序.イエスは何者か

・今日の説教のために与えられております聖書の箇所は、ヨハネによる福音書848節以下でありますが、その中の53節の3行目に、こう書かれています。「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」――これは、ユダヤ人たちが主イエス対する抗議の思いを込めて問うた言葉であります。しかし、「イエスが何者であるのか」ということは、ヨハネ福音書が最初から一貫して語って来ている主題であり、そのことを神学的には、「ヨハネ福音書のキリスト論」と言いますが、筆者ヨハネは、ここでも、ユダヤ人たちの抗議を込めた問いかけを記しながら、イエスというお方は私たちにとって何者なのか、という「キリスト論」を展開しているのであります。

・「イエスは何者か」という問いは、この福音書が書かれた1世紀末のキリスト教会だけの関心事ではなくて、2000年の教会の歴史の中で、絶えず問い続けられ論争されて来た問いでありますし、この問いは単に、神学的なテーマであるだけでなく、私たち一人一人の信仰のテーマであり、「私たちが如何に生きるか」ということと深く関わるテーマでもあります。

・私たちは教会に来て、聖書を通して、或いは説教を通して、主イエスに出会います。そのときに、イエス様を単に歴史上の偉人として見るのか、すなわち、人生に迷ったときに指針を与えてくれる教師、或いは人間の生き方の模範ないし理想像、或いは社会正義の勇敢な実践家、或いは信仰者の鏡と見るのか、それとも、そこに偉大な人間以上のお方を見出すのか、礼拝の対象として拝むか、ということによって、主イエスと私たちの関係が大きく変わりますし、私たちの生き方・生活の仕方に大きな影響を及ぼすばかりか、私自身は一体何者なのか、私は何処に向かっているのかという問いにも答えを与えられるのであります。

・ユダヤ人たちは主イエスと出会って、戸惑い、理解できず、反発を感じ、抵抗し、今日の最後の59節では、石を投げつけようとさえいたします。石を投げつけるというのは、<気に食わないから、いじめてやろう>、というようなことではなくて、8章の初めに書かれていた姦通の現場を押さえられた女に対する刑罰と同様に、神の律法に違反した者を打ち殺す刑罰であります。彼らは、<イエスを生かしておいてはいけない>と考えたのであります。この思いが十字架にまで行き着くのであります。主イエスを何者だと考えるかによっては、そこまで行かざるを得なくなるのだということを示しております。

・これは、特殊な歴史を持ったユダヤ民族だからこそ起こした特殊な反応だと言えるかもしれません。現代日本では、「イエスは何者か」という問いにどう答えようが、大きな問題にはならないかもしれません。――しかし、そこが問題であります。様々な歪みを生じてしまって、行き先が見えなくなっている日本。自分たちの将来について不安がありながらも、どうしてよいか分からない若い人たち。――主イエスは、そんな現代日本を、また現代世界をお見捨てになったのでありましょうか。現代の諸問題は、主イエスによってはもはや解決できない時代になったのでしょうか。そうではありません。主イエスは今も、教会を通して、聖書とこのような礼拝を通して、聖霊において、現代の私たちに向かって語りかけておられるのであります。そして、その語りかけを聞く私たちが、主イエスを何者とするかということが、自分自身と世界を救うか否かを左右するのであります。

・今日は、主イエスにあくまでも抵抗しようとするユダヤ人と、それに対する主イエスお言葉を通して、主イエスが一体私たちにとって何者であるのか(どのようなお方であるのか)を知らされたいと思うのであります。

1.栄光を求めない方

・さて、前回の箇所の39節で、ユダヤ人たちが、「わたしたちの父はアブラハムです」と誇らしげに語ったのに対して、主イエスは44節で「あなたたちは、悪魔である父から出た者である」とおっしゃいました。つまり、「悪魔の子だ」と言われたのであります。

・それに対して、今日の箇所の最初の48節で、ユダヤ人たちは、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返しております。主イエスはサマリア出身ではありませんが、ユダヤ人たちがこのように言うのは、もとは同胞であったサマリア人が異邦人と混じり合ってしまったことで軽蔑していたことから出た、罵りの言葉で、主イエスがかつてユダヤ人の習慣に反してサマリアを避けずに旅をされたことが、彼らの頭にあったのかもしれません。「悪霊に取りつかれている」とは、720節で群衆が主イエスに言った言葉と同じでありますが、<あなたは気が狂っている>と言うよりもひどい言い方であります。お互いに罵倒し合っているだけのようにも見えますが、ユダヤ人たちは真面目に抵抗しているのであります。もし私たちが真剣に主イエスと向き合おうとしないならば、このユダヤ人たちの真剣さを見習うべきかもしれません。しかし、ユダヤ人たちは自分たちの誇りを守るために、主イエスの言葉にへりくだって耳を傾けようとはしないのであります。

それに対して主イエスは4950節で、こうお答えになります。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光を求めてはいない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」――「わたしは悪霊に取りつかれてはいない」と、きっぱりと否定しておられます。なぜそう言えるかというと、「わたしは父を重んじている」からであります。「重んじる」という言葉は、<名誉を帰する>という言葉で、その後に出てくる「栄光」という言葉を使えば、「栄光を帰する」ということと同じ意味であります。悪霊に取りつかれた者は、神に栄光を帰することが出来ません。それに対して主イエスは、自分の栄光をお求めになりませんでした。むしろ、十字架に至るまで御自分の栄光を捨てられるお方であります。主は、私たちを支配するよりも、私たちの僕でもあるかのように、私たちの救いのために仕えて下さったお方であります。そして、そのことを通して、あくまでも神に栄光を帰するお方であります。このことが、「イエスは何者か」という問いに対する、第一の答えであります。

50節後半で、「わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる」とおっしゃっています。主イエスは御自分の栄光を求めることはされないのだけれども、父なる神は主イエスを通して御自分の栄光を現わそうとされている、ということであります。そして、この神の御心に反する者は、裁きを受けなければならないのであります。

ユダヤ人たちは、アブラハムの子に相応しくないことを指摘され、悪魔の子とされたことで誇りを傷つけられたのでありますが、神様は御自分の栄光を求めないお方にこそ、栄光を与えられ、自らの栄光を誇る者を裁かれるのであります。――私たちもユダヤ人たちと同様に、自分の栄光を求めているのではないでしょうか。信仰を持つということも、教会のために仕えるということも、結局は自分の誇りのため、自分の栄光のためであったとしたら、最終的な裁きをなさる方の前に立つことは許されないのであります。主のために、自分の栄光を求めない者にこそ、神は栄光を与えて下さるのであります。主イエスは私たちの救いのために、御自分の栄光を棄てて下さったのでありますから、私たちもまた、主イエスのために、自分の栄光を棄てるべきなのであります。

2.命の主

・続いて、51節で主イエスはこう断言しておられます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」――50節で、栄光を求めることについて話されたことと、ここで言われていることがどうつながるのか、少し分りにくいですが、おそらく、神様が主イエスに求められる栄光とは、主イエスの言葉によって、人が決して死ななくなる、ということと考えておられたのではないでしょうか。

・「わたしの言葉」とは、ここでは一つ一つの言葉ではなくて、福音の全体ということであります。「守る」と訳されている言葉は「見守る」「見張る」という意味の言葉であります。31節で「わたしの言葉にとどまるならば」とおっしゃったのと、同じような意味で、福音から目を離さない、福音に固着する、ということであります。

・「その人は決して死ぬことがない」ということは、肉体的な生命の死がないという意味ではなくて、霊的な死がない、という意味であって、神様との良好な関係が失われない、ということであります。これまでにも、524節で、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」と言われたこと、647節で、「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」と言われたのと同じことであります。ここでもう一度確認したいことは、「決して死ぬことがない」と言われ、「永遠の命」とも言われている命は、いつか将来に与えられるとか、肉体が死んだら与えられるのではなくて、「わたしの言葉を守るなら」、既に、現在与えられていて、その命は永遠に続く、ということであります。主イエスの言葉から目を離さない(聞き続ける)ならば、神様との良好な関係は永遠に続く、ということであります。

・「イエスは何者か」という問いに対して、ここでは、御言葉によって、私たちに永遠の命を与えるお方、そして父なる神様との良い関係を永遠に保証して下さるお方、「命の主」だ、と言われている、ということであります。

3.神を知る方

・ところが、この主イエスの言葉を聞いたユダヤ人たちは、5253節で、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」と反論しております。

・彼らは、主イエスが「決して死ぬことがない」と言われたことを肉体的な命と誤解して、<アブラハムや預言者たちも死んだのに、人を死なせないでおくことが出来るとは、自分を何者だと思っているのか。そんなことを言うのは、悪霊に取りつかれて気が狂っているに違いない>、と言っているのであります。

・私たちはこのユダヤ人たちの誤解を笑うことが出来るでしょうか。私たちは、主イエスのおっしゃる「死ぬことがない」命が、御言葉を守ることによって与えられているということを、本気で信じているでしょうか。本気で信じているならば、もっと御言葉に耳を傾ける筈であります。あるいは、神様との間に生きた良い関係が保たれていることを、もっと有難いと思う筈であります。私たちが、御言葉に聞くことでは満足せず、他にもっと心を高ぶらせる物があることを期待したり、現に神様との生きた関係にあることを心から喜んで礼拝していないとすれば、このユダヤ人たちと同じであります。

・このユダヤ人たちの無理解な反論に対して主イエスは、まず54節で、先に50節で言われたと同じく「自分自身のために栄光を求めていない」ということを繰り返し述べられた上で、5556節では、「あなたたちはその方(父なる神)を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」とおっしゃいました。

ここでは、ユダヤ人たちと主イエスとの違いが明確に述べられています。ユダヤ人たちは、自分たちは神様を知っていると思っているのであります。自分たちは信仰の父であるアブラハムの子孫であり、神様から約束を与えられた民であり、神様の掟のことも十分に心得ている者たちであることを自認しているのであります。しかし、主イエスは神のところから遣わされたお方であります。神の御言葉(御心)を最もよく知っておられる方であり、神の御言葉そのものであるお方であり、御言葉のままに生きておられるお方であります。このお方を受け入れられないということは、ユダヤ人たちは、神を本当には知らないということであり、神の言葉を守っているとは言えない、ということであります。「わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる」という言葉は、ユダヤ人たちに対する強烈な皮肉であります。

私たちもまた、主イエスの目から見れば、神を知らない者たちであり、知っているようなふりをしている偽り者であります。神様を本当に知っておられるのは、主イエスだけであります。私たちは、主イエスの言葉を聞くことによってしか、神を知り、神と出会うことが出来ないのであります。

・「アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた」というのは、どういう意味でしょうか。「わたしの日」というのは、主イエスが地上に到来された日であります。アブラハムが具体的に主イエスの誕生を待ち望んだという記事が旧約聖書の中にあるわけではありませんが、ここで主イエスが言っておられるのは、先程朗読しました、創世記12章に書かれている、アブラハム子孫を祝福するという約束のことや、年老いて子がなかったアブラハムに対して、星の数ほどの子孫を与えると約束されたことなどでありましょう。その「子孫」というのを、主イエスに結び付けるのは、飛躍があるように思われますが、当時のユダヤ教のラビたちの文書の中には、アブラハムがメシア到来を期待していた人物であるとするものもあったようであります。パウロもガラテヤの信徒への手紙の中で、「この『子孫』とは、キリストのことです」(ガラテヤ316)と言っております。――いずれにしろ、ここで大切なことは、主イエスが神様のところから来られたお方であり、神様のことを知っておられるお方であり、私たちに神様を示して下さる唯一のお方であるということであります。これが、「イエスは何者である」という問いに対する、三つ目の答えであります。

4.先在のキリスト

・しかしユダヤ人たちにとっては、主イエスがアブラハムのことを知っているかのような発言は受け入れ難いことでありました。そこで57節でこう言います。「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか。」――主イエスはこの時、三十代であったと考えられますが、なぜ五十歳という数字を出したのか、神殿に使える人たちの引退年齢が五十歳であったことと関係するのではないかとの推測もありますが、少し大きい目の数字を出しただけかもしれません。

これに対する主イエスの発言が重要であります。58節で主イエスは、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」と言われました。「わたしはある」という言葉には、二重の意味があります。一つは、主イエスは、この福音書の冒頭に書かれていましたように、「初めに神と共にあった」(12)お方、即ち、神学的な言葉で言うと、「先在のキリスト」であることを示す言葉であり、当然、アブラハムが生まれる前からおられた、という意味であります。もう一つの意味は、「わたしはある」というのは、神様のお名前であります。モーセが召し出された時、神様のお名前を人々に何と説明したらよいかと尋ねると、神様は「わたしはある」というものだとおっしゃったのであります。ここでその言葉が使われているということは、主イエスが御自分を神と等しい者とされたと、ユダヤ人たちは受け取ったのは当然でありますし、主イエスはここではっきりと、御自分が神の子であることをお示しになったのであります。「イエスは何者か」という問いに対して、ここでは、御自分が世の初めから先在されていた「神の子」であることを明らかにされたのであります。

この言葉を聞いて、ユダヤ人たちは当然、反発いたします。そうして、石を取り上げ、イエスに投げつけようといたします。しかし、この言葉は、主イエスを信じる者にとっては、大きな安心を与えられる言葉であります。ヘブライ人への手紙が言うように、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ138)であり、昔も今も、そして終りの日まで私たちと共にあり給うお方なのであります。

不安な霧が立ち込める現代にあって、私たちは右往左往する必要はありません。変わることなく私たちを救いへと導き給う方が、おられるのであります。

結.主の言葉を守るなら
 ・最後に、もう一度、51節の御言葉に耳を傾けたいと思います。

 「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」

 主イエス・キリストは永遠なるお方であります。しかし、私たち は罪のゆえに死すべき者であります。神様から断絶されても仕方がない者であります。しかし、神様との断絶を回避でき、永遠に神様と生きた関係を持ち続けることのできる道が示されています。それは、主イエスの言葉を守ることであります。主の御言葉にとどまり、そこに固着することであります。御言葉に聴き続けることであります。私たちは既に、そのことが出来る環境に置かれていることを感謝したいと思います。

・私たちは、本年の目標を「御言葉に親しみ、伝える」として、歩み始めております。御言葉を聴き続け、またそれを周りの人々と分かつことによって、永遠の命に生きることが出来るとの約束を覚えつつ、与えられたこの幸いな道を歩み続ける者でありたいと思うのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・恵み深い父なる神様!
 ・御言葉の恵みを覚えて、感謝いたします。

・どうか、御言葉に逆らったり、聞き流してしまう者ではなく、心を込め、思いを込めて、御言葉を聴き取り、実際の生き方の中で、その御言葉に聞き従う者とならせて下さい。
・御言葉から遠ざかっている者を、お見捨てになることなく、御許に引き戻して下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2009年2月15日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書8:48−59
 説教題:「主の言葉を守るなら」
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