「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」             (イザヤ書52:7→ローマの信徒への手紙10:15

 パウロは同胞のユダヤ人たちが、福音を受け入れようとしないことに悩みながら、どこに問題があるかをロ−マ書10章で語っているが、そこで語られていることは、現代の私たちの問題でもある。
 まず、「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう」(14節)と言って、御言葉を聞いていないことに根本的な問題があることを指摘している。ユダヤ人も私たちも、聖書の言葉を聞いたり読んだりしていないわけではないのに、どこに問題があるのか。標記の聖句では、御言葉のことを「良い知らせ(福音)」と言い換えている。御言葉は単なる教えや戒めや知識ではなく、主が悪に勝利されて、私たちの罪が赦され、自由な身とされたとの「良い知らせ」であることを、覚えたい。次にパウロは、「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません」(16節)というイザヤの言葉を引用して、福音の御言葉を聞いても、それに従っていないことを指摘する。更に、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(17節)と言うように、キリストが浮き彫りにされ、その御人格・御業が迫るように語られ、聞かれるときに、信仰が呼び覚まされ、聞き従うということが起こるのである。では、そのような御言葉は語られていないのか。そうではない。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」(18節)と言い、主は、「不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた(21)と語る。このような手厚い主の御心に気付いた者は、御言葉を受け入れ、今度は、それを宣べ伝える者へと変えられる。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と。足自体が美しいのではない。伝える福音の内容、神の勝利が美しいのである。主イエスが、人間の醜い罪を負って、自らが醜い者となって下さったがゆえに、福音が美しいものとなり、それを伝える者の足までが美しく見えるのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要旨>        2009年2月8日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙10:5−21(U)
 説教題:「良い知らせを伝える」
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