序.御言葉はあなたの近くに――前回のメッセージ

・今年の年間目標は『御言葉に親しみ、伝える』であります。その狙い・主旨につきましては、新年礼拝でもお話しましたし、この礼拝の後に開かれる定期総会でも確認することになりますが、一言で言いますならば、私たちが「キリストの使者」として、教会形成と伝道に仕えるための基本は、御言葉に親しむことにある、ということであります。

・この年間目標に対応する主題聖句は、二つありまして、いずれもローマの信徒への手紙の10章の中から採っておりますが、年間目標の前半の「御言葉に親しみ」に対応するのが、8節の「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」という部分であり、年間目標の後半の「御言葉を伝える」に対応するのが、15節の「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」という部分であります。

・新年礼拝では、108節の主題聖句を中心に、1節から13節までの箇所から御言葉を聴いたのでありますが、今日は、15節の主題聖句を中心に、14節以下の御言葉を聴きたいと思います。

・それに入る前に、前回のメッセージの要点を振り返っておきます。「御言葉に親しむ」という年間目標は、具体的には、日常生活の中で聖書に親しみ、聖書から指針や力を受けることを今年の課題にする、ということなのでありますが、この目標を一つの律法のようにしてしまったのでは、反って御言葉が私たちから遠退いてしまいます。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」という主題聖句が語っていることは、「御言葉に親しむ」という年間目標は、これから私たちが励まなくてはならない課題である前に、既に、クリスマスに神の言葉である主イエス・キリストが来られたことによって現実となっている、ということであります。ですから、私たちが御言葉にいかに近づくか、ではなくて、既に私たちに近づいて下さったキリストを見ること(聴くこと)こそが、「御言葉に親しむ」ということなのだ、ということであります。

・そして、御言葉が近くにあるので、必然的に、私たちの口、わたしたちの心にもあることになる、つまり、信仰告白として公に言い表すことになるし、福音を宣べ伝えることにもなる、というのであります。

・ところで、パウロがこうしたことを語っているのは、福音がどんどん受け入れられて、伝道が順調に進展している状況が背景にあるからではなくて、むしろ、同胞のユダヤ人たちがなかなか福音を受け入れようとしない事情があって、そのことに苦しみながら、9章以降で、なぜ、同胞のユダヤ人たちが救われないかという問題を取り上げて来ているのであります。

・それはまた、私たち自身と私たちを取り巻く状況でもあります。キリスト教の伝道はなぜ進まないのか、なぜ米子伝道所に若い人たちが来ないのか、せっかく与えられている求道者たちも、なぜ御言葉を受け入れるまでに至らないのか、――そうした私たちの悩みは、ここでパウロが悩んでいる問題と、本質的には同じなのであります。パウロは今日の箇所で、旧約聖書を沢山引用しながら、どこに問題があるのかを明らかにしています。今日は、この箇所から、今年の私たちの歩みの指針を聴き取りたいと思います。

1.呼び求めているか

・さて、パウロは前回の箇所の最後、1213節で、こう言っておりました。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

・この中にある引用句はヨエル書35節の言葉ですが、それを引用しながら、ここでパウロが言っていることは、主の名を呼び求める者はだれでも(ユダヤ人であろうと、異邦人のギリシャ人であろうと)、救われる、ということであります。ということは、ユダヤ人が福音を受け入れて救われないのは、主の名を呼び求めていないからだ、ということになります。

ユダヤ人は主の御名を呼び続けてきた民ではないかと思います。聖書を読むと、アブラハムからダビデを経てイエス・キリストまでの約2000年の歴史の中で、ユダヤ人は困難なときにはいつも、主の名を呼び求めて来たのではないかと思いますし、イエス様の時代でも、ユダヤ人は聖書を持っていることを誇りし、その中に示めされていることに忠実に従おうとして来たし、宮詣や祭にも参加して主の御名を呼び続けて来たのではないかと思いますが、パウロは、そうは見ていないということでありましょう。

パウロはここで、<ユダヤ人は主の御名を呼び求めなかった>と直接には言わずに、14節でこう言います。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。――つまり、呼び求めないのは、信じたことがないからであり、信じられないのは、聞いたことがないからだ、と言っているのであります。つまり、ユダヤ人が主の名を呼び求めていないのは、そもそも聞いたことがないということに原因があるのだ、ということになります。ユダヤ人は、モーセや預言者を通して、神様の言葉を聞き続け、それに応えて御名を呼び求めて来たのかと、私たちは思いますが、実はそうではなくて、神様の言葉を聞いていなかった、そこに彼らの問題があるのだ、とパウロは言っているのであります。聖書があり、それをよく読んでいても、それに聞いていなかったということであります。

・ということは、現在の私たちの教会の問題も、その原因は同じである、ということであります。なぜ、救われる者が出て来ないのか、なぜ主の御名を呼び求める人が次々と現われないのか。それは、本気で信じていないからであり、なぜ本気で信じることが出来ないかと言えば、神様の言葉を本当には聞いていないからだ、ということになります。礼拝で聖書の話を聞き、自分でも聖書を読まないわけではないけれども、聖書を神の言葉として聞いていないというところに根本的な問題がある、ということであります。――これは何も、未信者(求道者)だけの問題ではありません。もし、教会が生き生きとした活力に満ちていない、そして伝道が思うように進んでいないとすれば、それは、私たちの熱心さが足りないとか、努力が不足しているということ以前に、私たちが聖書を神様の御言葉として読み、聴いていない、ということなのであります。既に信者となっている者が、真剣に御言葉に耳を傾けていないならば、どうして求道者が耳を傾けるでしょうか。教会の群れ全体が御言葉に耳を傾けて聞いている中でこそ、信仰が起こされ、主の御名を心から呼び求めることが起こり、救いの出来事が起って行くのであります。

2.信仰は聞くことによる

・では、神の言葉を聞くというのは、どういうことか。私たちは礼拝の説教を聞いておりますし、聖書を読んだり学んだりする機会もありますが、その場合に、果たして神の言葉を聞いていると言えるのかどうか。どういう聞き方が、神の言葉を聞いたことになるのか。そのことをパウロの言葉から学んで行きたいと思います。

2−1.神の言葉は「良い知らせ」

15節には今年の主題聖句である、「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」という言葉が含まれています。この聖句は後でもう一度取り上げますが、取りあえずここで注目したいのは、ここでは御言葉(神の言葉)のことが、「良い知らせ」と言い換えられていることであります。この原語は、次の16節で出てくる「福音」という言葉と同じでありますが、もともとは、神の言葉に限定して用いられる言葉ではなくて、戦争に勝利したとか、王の世継ぎが生まれたというような、うれしいニュースのことを指す言葉であります。そのような言葉を神の言葉に関して用いているということは、神の言葉はうれしいニュースである、ということであります。神の言葉は堅苦しい教えや、厳しい戒めや、深い知恵や有用な知識というよりも、「良い知らせ」なのであります。もちろん、神の言葉には、厳しい裁きの側面や、この世を生きる知恵の要素も含まれてはおりますが、それ以上に、神様が起こして下さった恵みの出来事についての知らせであります。<主が悪を滅ぼして勝利して下さった>、<あなたがたの罪は赦された>、<もはやあなたがたは自由な身となったのだ>、という喜びの知らせなのであって、聴いただけで心躍るような言葉なのであります。そのことをまず、覚えたいと思います。

2−2.福音に聞き従う

次に16節に進みます。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。

15節では「良い知らせ(福音)を伝える者の足は、なんと美しいことか」と言われていたのですが、ここでは「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません」と言われていて、福音が宣べ伝えられ、聞かれるけれども、福音に従わないことが起こる、ということが述べられているのであります。つまり、福音を耳では聞くけれども、福音に聞き従わないということがあり得るということであります。

・聖書をいくらよく読んでも、それを歴史書や文学書や哲学書や道徳の書として読んでいるだけで、神が自分に語りかけて下さっている神の言葉として聞くのでなければ、意味がありません。礼拝の説教も、聖書の解説や牧師の感想が語られているのであれば、それは神の言葉とは言えないし、せっかく福音が語られていても、聞く方がそれを生きた神の言葉(神の声)として受け止めるのでなければ、聞き従うということは起こらないのであります。

16節後半に、預言者イザヤが言った「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」という言葉が書かれています。これはイザヤ書531(p1149)の言葉で、「主の僕の歌」と呼ばれている箇所からの引用であります。その一部(13節)を見てみましょう。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(イザヤ53:13)――これを読んで私たちは、ここに書かれている「この人」というのは、イエス・キリストのことだ、と理解できるのでありますが、ユダヤ人たちは、そのようには理解しなかったのであります。彼らはここでイザヤが預言しているような主の僕がやがて来るということは考えていたのでありますが、目の前の主イエスがそれだとは信じなかったのであります。だから主イエスに従うことが出来なかったのであります。聖書を熱心に読み、キリスト教の話しをよく聞いていて、神の言葉を聞いているつもりでいても、そこに主イエス・キリストを聴き取って、主イエスに従うということが起こらないならば、神の言葉を聞いたことにはならないのであります。

2−3.キリストの言葉を聞く

17節でパウロは、実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです、と言っております。これまで、「御言葉」とか「福音」と言ってきたのを、ここでは、「キリストの言葉」と言い換えております。「キリストの言葉」というのは、<キリストがお語りになる言葉>という意味と、<キリストについての言葉>という意味の両方があると思われます。先程のイザヤ書の主の僕の歌の場合は、それがキリストについて語られていると受け止めたときに、神の言葉として信じ、従うということが起こるのであります。また例えば、ルカによる福音書416節以下に、イエス様がナザレの会堂でお話になった時のことが記されていますが、イエス様は聖書を開いて、イザヤ書61章の初めの部分を朗読されました。そこには、こう書かれていました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4:18)。――これを読まれた後、イエス様は、会堂にいる人々に向かって、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られたのであります。この場合、旧約聖書に書かれているイザヤの言葉が、「キリストがお語りになる言葉」(キリスト自身の言葉)に成ったのであります。

・いずれにしましても、聖書の言葉は、そこにキリストが浮き彫りにされ、キリストの御人格・キリストの御業が迫って来るように語られ、聞かれる時に、そこに信仰が始まり、聞き従うということも起こって来るのであります。それは、「キリストを聞く」と言ってもよいかもしれません。

・「キリストの言葉を聞く」、あるいは「キリストを聞く」ということは、従って、単にキリストが語られたこと・なさったことを、知識として知るということとは違います。<キリストがお語りになっていることは、自分について言っておられるのだ>、<キリストの十字架の御業は私のためであった>と受け止めて聞くことであります。そこには悔い改めが起こります。感謝と喜びが湧き上がります。生き方が変わって来ます。耳で聞くだけでなく、頭で聞くだけでもなく、心が開かれて、魂で受け止めて、行動となって表れるのであります。それが、「キリストの言葉に聞く」ということであります。

2−4.響き渡る御言葉

それでは、なぜ、ユダヤ人たちは、キリストの言葉を聞くことが出来なかったのでしょうか。なぜ、聖書の言葉や礼拝の説教がなかなか多くの人に受け入れられないのでしょうか。なぜ、私たち自身も感謝と喜びをもって、御言葉を聞くということになりにくいのでしょうか。――そのことをパウロは18節で問いかけます。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。

そう問いながらパウロは、もちろん聞いたのです、と言って、先程聖書朗読で聞いた、詩編195節の言葉を引用します。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」。――神様の声は全地に響き渡っているではないか、世界の果てにまで及んでいるではないか、あなたがたのところにも来ているではないか、と言っているのであります。私たちは我が侭であります。自分に御言葉が聞こえないことを、誰かの責任にしたり、教会のあり方が悪いと言ったり、現代社会の状況を嘆いたり、挙句の果ては神様に責任があるように思ってしまうのであります。けれども、実は神様の声は響き渡っているのであって、聞こえないのは自分に責任がある、自分が聞こうとしていないのであります。

・神の声が響き渡っているだけではありません。19節では、イスラエルは分からなかったのだろうかと言いながら、申命記の言葉を引用しています。「わたしは、わたしの民でない者のことで、あなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」(申命記32:21)。――これは、もともと神の民でなかった異邦人でさえ神様の恵みを知るようになって、ユダヤ人がねたみを起こすようなことが起こっている、ということであります。また、20節では、イザヤの言葉を引用して、「わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」(イザヤ65:1)と言って、やはり異邦人でさえ神様を見出しているではないか、と言っているのであります。更に21節では、イザヤ書の続きの、「わたしは、不従順で反攻する民に、一日中手を差し伸べた」(イザヤ65:2)という言葉を引用しています。神様は不従順なユダヤ人のためにも、救いの手を伸ばしておられるではないか、ということであります。

・神様はあらゆる手を尽して、私たちに御言葉を語り、信じる者となって、救いに入れようとしていて下さるのであります。私たちはそのことを知るべきであります。

結.良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか

・このような神様の御心に気付いて、御言葉を受け入れた者は、9,10節にも書かれていましたように、御言葉の福音の内容を口で言い表す者にされますし、更にはそれを、人々に宣べ伝えたいという思いにさせられるのであります。

・そこで、もう一度15節の言葉に戻りますが、「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と言われています。これは、イザヤ書527節からの引用であります。そこでは、主なる神が勝利され、エルサレムに平和が訪れるという福音を告げ知らせる者のことが称えられているのであります。足が美しいとされています。勝利の知らせを伝える者の喜びに満ちた力強い足取りが美しいという表現でありますが、美しいのは、足そのものというよりは、その足によって伝えられる福音の内容そのものが美しい、神の勝利そのものが美しいということであります。

それをパウロが引用する場合には、もちろん福音の内容はイエス・キリストによって勝ち取られた罪に対する勝利のことであります。主イエスの勝利が美しいのであります。――しかしここで、思い出さなければならないことがあります。先程、16節の中の引用のことをお話した時に、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」という言葉に続いて、主の僕の醜い姿が描かれていることを見ました。それは、主イエスの御受難を思わせる預言であります。福音を伝える者の足の美しさの秘密は、十字架において現れた人の罪の醜さを主が負って下さったということにあるということを忘れるわけにはいきません。主が醜い者になって下さったが故に、勝利の福音が美しいものとなり、福音を伝える者の足までもが美しく見えるのであります。

今年の年間目標は「御言葉に親しみ、伝える」ということであります。その御言葉とは、キリストの言葉であります。そしてキリストの言葉の中味は、キリストが十字架と復活によって成し遂げて下さった救いの出来事であります。この喜びの福音を聞いた者は、それを語り告げることへと召されます。御言葉を聞いた者は誰でも、「良い知らせを伝える」美しい足とならざるを得ないのであります。今年の目標は、私たち全員が、その美しい足になることであると言ってもよいのであります。そのためには、まず、響き渡っている御言葉に耳を傾け、それに聞き従う者とされなければなりません。
・祈りましょう。

祈  り

・主なる神様!

今日も、あなたが私たちに手を差し伸べて下さって、御言葉の許に引き寄せて下さいましたことを感謝いたします。

あなたがイエス・キリストにおいて成して下さったことは、誰も覆い隠すことは出来ません。どうか、私たちも、勝利の喜びを宣べ伝える美しい足に加えられますように。

・どうか、教会生活の中ではもちろん、日常の生活の中でも、福音の恵みを携え行く者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>        2009年2月8日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙10:5−21(U)
 説教題:「良い知らせを伝える」
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