知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
                  (ペトロの手紙一1:
1819

 「聖なる者となりなさい」(115)と勧めた筆者ペトロは、17節において、聖なる者は「地上に仮住まいする間」、神を畏れて生活すべきだと言う。なぜなら、神は「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方」(17)であって、私たちは、「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐えられましょう」(詩編1303)と言わざるを得ない者でありながら、御子に倣って、神を「父」と呼ぶことを許されているからである。私たちは、運命の支配を怖れ、先行きの不安に怯え、マモンや武力や人の目を恐れるが、神を畏れているだろうか。本物の畏れは、神の前に自分の罪に気づくことから始まる。
 では、どうして、本物の「神を畏れる生活」が出来るようになるのか。そのことをペトロは標記のように語る。「先祖伝来のむなしい生活」とは、健康で楽しい日々を送ることさえ出来ればよいとして、「金や銀のような朽ち果てるもの」に頼って、自分の罪の問題に真剣に向き合うことをせず、神を畏れない生活のことである。そのような生活に染まりきっている私たちは、本来ならば私たち自身の血をもって償わなければならないのであるが、標記のように、「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血」によって贖っていただいたのである。神は、その「キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった」(21)だから、私たちはもはや、罪から生じる様々の恐れから解放されて、神を畏れる(礼拝する)者とされたのである。「終わりの時代」(20)はキリストが地上に来られて十字架と復活の御業をなさったことによって始まった。私たちの救いは、「天地創造の前から」(21)計画されていて、再臨の時の完成に向けて、着々と進められている。伝道の不振や教勢の低下を嘆いて、人間の力で何とかしようと、あせる必要はない。私たちの「信仰と希望は神にかかっている」(21)のだから。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>      2009年2月22日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一1:17−21
 説教題:「贖われた生活」
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