはこの人の不幸の原因が本人の罪にあるのか、両親の罪にあるのかを、主イエスに問うた。旧約聖書によれば、人の不幸は人間の罪の報いとされていたからである。
 しかし、主イエスは、標記のようにお答えになった。主イエスは本人や両親の罪を見落としておられるのではない。人が罪の暗黒の世界に埋もれていることを誰よりもよく見ておられる。だが主イエスは、人の罪のためにご自分が十字架につくことを善しとし給うお方である。主はこの人の過去の罪を見るのでなく、この人の将来の働きをご覧になる。主イエスは、過去の罪を自らが償って、人を罪の重荷から解放して下さるお方である。もとより、私たちは人をそのように見ることは出来ないし、自分には罪がないなどと言うことは出来ない。しかし、主イエスは、私たちをも神の業の対象としてご覧になり、神の業を現わす者として下さるのである。
 主イエスは、唾でこねた土を目の見えない人の目に塗って、「シロアムに行って洗いなさい」と命じられた。彼はその行為にどんな意味があるかも分からないまま、主のお言葉に従った。すると目が開かれて、神の業を現わす者とされた。シロアム(「遣わされた者」の意)の池は教会を暗示していると受け取ることが出来る。私たちも、主イエスによって「シロアムの池へ行け」と命じられて、教会に来て、罪の暗黒から解放されて、心の目が開かれ、神の業を現わす者とされたのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>      2009年3月1日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書9:1−12
 説教題:「神の業が現われるため」
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