序.なぜ、不幸があるのか

・ヨハネによる福音書8章は、エルサレムの神殿における主イエスとユダヤ人たちとのやりとりが記されておりました。今日から9章に入りますが、8章の最後には、主イエスに石が投げつけられようとしたので、「イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」、と書かれていますので、9章の舞台は、神殿の境内の外の、町の中のようであります。すぐ続いて起こったことなのか、日が改まってからのことかは分かりません。

・今日の箇所は9章の初めの段落でありますが、ここには、生まれつき目の見えなかった人の目が見えるようになるという、一つの奇跡物語が記されております。しかし、ここに筆者のヨハネがこの物語を記していますのは、ただ、主イエスが不思議な業をなさって、そのお力をお示しになった、ということではありません。2節で弟子たちが主イエスに、こう尋ねています。「ラビ、この人が生れつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」――この質問の背景については、後ほどもう少し詳しく見たいと思いますが、ここで弟子たちから提起されている問題は、<この世に不幸があるのは、なぜなのか>という、常に私たちの中にも起こってくる、大きな永遠のテーマであります。私たちは今、「聖書と祈り」においてヨブ記を読んでおります。正しい人ヨブが、悲惨な状況に追い込まれた中で問い続けるのは、やはり<この世に不幸があるのは、なぜなのか>という問題であります。ヨブ記では、ヨブの三人の友人がやって来て、何とかヨブを説得しようとするのですが、ヨブはなかなか納得いたしません。友人たちが説く伝統的な因果応報論では、納得できないのであります。まだ、ヨブ記の最終の場面までは日数がかかりますが、今日の箇所では、一足早く、この大きな問題についての主イエスの答えが述べられています。

・今日の箇所には、この主イエスの答えと、目が見えるようにされた奇跡の出来事そのものが記されているのですが、生まれつき目が見えなかった人が見えるようになったという出来事の波紋は、今日の箇所に留まらず、このことを巡って、またまたファリサイ派の人たちが登場して、目が見えるようになった人とのやりとりが続くのであります。その中で、「目が見える」とはどういうことなのか、弟子たちが尋ねた罪との関係はどうなのか、ということが明らかにされて行くのであります。それは9章の終わりまで続くのでありますが、今日は、その中でまず、弟子たちの質問に対する主イエスの答えを中心に、御言葉を聴いて参りたいと思います。

1.生まれつき目の見えない人

・さて、「生まれつき目の見えない人」というのは、光を見たことが一度もない人であります。暗黒の世界に生き続けた人であります。光を見たことがないわけですから、光がどんなに有難いものか、見えるということがどういうことかも分からないわけですから、見えないこと自体の不幸は、案外感じていないのかもしれません。しかし、見えることが当たり前の世の中ですから、その中で生きて行くことの不自由さは、健常者には計り知ることの出来ないものがあると思われます。それに、この人の場合は、8節に「物乞いであった」と書かれていますから、家庭も豊かではなく、経済的にも苦しい生活が強いられていたようであります。

・この人のような不幸は、誰もが背負っているわけではありませんが、私たちは誰も、どんな恵まれた人であっても、弱点を持ち合わせない人はいませんし、長い人生の中では、病気や不幸な出来事に遭遇したり、仕事や人生に行き詰ることがあるものであります。また、身内に不幸を抱えなければならないこともあります。また、時代の大きな流れの中で、自分ではどうすることも出来ないような不幸に見舞われることもあるでしょうし、昨今のように先が見えない困難な状況になることがあります。

・「目が見えない」ということを比喩的に捉えて、肉体の目だけでなく心の目が開かれていないことと考えると、そういう状態は、精神的な障害を抱えている人に限らず、誰でもが陥ってしまいがちなことであります。殊に、神様との関係について、目が開かれているか、ということになると、実は、生まれつきの私たちは誰も、神様の真実を見ることが出来ずに、罪の暗黒の世界をさ迷っているのであります。9章の最後(41節)に、この奇跡の出来事に関する主イエスの最後の言葉が記されていますが、ファリサイ派の人々に対して、このように言われています。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と。私たちの心の目には、神様の真実が見えていないのであります。私たちは物事が見えているようでいて、本当は何も見えていないのであります。自らの不幸や不運を嘆くことがあっても、自分が罪の暗黒の中にいることには気付いていないのであります。光を知らないのであります。それは正に、生まれつき光を知らない目の見えない人と同じなのであります。――そういう意味で、ここに主イエスの前に登場する「生まれつき目の見えない人」は、罪と暗黒の中にさ迷う私たちの代表なのであります。そして、この人が目を開かれる出来事は、単に肉体的な目が開かれるだけでなく、心の目、信仰の目が開かれて行く過程でもあるのであります。

このように、9章に書かれている出来事は、身体的な障害をはじめ、様々な不幸を背負っている人々だけでなく、この世的には恵まれていても、霊的に目が開かれていない人々にとっても、目を開かれる思いをさせられる出来事なのであります。

2.イエスは見かけられた

・さて、1節には、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた、と書かれています。「通りすがりに」、「見かけられた」という訳は、イエス様が偶々そこを通られて、ひょっこり見かけられた、という感じに受け取れますが、原文を素直に訳せば、口語訳のように、「イエスが道を通っておられるとき、生まれつきの盲人を見られた」となります。もちろん、イエス様がわざわざこの人に会いに来られたと考えるのは行き過ぎた解釈になりますが、神様の導きがあったからこそ、このように聖書に残る出来事になったのですし、イエス様がこの人を御覧になったのは、普通の人の見方ではなかったと思います。イエス様は、ただ<可哀想に>というような、単なる同情の目で御覧になったのではありませんし、弟子たちがそうであったように、<どうしてこんな不幸な目にあっているのだろう>というような、批判的な目で御覧になったのでもありませんでした。主イエスは確かに、深く憐れみに満ちた目で人を御覧になります。人の問題性をも鋭く見抜くお方であります。しかし、それだけではありません。主イエスは、ガリラヤ湖畔で網を打っている漁師たちを御覧になって、人間をとる漁師へと召し出されました。ベトザタの池の回廊で三十八年も病気で苦しんで横たわっている人を見て、床を担いで歩く者に変えられました。主イエスは、その人の置かれている事態を変え、人を暗黒の中から救い出すことの出来る、救いに満ちた目で御覧になるお方であります。

・生まれつき目が見えない本人は、まだ主イエスを見ていません。何の期待もしていません。これからどんな出来事が展開するのか、この先、自分の人生がどうなるのか、何も見えていません。しかし、主イエスが御覧になったことで、今、この人の人生は大きく変わろうとしているのであります。

・主イエスは、これと同じように私たちをも御覧になるのであります。私たちは自分の方から主イエスを見つけて、ここにやって来ているように思っているかもしれません。様々な問題や苦悩の中から、主イエスの教えに光明を見出して、ここに来ていると思っているかもしれません。しかし、実際は、この生まれつき目の見えない人と同じなのであります。実際は何も真実は見えていなかったのです。主イエスが私たちを見出して下さり、この先の救いを見通していて下さるから、ここにあるのであります。

3.だれが罪を犯したからですか

・ところで、弟子たちも、この生まれつき目の見えない人を見ました。そして、その不幸な現実に心を痛めたのかもしれません。しかし、彼らがこの人を見て考えたことは、<この人の不幸の原因は一体どこにあるのだろう>ということでありました。旧約の時代の伝統的な考え方では、このような人間の不幸は、人間の罪に対する罰であるとされていました。因果応報の考え方であります。悲惨な状態にあるヨブを訪れた友人たちも、同じような目でヨブを見ました。エリファズという友人は、こう言っております。

 考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれることがあるかどうか。わたしの見てきたところでは、災いを耕し、労苦を蒔く者が、災いと労苦を収穫することになっている。彼らは神の息によって滅び、怒りの息吹によって消えうせる。(ヨブ4:79

 また、旧約聖書では、親の罪は子孫に及ぶという考え方があります。民数記には、こう書かれています。「主は、忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかれず、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問われる方である。」(民数14:18

そういう背景の中で、弟子たちも、主イエスに尋ねました。

「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」――このような考え方は、旧約聖書の中だけではありません。因果応報という考え方は、他の宗教の中にもありますし、迷信的にも、不幸なことが起こるのは、先祖や本人が何か悪いことをしたたたりだ、と考えて、<お祓いをしなければ>、などと言います。

私たちもまた、不幸を背負った人に接したときに、気の毒だと思いつつも、本人に問題があるとか、親の教育に問題があったのではないかとか、家庭環境に恵まれなかったからではないか、などというように考えてしまいがちであります。明確な因果関係が説明出来ないにも拘わらず、差別的な感情や、蔑(さげす)む思いから、そのように考えてしまうことがあります。

・では、弟子たちのような見方は、非科学的な、迷信的な考え方であって、人権侵害に当たる間違った考えである、と言ってよいのでしょうか。旧約聖書によれば、先程の民数記にもあったように、神様は人間が犯す罪をよい加減に放置するお方ではありません。新約聖書においても、パウロはローマの信徒への手紙の中で、「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)と述べております。人間は罪を犯したら、その報いを受けなければならないのであります。人の不幸は、必ずしも本人だけの責任というわけではなく、親や先祖に責任があったり、社会の中に積み重なって来た人間の罪が、個人に表れることもあるのであります。いずれにしても、神様が悪い世の中や個人の不幸な運命をもたらされたわけではなく、人間の罪が不幸を来たらせたのであります。不幸を個人の責任だけに押し付けるのは問題でありますが、罪のない人は一人もいませんから、直接本人に落ち度がないにしても、本人の責任を完全に免れる不幸もない筈であります。

4.神の業が現われるため

・それでは、主イエスは弟子たちの質問にどうお答えになるのでしょうか。主イエスは、この生まれつき目が見えない不幸な人を、どのように御覧になったのでしょうか。3節で主イエスはこうお答えになっています。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである。」

・主イエスは、この目の見えない人の不幸の原因が、この人自身の罪のためとも、両親の罪のためとも言われません。本人にも責任があるが、社会にも責任がある、などということはおっしゃいません。全く違う視点からお答えになります。それは、「神の業がこの人に現われるためである」という答えでありました。弟子たちの質問そのものを否定されるようなお答えでありました。主イエスの答えは、<不幸を負っているのは、この人が神様の業に関わることになり、神様の栄光を現わすためである>ということであります。

・主イエスは、人間には何の罪もない、とおっしゃっているのではないでしょう。人間が罪の暗黒の世界に埋もれていることは、誰よりもよく見ておられる筈であります。本人や両親の罪を見落としておられるわけではないでしょう。けれども主イエスは、人の罪のために御自分が十字架につくことを善しとし給うお方であります。そのようなお方であるが故にこそ、主イエスは、この人の過去の罪を御覧になるのではなくて、この人の将来の働きを見ておられるのであります。弟子たちの目も、私たちの目も、過ぎ去った過去の過ちを詮索することに躍起となります。もちろん、過去を反省することは大切であります。過去の罪責を曖昧にしないことは重要であります。しかし、主イエスは過去の問題に決着を与えるお方であります。過去の罪を自らが償って、人を罪から解放して下さるお方であります。

・もとより私たちは、人をそのように見ることは出来ませんし、主イエスと同じように語ることは出来ません。自分自身に対しても、何の責任もないとか、自分には罪がない、などと言うことは出来ません。しかし、主イエスは、人を、また私たちを、神の業の対象として見て下さるのであります。私たちの存在意義を、神様の御業を現わす者とみなして下さるのであります。

・私たちの存在意義をそのように理解することは、私たちにはなかなか出来ないことであります。私たちに見える現実は、相変わらず不幸な、暗い現実のように思えます。神様が用意されている私たちの存在意義は、まだ私たちの目には隠されています。

・しかし、私たちも、「神の業がこの人に現われるためである」という主イエスのお言葉を聞くことは許されています。そして、主イエスは、そのような目で私たちを見続け、神様の業に用いて下さるであろうということを信じることは許されているのであります。私たちが主イエスを信じるということは、聖書に書かれている諸々のことを信じるということもあります。教会が持っている信仰告白を信じるということもあります。しかし、何よりも大事なことは、主イエスが<もうお前の罪は問わない。お前を神の御業のために用いる>と、私たちに語っていて下さる御言葉を、本気で信じるということであります。

5.日のあるうちに

・主イエスはこのあと、4節でこう言っておられます。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」

・主イエスは、私たちが何か善い業を始めることを期待しておられるのではありません。神様が主イエスを遣わしてなそうとされている業を行うことを決意しておられるのであります。「わたしたちは」とおっしゃっていますが、その業に私たちも参加させようとしておられるのであります。その業とは、直接的には十字架の御業のことであります。

・「まだ日のあるうちに行わねばならない」とおっしゃっているのも、直接的には、十字架の御業を行うべき時が限られているということを言われているのでありましょう。しかし、主イエスの救いの御業は、十字架と復活が終った後も続けられています。けれども、救いの時にも、終わりがないわけではないことを知らなければなりません。「だれも働くことのできない夜が来る」とおっしゃいます。私たち一人一人には、やがて死の時が来ます。また、再臨の日があります。その時が来てしまってから、主イエスと共に働こうと思っても、もう遅いのであります。しかし、今はまだ永遠の夜の中にいるのではありません。主イエスは、「わたしは、世にいる間、世の光である」と宣言されます。主は既に天に昇られました。しかし光は、まだ暗い世の中に輝き続けているのであります。そして主イエスは、終わりの日に至るまで、私たちをも用いて、神の救いの業をし続けておられるのであります。私たちは、日のあるうちに、悔い改めて、主の御業に参加するよう、招かれているのであります。

結.シロアムに行って

・主イエスは「世の光である」と宣言されてから、6節にありますように、地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになってから、「シロアムの池に行って洗いなさい」とお命じになりました。この唾でこねた土を目に塗るという、おまじないのような行為にどんな意味があるのか、この人にはよく分からなかったでありましょうし、シロアムの池で洗ったらどうなるのかも分からなかったに違いありません。しかし、目の見えない人は、言われたとおりにシロアムに行って、目を洗いました。そうすると、目が見えるようになって、帰って来ました。こうして、主イエスがおっしゃったように、神の業が現わされたのであります。唾でこねた土は、人間が土から造られたと書かれている創世記の記事に通じる、と言う人もいます。その解釈の良し悪しは別にして、確かにここで、創造的な御業が行われたのであります。

・シロアムという池の名前が「遣わされた者」という意味だと解説されています。この人は正に、主イエスによって遣わされた者となって、御業を現わす者とされたのであります。

シロアムの池は、「遣わされた者」が神の業を現わす所となりました。そこが、イエス・キリストの教会を指し示している、と受け取るのは正解だと思います。目の見えない人には、シロアムの池に行って、不幸な自分にどんな役に立つのか、自分にどんな未来が開けるのか、――そんなことは何も分かっていませんでした。ただ、主イエスに「行け」と命じられて、言われた通りにしたことによって、思いがけない結果が待っていたばかりでなく、神様の御業を現すことになりました。私たちが教会に行って、何か自分にとって利益があるのだろうか、何か立派な業でもして、世の中に貢献できるのだろうか、と疑問に思うかもしれません。しかし、主イエスは私たちに「シロアムに行け」とおっしゃいます。主イエスは私たちを「遣わされた者」の群れに私たちを遣わされるのであります。この召しに応えて、御言葉に従って、教会の働きに加わるならば、私たちもまた、神の御業を現わすことになるのであります。主イエス御自身が、そのことを私たちのうちに、して下さるのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・憐れみ深い父なる神様!

・主イエス・キリストを私たちのところに遣わして下さり、暗黒の中にある私たちを見出して下さり、思いもかけない召しを受けて、私たちをあなたの御業に用いて下さろうとしておられることを覚えて、感謝いたします。

どうか、御言葉を信じて、素直に従って行く者とならせて下さい。

罪深い者ですが、どうか、キリストの故に赦して下さり、御栄光を現わすに足る者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2009年3月1日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書9:1−12
 説教題:「神の業が現われるため」
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