序.平和(平安)が揺らぐ中で

・金融危機に端を発した世界不況の中で、仕事がなくなる不安、生活の先行きに対する不安が世の中を覆っております。パレスチナのガザ地区の攻撃は一応休戦状態にありますが、いつ再開するかもしれない不安定な状況が続いております。アメリカではオバマ大統領が大きな期待を受けながら登場いたしましたが、一気に世界の不安が解消するわけではないでしょう。わが国は政局が極めて不安定で、将来に対する希望が見えて来ない状態にあります。

・このような不安が覆う中で、今日は、イザヤ書26章が与えられております。この章のキーワードは「平和」であります。「平和」という日本語は、戦争のない状態を思い浮かべさせますが、原語は「シャローム」であります。これは「平安」とも訳される言葉であります。聖書では「平和(平安)」ということが、どのように考えられているのでしょうか。聖書の御言葉は私たちの不安を解消してくれるのでしょうか。御言葉は私たちに、どのようにして「平和(平安)」をもたらせてくれるのでしょうか。

・イザヤ書の24章から27章までは、「イザヤの黙示録」と言われます。ここには、終りの日における世界の審判と救いが語られております。前回に聴きました25章では、終りの日における勝利を喜ぶ祝宴の様子が描かれておりました。256節から10節をもう一度読んでみましょう。

 「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。主の御手はこの山にとどまる。」(イザヤ25:610

――今日の26章は、この続きであります。

1節初めには、その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる、とあります。25章と同様に、終りの日にユダの民が歌う勝利の喜びの歌が先取りされているのであります。これは終りの日のことを歌ったものでありますから、目前の現実とは違うのであります。ユダの民の間には、将来に対する不安が覆っていたかもしれません。そのような中でイザヤは、敢えて、「その日」即ち終りの日の勝利の喜びを歌うのであります。

・これは、将来に対する楽観的な夢を語ることによって、ユダの民を元気づけようとしているだけなのでしょうか。希望を持たせることによって、困難に立ち向かう力を引き出そうとしているのでしょうか。オバマ大統領の就任演説や、麻生首相が28日に行った施政方針演説は、そういうものであったかもしれません。しかし、イザヤの語る歌は、そういうものとは根本的に違います。イザヤは人間を鼓舞することによって、勝利へ向かう元気を引き出そうとしているのではありません。そうではなくて、神様の約束を語っているのであります。人間が努力して達成できる未来を語っているのではなくて、神が与えて下さる最終的な勝利を語っているのであります。人間の元気はくじけることがあるかもしれません。人間の努力は実らないことがあるかもしれません。しかし、神様の約束が反故(ほご)になることはありません。

・これは、ユダの民についての歌であります。しかし、2節に、神に従い、信仰を守る民が入れるように、とありますように、ユダで代表される「信仰の民」――神様を信じる人々に語られる約束であります。私たちもまた、この歌に招かれているのであります。

1.堅固な都に入る
 ・では、どのような約束へと招かれているのでしょうか。

12行目から、こう歌われています。我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と保塁が築かれた。――「堅固な都」とは、言うまでもなくエルサレムのことであります。エルサレムは地形的に城砦のようになっていた上に、石垣をもって立派な城壁や保塁(砦)が造られていて、決して壊されることのない「堅固な都」であると信じられていたのであります。

・しかし実際は、間もなくエルサレムは、バビロニアに滅ぼされることになるのであります。その後、再建されて、主イエスの時代には「堅固な都」の体裁は整っていたようでありますが、紀元70年に、ローマ軍の手によって完全に破壊されてしまうのであります。そして現在は、わずかに「嘆きの壁」と呼ばれる部分だけが面影を留めているのであります。

それでは、イザヤの言っていたことは、夢や幻に過ぎなかったのでしょうか。如何に堅固に見えるものであっても、いつかは崩れ去るということなのでしょうか。――そうではありません。ここでイザヤが言おうとしたのは、物理的なエルサレムの都のことではありません。「救いのために、城壁と保塁が築かれた」と言っております。神様の救いの確かさを、エルサレムの都の堅固さに譬えているだけであります。神様はユダの民の先祖であるアブラハムやモーセやダビデに対して、救いの約束(契約)をなさいました。その神様の契約を受けた民が、「堅固な都」であり、その確かさを守る契約こそが「城壁と保塁」なのであります。

しかし、ユダの民は、この神様から与えられた契約を守りませんでした。その行き着く先が、神の子イエス・キリストを十字架に架けてしまうという出来事でありました。それ故に、「堅固な都」エルサレムも滅ぼされねばなりませんでした。

けれども、それで神様の契約(約束)が反故になったわけではありません。否、反って、イエス・キリストの十字架によって、救いの約束は「新しい契約」として、より門戸が開かれ、より堅固な城壁や保塁となったのであります。

2節には、こう言われています。城門を開け。神に従い、信仰を守る民が入れるように。――ここでイザヤが「城門を開け」と言っているのは、直接的には、敵が攻めて来たときに、城外に住んでいたユダの民も、城門の中に入れるために、城門を開け、ということであります。しかし、イエス・キリストによって、信仰の民はユダの民だけでなく、キリストを信じるすべての人に開かれました。救いの門は、すべての人に開かれているのであります。

・すべての民と言いましても、誰でも、ということではありません。「神に従い、信仰を守る民」であります。口語訳聖書では、「信仰を守る正しい国民」となっていました。原語では「正しい(義)」という言葉が使われています。この言葉は9節、10節にも「正しさを学ぶ」という形で出て来ます。10節に「神に逆らう者は、憐れみを受けても、正しさを学ぶことがありません」と言われていますように、「正しさ」とは何かと言えば、神に逆らわずに「神に従う」ということであります。だから2節を、新共同訳聖書では、「神に従い、信仰を守る民が入れるように」と訳したのではないかと思われます。神への信仰を守る正しい者は皆、城門の中へ入れられるのであります。

・ヨハネ黙示録2125節以下には、こう記されています。「都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の書に名が書いてある者だけが入れる。」――ここで言われている「都の門」はイザヤ書の城門と同じであります。城門は普通、夜は閉ざされます。しかし、天の門には夜がないのであります。いつも開かれているのであります。しかし、「汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない」と言われています。決して無条件に誰でも入れるわけではありません。けれども、汚れた者であっても、「小羊の命の書に名が書いてある者」、即ちキリストによって罪を拭われ、汚れを清められた神の民は、入ることが許されるのであります。

2.シャローム、シャローム

・次の3節には、町の中の祝福された状態が示されています。堅固な思いを、あなたは平和に守られる、あなたに信頼するゆえに、平和に。――苦心の訳だと思いますが、原文の語順とは全然違っております。原文を直訳すれば、「思いを寄せる人を、あなた()は守る、平和、平和。なぜなら、あなたを信頼するから」となるのでありまして、「平和(平安)=シャローム」という言葉が続けて二度繰り返されているのであります。これは平和が強調されているのでありまして、これを口語訳では、「全き平安」と訳しておりました。つまり、<神様に思いを寄せる人を、神様は全き平安をもって守られる>ということであります。

ここで、聖書で言う「平和(平安)=シャローム」の持つ意味についてお話しておかなくてはなりません。シャロームというのは、単に戦争や争いが無い状況とか、平穏で安心な状態を指すのではありません。シャロームとは、何かが足りなかったり損なわれているのではない、真に充足した(満ち足りた)状態、生命力がみなぎっている状態を表します。これは本来、神様のものであります。神様が世界を創造し、人間も造られたとき、それを見て「良し」とされました。この状態はまさに「シャローム」であったと言えるでありましょう。

人間も本来は、神の被造物として何の欠けもなく、シャロームな者として造られたのであります。神様と人間の関係もシャロームであったのであります。ところが人間は、堕落して、神に反抗する者となって、神様との間のシャロームが失われたのであります。そのことが、人間と人間の間のシャロームをも失わせることになったのであります。

では、失われたシャロームはどうして回復することが出来るのでしょうか。それが、先程も少し触れました、契約ということであります。神様はシャロームを失った人類を憐れんで、まずユダヤ人を選んで契約の民とされたのであります。神様と人間の間で結ばれた契約を守り続けることによって、シャロームな関係を保つことが出来るようにして下さったのであります。イザヤ書5410節(p1151)では、こう言われています。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和(シャローム)の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる。」(イザヤ54:10)――「山」とか「丘」は動きにくいものの表現でありますが、当時力を持っていたアッシリアとかバビロンとかエジプトといった大国のことも指しています。こうした大国であっても、やがて揺らぐことがあるかもしれません。しかし、神との間に結ばれた契約は揺らぐことがないというのであります。ユダの民は大国の圧力に揺れていました。これらの国によって、シャロームが脅かされるのではないかと恐れていました。しかし、イザヤは、神のシャロームの契約は揺らぐことはない、と断言するのであります。

ところが、先程も言いましたように、この契約のシャロームは人間の方から破られるのであります。ユダの民は神のシャロームが信じられなくて、右往左往して、結局、大国の支配を招くことになりました。

しかし、神様はシャロームの契約を反故にされることはなかったのであります。損なわれた神様と人間の関係を、神様の方から修復して下さるのであります。それが、イエス・キリストの十字架によって回復して下さった、新しい契約、新しいシャロームであります。イザヤはこのことを534節以下(p1149)でこう預言しております。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和(シャローム)が与えられ、彼の傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:4,5

このように、シャロームは人間が満たすものではなくて、神から賜わるものであり、神の業であります。新約聖書ではシャロームのことがギリシャ語のエイレーネという言葉になりますが、それは、キリストによってもたらされた神との平和を表します。キリストによって罪が赦されて、救われることが、本当の平和(平安)なのであります。ですから、シャロームは、「救い」と言い換えてもよいのであります。神と人間との関係の回復、罪の赦しが、本当のシャロームの基(もとい)であります。

・世界は今、不安に覆われています。平安が失われています。私たちの生活にも、将来に対する不安が、重くのしかかって来ます。この不安を解消するために、政治家の努力も、企業家の努力も、平和運動家の働きも必要でしょうが、何よりも必要なことは、真の平安を造り出して下さる主のシャロームに信頼することであります。263節後半には、「あなたに信頼するゆえに、平和」と言われていました。そして、4節には、どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩、と勧められています。

3.貧しい者、弱い者の勝利

・では、主に信頼した結果はどうなるのか。それが56節に述べられています。主は高い所に住まう者を引きおろし、築き上げられた都を打ち倒し、地に打ち倒して、塵に伏させる。貧しい者の足がそれを踏みにじり、弱い者の足が踏みつけて行く。――ここで「高い所に住まう者」とか「築き上げられた都」というのは、アッシリアやバビロンなどの都とそこに住む者と見ることも出来ます。あるいは、25章の終りに「モアブの滅亡」という小見出しがつけられた段落があって、その最後の12節に、「主はお前の城壁の砦と塔を砕き、打ち倒して地の塵に伏させる」という言葉がありますが、この言葉は、261節の最後の言葉と5節の最後の言葉に受け継がれていますから、モアブの滅びのことを言っているのだと解釈することも出来ます。しかし、そのような他国のことではなくて、自分たちも含めた、全ての驕り高ぶる者たち、神を畏れない傲慢な者たちのことと見た方がよいのではないでしょうか。オバマ大統領は就任演説の中で、現在の経済状況の悪化の原因は、「一部の人々の貪欲さと無責任さにある」と断じました。これまで誰も正面から指摘しなかったことであり、胸がすく思いがしたのでありますが、ここでイザヤが言おうとしているのは、そういうことも含まれるかもしれませんが、そのような貪欲と無責任さの根本にある、神を畏れない傲慢であります。そして、6節の「貧しい者」「弱い者」とは、神の前に罪の深さを覚えて、へりくだる者のことでありましょう。ですから、ここでは、身分とか経済的立場に逆転が起きることを言っているのではなくて、真のシャロームを得る者は誰か、ということを言っているのでありましょう。真のシャロームを得るのは、神の前に自らの罪を覚えて、主イエス・キリストの執り成しに信頼している者であります。

結.主による平和

・今日の箇所は6節まででありますが、少し飛ばして12節、13節を御覧下さい。ここには祈りの言葉が述べられていますが、その中にも「平和(シャローム)」という言葉が出てきます。

 主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を、成し遂げてくださるのはあなたです。 わたしたちの神なる主よ、あなた以外の支配者が我らを支配しています。しかしわたしたちは、あなたの御名だけを唱えます。

・真の平和「シャローム」を授けてくださるのは、主なる神であります。私たちは色々なものにシャロームを求めようとしてしまいます。そして私たちはいつの間にかそれらに支配されて、真のシャロームを失ってしまうのであります。主の御名だけを唱えて礼拝することから真のシャロームが授けられます。

・最後に、先程朗読しました、新約聖書のローマの信徒への手紙51節、2節の言葉をもう一度読みましょう。

 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。(ローマ5:1,2

・今日のイザヤ書の歌は、「その日」(終りの日)のことを歌ったものであります。しかし、ここには、「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」とあります。私たちは既に平和(シャローム)を得た者たちなのであります。

今日のイザヤ書264節に「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」とありました。(これは今月の聖句でもあります。)この「岩」とは、イエス・キリストを指し示しています。先ほど歌った260番の讃美歌で「千歳の岩よ」と歌われますが、これも主イエス・キリストのことであります。

どこまでも主に信頼して、この不安な時代の中においても、平和(シャローム)を持ち続けるものでありたいと思います。

祈りましょう。

祈  り
 ・イエス・キリストの父なる神様!

・罪のゆえに不安に陥りがちな者に、真のシャロームを与えて下さいましたことを感謝いたします。
・どうか、主の救いの岩に信頼し続ける者とならせて下さい。

・体の不安や生活の不安の中にある方々に、どうか、主が臨んで下さって、本当の平安をお与え下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>        2009年2月1日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書26:1−6
 説教題:「主による平和」
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