序.聖なる者として

・今日与えられています聖書の箇所は、ペトロの手紙一の117節から21節まででありますが、小見出しを見ていただいても分かりますように、13節から始まった「聖なる生活」についての勧めの続きであります。

・この手紙は、小アジア地域の異教世界の中にあるキリスト者に宛てて書かれたものと考えられていますが、その人たちに向かって、「聖なる者となりなさい」と15節で勧めているのであります。12月にその部分の説教をいたしました時にも申しましたように、「聖なる者となりなさい」というのは、聖人のような立派な人間になりなさい、ということではなくて、「区別された者となりなさい」ということで、異教世界の中に埋没してしまうのではなくて、神様によって選び分かたれた者に相応しい生き方をしなさい、ということであります。私たちも異教世界の真只中にあります。だから、ここで言われていることに耳を傾けねばなりません。

・では、区別され、選び分かたれた者は、異教世界の人々の生き方と何処が違うのか。13節には、「いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現われるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」と言われていました。キリストの再臨をひたすら待つ生き方であります。

・「キリストの再臨を待つ生き方」というのは、どういう生き方か、ということが以下に述べられて行きます。14節には、「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり」とあります。キリストのことを知らなかった頃のように、自分の欲望のままに、自分を喜ばすだけの生活ではなくて、神様の御心に従順な子となる、即ち、再臨の時に向かう救いの道筋に従って生きる、ということであります。それが、聖なる者(区別された者)の生き方である、というのであります。

・このような生き方を、単純に禁欲生活と考えては誤解になります。大切なことは、何に従うか、であります。欲望に引きずられて、欲望に従うのか、神様が備えて下さった、再臨に向かう救いの道筋に従う生き方かの違いであります。そのような生活を、15節では「召し出してくださった聖なる方に倣って」と言っております。「召し出してくださった聖なる方」とは、父なる神様とも、キリストとも読めますが、「聖なる方に倣って」とありますから、ここではキリストと受け取ってよいでしょう。キリストに倣う生活が「聖なる者」の生活なのであります。――キリストに倣うと言えば、トマス・ア・ケンピスという人の「キリストにならいて」という有名な本のことを思い出します。その本を読んでいただくのも良いのでありますが、この手紙で17節以下に書かれていることは、正に、キリストに倣う生活とはどういうことか、ということでありますので、それを続けて聴いて行きたいと思います。

1.「父」を畏れる生活

17節の冒頭に、「また」とありますが、ここまでと違う話を始めようとするのではなくて、むしろ「そして」と訳した方がよかったのではないかと思いますが、聖なる方に倣う者の生活について話を進めるのであります。

・まず、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです、と言っております。私たちは神様を「父なる神」と呼んでいるのでありますが、神様は、「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方」であります。だとすれば、私たちは神様によって厳しく裁かれるはずの者であって、親しげに「父」などと呼べない者であります。恐ろしくて、神の前には出ることの出来ない者であります。

神様に向かって「父」と呼べるのは、本来は御子イエス・キリストだけであります。このキリストが中に立って下さるからこそ初めて、私たちも、それこそ「キリストに倣って」、神様を「父」と呼ぶことが許されるのであります。詩編130編(旧p973)を御覧下さい。こう歌われております。

深い淵の底から。主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。(詩編13014

 この詩編の詩人の心を、日々心として、神を畏れて生きるのが、聖なる者の生活であります。「畏れ」という字は、ペトロの手紙も詩編も、畏怖の意味の字が当てられていますが、ある人は、ペトロの手紙の方は、裁きを行う神を意識しているのだから、ここでは、恐怖の方の「恐れ」であろうと言います。しかし、原語のギリシャ語には「畏怖」と「恐怖」の区別はありません。誰も、神の前に出る時は、自らの罪の故に、裁きの恐怖を覚えざるを得ないのですが、ただキリストの赦しの故に、畏敬の念を持ちつつ、「父」と呼ばしていただけるのであります。

私たちは神を畏れて生活しているでしょうか。私たちは、何か運命のようなものに支配されているのではないかと怖がったり、これから先、どうなるか分からない不安に怯えたり、自分の自由を脅かすこの世の権力やマモンの力や武力を恐れたり、人の目を恐れたりするのでありますが、神様に対しては案外平気で、丁重に扱おうが、放ったらかしであろうが、どうでも良いような扱いをしてしまっているのではないでしょうか。けれども、父なる神様こそ、「行いに応じて公平に裁かれる方」であります。「公平に」というのは、元の言葉は「顔に関係なく」という字であります。表面的な姿に惑わされず、真実を見極めて裁かれるのであります。人々からどう思われているかとか、生活の事情がどうであるか、といったことで判断をされない、ということであります。神は、私たちの罪を、きっちりと見定めておられる方であります。だからこそ、その罪を良い加減に放置なさらず、御子を送って下さったのであります。私たちは、そんな神様の思いも忘れて、のほほんと暮らしています。仮に恐れや不安を持っているにしても、それは神を畏れるということではなくて、ただ怖いだけであります。けれども、主イエスの十字架による赦しを知ったとき、私たちは本物の畏れを知ります。自分の罪に気付くことが出来ます。そこから、本物の、神を畏れる生活が始まります。

「公平に裁かれる方」を畏れる生活が始まると、自分の罪が見えて来ますから、隣人との関係においても、神に近い公平な目で物事を見ることが出来るようになります。自分が正しくて、あの人が悪いという見方にも変化が生じて来ます。赦しが始まります。それこそ、本物の、神を畏れる生活の始まりであります。

「地上に仮住まいする間」と言っております。イエス・キリストの再臨の時までは、私たちは何処に住んでいようが、仮住まいであります。年老いて、後顧の憂いがないように身辺整理を済ませて、安住の地に「終の棲家」を得たとしても、それは地上の仮住まいにしか過ぎません。逆に言えば、今の住まいが如何に貧しいあばら家であり、今の生活が如何に辛いことの多いものであったとしても、それは今しばらくの仮住まいに過ぎません。私たちには、天に「終の棲家」が約束されています。――だからと言って、今はどうでもよい、ということではありません。地上に仮住まいする間になすべきことは、神を畏れて生活することであります。礼拝生活を続けるべきであります。そのこと抜きで、永遠の住まいに入ることは出来ません。

2.空しいものから贖われた生活

・次の18,19節を見ますと、知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです、と言っております。これは、今触れた、本物の、神を畏れる生活が、どうして出来るようになったかということを、遡って言っているのであります。

私たちがキリスト者になる以前の生活はどんな生活であったかというと、「先祖伝来のむなしい生活」であったと言っております。「先祖伝来の生活」というのは、この手紙の場合は、小アジアの異教的な生活のことを言っていると思われますが、ユダヤ人たちが大事にして来た律法主義的な生活のことも含めているかもしれません。私たちは「先祖伝来の生活」から抜け出しているのでしょうか。日本では、教会に来るような人は、どちらかというと一般的な意味では進歩的な考えの人が多いと言えるかもしれません。地域や家の古い因習には拘らず、それらを跳ね除けて、新生活へと改革したり、信仰を持つに至ったことを誇りにしている人が多いかもしれません。宗教的にも、地域の宗教行事や家の宗教から離脱するということは、勇気の要ることであり、様々な軋轢も経験しなければならないと思います。昨今は、伝統を大切にすることが重んじられる風潮にあって、古い行事や町並みが復元されることもあります。それはそれで、意味のあることかもしれません。――しかし、ここで言っている「先祖伝来の生活」というのは、そういうことではありません。そういうこととも深く関係する場合が多いですが、ここで言っているのは、神を畏れない生活のことであります。自治体の長期計画や選挙のキャッチフレーズでよく出てくるのが「健康で快適な(豊かな、文化的な)生活」という言葉であります。私たちはずっと、「健康で豊かな生活」が与えられれば、それでよい、と考えて来たのではないでしょうか。学校の同期会に行きますと、70にもなると、もう勤めている者は少なくて、年金生活ですが、健康な者は、悠々自適の生活で、趣味やボランティア活動に精を出したり、旅行三昧だったりで、自分の人生に疑問を感じるというようなことは、あまりない様子であります。中には写経をしたり、巡礼の旅をしたりする者もおりますが、深刻なものではなくて、趣味の延長のようにしか見えません。健康問題にはおおむね関心がありますが、死の問題と真剣に向き合う様子は見られません。習慣的に或いは伝統を重んじて神社や寺へお参りに行きますが、神仏に帰依するということでもなさそうで、神も仏も必要がないのであります。――こういうことは、聖書やキリスト教の信仰のことを知らない人なら当たり前のことかもしれませんが、そういう風潮は、教会の中にも入り込んで来ているのではないか、ということを恐れます。自分の罪の問題に真剣に向き合うとか、神を畏れるということよりも、健康で楽しい日々を送ることさえ出来ればよい、ということになってしまってはいないでしょうか。筆者ペトロはそれを、「先祖伝来のむなしい生活」と言っているのであります。

・また、ペトロは「金や銀のような朽ち果てるものにはよらず」とも言っております。信仰を持っている人は、金や銀に頼る生活をしようとは思っておられないでしょう。しかし、現代世界は金や銀によって動かされているということを、今回の金融危機でまざまざと見せつけられました。世界中が朽ち果てるものに依存していたことが明らかになりました。クリスチャンとて、決して埒外ではありません。金融危機の被害者であるというだけではありません。様々な格差や職場を追われる方々が出てくることの加害者に、誰でもがなってしまうという一面があって、政治家や企業家の責任だけにすることは出来ないことを覚えざるを得ません。

しかしペトロはここで、そのような「むなしい生活」から「贖われた」と言っているのであります。そしてそれは、「小羊のようなキリストの尊い血による」のだと言います。私たちは皆、神を畏れないこの世の生活に染まりきっているのであります。それには私たち自身の責任も免れません。本来ならば、私たち自身の血をもって償わなければならないことも沢山あるのであります。しかし、それら全てを、「小羊のようなキリストの尊い血」によって贖って下さったのであります。「贖われた」という所には、<身代金を払って奴隷を解放する>という意味の言葉が使われています。私たちは皆、自分さえ良ければいい、という空しい生活に囚われていた罪の奴隷でありました。その私たちを、神様は御子の血を支払って買い取って下さって、神を畏れる生活へと解き放って下さったのであります。

3.信じて、希望に生きる生活

19節に続いて20節にも、キリストのことが述べられています。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。

 これは、先週ヨハネによる福音書でも学びました「先在のキリスト論」であります。ヨハネ福音書8章では、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある(いた)」(858)と主イエス自身が語っておられましたが、ここでは、「天地創造の前からあらかじめ知られていました」と書かれています。天地創造の前からキリストを知っているというのは、神様だけであります。あの2000年前に、この世に現われて下さった主イエス・キリストですけれども、そのとき初めて生まれたのではなくて、世の初めから神と共におられたのであります。そのキリストを神が知っておられたということは、キリストを地上に送って、人々を救うのが、神の御計画であった、と言おうとしているのであります。もちろん、そんな神様の計画をペトロが知っていたということではありません。ペトロが言いたいのは、それほどに昔から神様は人間の罪のことで心を痛めておられ、従って、それほどに神様の救いは確実である、ということであります。

・「この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました」と言っております。人間の罪の状態を見て、思いついたように、急にキリストを遣わしたとか、人間の罪の結果、御子までが血をながさなければならないようなことになってしまった、というのではなくて、既に用意されていたことが、現われたのであります。救いの御計画が、実現したのであります。

21節では、あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです、といっております。神様の救いの計画がどういう形で実現したかと言えば、人間の罪が集中する形で十字架にお架かりになった主イエスが、死者の中から復活されるという、神様がなさるしか出来ないようなことを実行されることによって、実現されたのであります。私たちの救いというのは、観念や思想の世界のことではありません。実際に人間の歴史の中へ、神の子が来られて、地上の生活をされて、人々と語り、人々を愛し、だが捕らえられ、殺され、そして墓の中から復活して、生きた姿を弟子たちに現されるという形で行われたのであります。――この事実を起こして下さった神様に、私たちの信仰と希望がかかっているのであります。

・人間がやったこと、今も人間がやっていることは、欲望に引きずられた生活であり、むなしいことに囚われている生活であります。そこには、恐れや不安が満ちています。行く先も見えません。しかし、キリストがこの世に現わされて、その血をもって、罪を贖って下さり、死者の中から復活させて下さったことによって、私たちは聖なる者へと変えられ、神を畏れる生活を出来る者とされたのであります。それは、もはや朽ち果てることのない、希望に満ちた生活であります。キリスト教が不振であるとか、教会の教勢が低下しているということで、恐れる必要はありません。人間の力で、神の国を建設したり、人に救いをもたらすのではありません。神が御計画に従って救いを実現して行かれるのであります。私たちの信仰と希望は、私たちの努力にかっているのではなくて、神にかかっているのであります。私たちは、何もせずに傍観しておればよいということでは、決してありません。私たちは「聖なる者」として、神を畏れて生活していることが大切であります。本当に神を畏れているかどうかが問題であります。神が信じられなくて、何か他のものに頼ろうとしたり、自分たちの力で何とかしようとしたのでは、決して聖なる者とはされません。

結.「終りの時代」を生きる

20節に、「キリストは、……この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました」とありました。「この終わりの時代」というのは、何時のことでしょうか。「天地創造の前から」と対照的に書かれていますように、初めからの神様の計画が実現する時、即ち、主イエス・キリストが来られた今の時であります。キリストが来られてから既に2000年以上の時が過ぎていますが、今も、「この終わりの時代」が続いているのであります。今も、御計画に従って、救いが次々に実現しつつあるのであります。昨年末、私たちはその具体的な片鱗を見ることが許されました。神様は、この小さな伝道所を用いて、更に次の救いを御計画しておられるに違いありません。そんな神様の御計画がないかのように、伝道の不振や教勢の低下を嘆く必要はありません。神様は既に、次の救いの候補者をたくさん用意して下さっていますし、次の時代を担う若い人たちも備えて下さっています。そういう方々のために祈ったり、心遣いをすることなしに、何か他のことをしなければならない、と思うのは、不信仰のそしりを受けかねません。21節の最後に、「あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです」といわれています。私たち自身と教会の信仰と希望の根拠は、神様にかかっています。神様は、キリストがもう一度来て下さる再臨の日までに、必ず、救いの御計画を完成される筈であります。そのことを信じて、粛々と神と教会に仕えて行きたいと思うのであります。・祈りましょう。

祈  り

・天地創造の前から、救いを御計画下さって、今もそれを、着々と進めておられる父なる神様!

・不信仰な、裁かれるべき者でありますが、キリストの血のゆえに、私たちのような者をも、「聖なる者」に加えて下さり、あなたを「父」と呼ばせてくださって、キリストの体の一員として、御業の一端を担わせて下さっていますことを感謝いたします。

・どうか、日々、あなたを畏れつつ、希望を持ちつつ、終わりの日に向かって歩む者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2009年2月22日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一1:17−21
 説教題:「贖われた生活」
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