序.信仰を問い直される

・先週は、ヨハネによる福音書831節以下の段落から御言葉を聴いたのでありますが、そこには、31節の冒頭にありますように、主イエスは御自分を信じたとされるユダヤ人たちに語られたお言葉が記されていました。しかしその内容は、非常に厳しいもので、34節にあるように、<あなたがたは、罪の奴隷ではないか>ということでありました。その御言葉は、ユダヤ人たちだけに語られたものではなくて、私たちにも語られた御言葉として受け止めたのでありました。

・今日は、39節から47節までの段落から御言葉を聴こうとしているのでありますが、ここも、ユダヤ人たちとの対話が続いているのでありますが、ここにも前回に勝るとも劣らない厳しい主イエスのお言葉が続いております。

・礼拝というのは、イエス・キリストの福音を聴いて神様を拝む場であります。しかしそれは、耳障りのよい、甘い言葉を聴くのではありません。主イエスの御言葉はいつも、私たちの間違いを正して、真理に目覚めしめるものであります。自らの信仰や信仰生活が問い直され、悔い改めへと招かれることによって、神様の深い愛と恵みを覚えて、拝むことへと導かれるのであります。

・主イエスの厳しいお言葉は、単に私たちを裁き、苦しめるためのものではありません。主イエスは今日も、愛を込めて私たちに語りかけていて下さるのであります。私たちは厳しい言葉には反発を覚えたり、<そんなことを言われても、自分にはどうしようもない>などと思ってしまいます。しかし、主のお言葉を、自分を誤魔化さずに聴くことによって、大きな恵みを受けることが出来るのであります。今日も、与えられた御言葉を、真正面から、真摯に聴いていくことによって、大きな恵みに与りたいと思います。

1.アブラハムの子

・さて、今日の箇所の初めの39節で、彼ら、即ちユダヤ人たちは、「わたしたちの父はアブラハムです」と言っております。これは、先週の箇所でのイエス様とのやりとりからの続きでありまして、32節でイエス様が、「真理はあなたたちを自由にする」とおっしゃったことに対して、ユダヤ人たちは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」と言っております。つまり、ユダヤ人たちは、アブラハムと正妻サライとの間に生まれた子の子孫であることを自認しておりますから、奴隷なんかでないことを誇っているのであります。ところがそれに対して主イエスは34節で、「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と言われ、更に37節では、「あなたがたがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている」とまでおっしゃったのであります。つまり、血筋的にはアブラハムの子孫には違いないが、罪の奴隷になってしまっているので、主イエスを殺そうとしている、と言われたのであります。

・更に38節で主イエスは、「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」と言われていました。この前半は、主イエスが父なる神様の子であり、神から地上に遣わされて、神のもとで見たことを皆に伝えている、ということを言っておられるのでありますが、後半の「あなたたちは父から聞いたことを行っている」とおっしゃる場合の「父」というのは、父なる神のことではありません。それは今日の箇所へ読み進んで、44節まで行くとはっきりするのですが、そこでは、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって」と言っておられます。つまり、ユダヤ人たちは「悪魔の子」であると言い切っておられるのであります。

しかしユダヤ人たちは、イエス様のおっしゃろうとすることが、まだよく分かっておりませんでしたから、ここであらためて「わたしたちの父はアブラハムです」と主張するのであります。自分たちは、正真正銘のアブラハムの血筋に属する者だし、アブラハムに約束されたものを受け継いでいる、と言いたいのであります。

・けれどもそれに対してイエス様は、「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは自分の父と同じ業をしている」39,40)と言われました。「アブラハムと同じ業」とは何でしょうか。アブラハムは神様の言葉に従って、生まれ故郷を離れて、約束の地へ向かって旅立ちました。アブラハムは年老いて子がなかったのに、神の約束に従って念願の子イサクが与えられたのですが、神様がその子を献げ物としてささげるように命じられると、それを実行しようとしたのであります。このようなアブラハムの業とは、神様の言葉を聞いて、その通りに従うということであります。人間として納得できないことであっても、神様の言葉に従ったのであります。ところが、ユダヤ人たちはイエス様から神の真理を聞いているにも拘わらず、それに従うどころか、神の言葉を語っている主イエスを殺そうとしているのであります。それは、あなたがたの父である悪魔のするのと同じ業だ、と言われるのであります。

・ユダヤ人たちは、そう言われても、まだ自分たちのしようとしていることの愚かさに気付きません。そして、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」(41)と言います。「姦淫によって生まれたのではない」という意味は、自分たちは正統なアブラハムの子孫であり、異教の神々を礼拝するような浮気をしていません、ということでありますが、同時に、イエス様はマリアがヨセフと結婚する前に、姦淫によって生まれたのではないかと噂されていたことについて、皮肉を込めて言ったのではないかと考えられます。それに比べると、自分たちの父は、ただひとりの神だ、というのが、彼らの誇らしげな言葉であります。

・ユダヤ人が天の神様を父と呼ぶことは、先ほど朗読した申命記326節など、旧約聖書の所々に語られていることであって、間違いではありませんが、その父なる神様が、「私の愛する子」とおっしゃった主イエス・キリストをなぜ、神の子と認められないのか、なぜ、神様がお遣わしになった御子を敵視して殺そうとまでするのか、――それでは、神を父と呼ぶ資格はないではないか、ということであります。

・私たちも「主の祈り」において、「天にましますわれらの父よ」と呼びかけております。また、日頃の祈りの中でも、「父なる神様」と呼ぶことも多いのであります。しかし、私たちは、<造り主なる天の神様を、そのように気安く呼べる者なのだろうか>、<自分たちを神の子とする資格はないのではないか>、ということを考え直してみる必要があります。私たちは、アブラハムのようには神様の言葉に素直に従わないという点で、アブラハムの子と言える信仰を持ち合わせていませんし、イエス・キリストの執り成しがなければ、決して天の神様を「父」と呼ぶことの出来ない者たちなのであります。

2.神の子を愛しているか

・さて、ユダヤ人たちが、「わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言ったことに対して、主イエスは42節でこう言っておられます。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。」――神を父とすることと、イエス・キリストを愛することとは、切り離すことが出来ないのであります。キリストを抜きにして、神を父とすることは出来ない、ということであります。これは重大な真理であります。

・私たちは、神が創造された自然の驚異を見て、神を思うことが出来るかもしれません。イスラエルや人類の歴史を見て、神の力や慈愛を覚えることが出来るかもしれません。しかし、それだけでは、父なる神に出会うことは出来ないのであり、神を「父」と呼ぶことは出来ないのであります。イエス・キリストによって語られ、成された御業によって神の愛を知って、私たちが、それに動かされてキリストを愛することが起こってはじめて、神を父とすることが出来るのであります。

・余談になりますが、先日のオバマ大統領の就任演説は素晴らしいものでありました。感銘を受ける、深い内容のフレーズがいくつかありました。さすがキリスト教国の大統領の演説だけに、「神」という言葉が少なくとも3回出て来ましたし、聖書からの引用もありました。しかし、「キリスト」あるいは「イエス」という言葉は出て来ませんでした。キリスト教国とは言え、イスラム教徒も、ユダヤ教徒も、ヒンズー教徒も、そして無宗教者も含む国家であり、それらの人々の間の分け隔てをなくそうという姿勢を打ち出していますから、「キリスト」だけが登場したのではまずいのは理解できるのですが、これは、あくまでも国民の責任を訴えて、未来に対して希望を持たせようとした演説であって、決して説教ではないのであります。「神」という言葉を使い、聖書の言葉を引用したとしても、キリストを証しするものではないし、信仰を生み出すものでもないのであります。

・神を父と告白し、礼拝することの出来る信仰は、神から遣わされたキリストの愛の業が語られ、キリストへの愛が呼び覚まされるところに生まれるのであります。43節で主イエスは、「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ」と言っておられます。キリストの言葉が語られ、聞かれることがなくては、どれほど心を打つ演説が語られ、どれほど有益な教えが述べられても、神を父として崇める信仰は出て来ないのであります。

・ユダヤ人たちは、自分がアブラハムの子孫であり、自分が律法をどれだけ守っているかということに関心がありました。そこには救い主イエス・キリストは必要がなかったのであります。私たちも、自分がクリスチャンとして恥ずかしくない生活をしているか、教会のためにどれだけ労苦しているか、ということに心が向いてしまいがちで、主イエスが私のために、どれだけ心を砕いていて下さるか、どれだけ苦しんでいて下さるかということに心が及ばないのであります。主イエスの恵み・御存在を無視してしまっているのであります。主イエスは復活後、裏切った弟子のペトロに、「あなたは私を愛しているか」と問われました。そのように主は、私たちにも、今、「あなたたちは私を愛しているか」と問うておられるのではないでしょうか。

3.悪魔の子になっていないか

・主イエスは更に44節で、先ほども少し見ましたが、こう言われます。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときには、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」

非常に厳しいお言葉であります。ここで主イエスは「悪魔」という言葉を持ち出して、何を言おうとしておられるのでしょうか。イエス様はユダヤ人たちが自分を殺そうとしていることに腹を立てて、腹立ち紛れに「悪魔」呼ばわりしておられるのではありません。そうではなくて、「悪魔」について語られることによって、人間の罪の本性を明らかにしておられるのであります。

主が語られる悪魔の第一の特質は、「欲望を満たす」ということであり、それが人殺しにつながっている、ということであります。自分の肉体的・精神的満足を求めるために、他人の存在を無視する、或いは否定するということであります。私たちは、具体的に殺人にまでは至らなくても、自分を満足させ、自己を否定されないために、他人の存在を無視するという罪を、しょっちゅう犯しているのではないでしょうか。

・主が語られる悪魔の第二の特質は、「真理がない」ということであり、それが、偽りとなって現れているということであります。「真理」ということは、先週の箇所にも出て来ました。32節では「真理はあなたたちを自由にする」と言われていましたが、そこで言われている「真理」とは、神の言葉である、ということを申しました。ここでも「真理がない」「真理をよりどころとしていない」というのは、神の言葉に基づいていない、ということであります。そこから様々な偽りが生じてきます。ユダヤ人は律法を大切にしましたが、それは神の言葉である律法を重んじたのではなくて、律法を表面的に守っていることで、偽り者(偽善者)となっていたのであります。私たちも、神の言葉に従うことよりも、人間の評価を気にすることによって、キリスト者という仮面をかぶった偽善者になってしまっていないかが問われます。私たちは知らず知らずのうちに、悪魔の子になってしまっていないか、主は私たちに警告を発していて下さいます。

4.神に属する者

45節で主イエスは、「しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない」と言われています。また46節の後半でも
「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか」と言っておられます。主イエスの語られる御言葉が、聞かれず、通じず、受け入れられていないことを嘆いておられます。

・私たちは、自分に都合の悪いことには、耳を傾けません、受け入れようとしません。そして、神様のなさることが分からないとか、主イエスのおっしゃることは理想であるけれども、現実は簡単ではない、などと言って、結局は、神様も、主イエスのおっしゃることも本気で信じようとはしないのであります。

・しかし主イエスは47節で、「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」とおっしゃいます。「神に属する者」という語は、<神からのもの><神に起源を持つ者>という意味です。どういう人が神に属する者なのでしょう。単にアブラハムの子孫というだけでは、神に属しているとは言えないのでしょう。ただ律法を表面的に守っているというだけで神に属しているとは言えないでしょう。主イエスは、「神に属する者は神の言葉を聞く」と言っておられます。「神の言葉を聞く」とは、神の言葉を聞いて受け入れる、ということであります。先週の箇所の言葉で言えば、31節で言われていた、「わたしのことばにとどまる」ということであります。――それはただ、耳で聞くということではありません。その人の生き様・日常の生活の仕方の中で聞く、ということであります。御言葉に自分を委ねた生き方をする、ということであります。

・だが、それが私たちになかなか出来ないことであります。ユダヤ人は、ここまで言われてもまだ、気が付かずに、議論を続けます。そして、ついに十字架にまで至るのであります。

結.悪魔に勝利される主

・それならば、結局、主イエスは悪魔の子に負けてしまわれたということなのでしょうか。――そうではありません。このように、十字架に至るまで主が戦っていて下さったことが救いの御業であります。主イエスはただ独り、最後まで神の言葉に忠実であり続けて下さいました。そのことによって、最終的には、悪魔は主イエスに勝てなかったのであります。勝利者はイエス・キリストであります。そして、私たちを「悪魔の子」としてではなく、「神の子」として招いて下さるのであります。

・今日の主イエスのお言葉はまことに厳しいお言葉でありましたが、それは主イエスが悪魔と戦って下さっているからであり、私たちを、命をかけて招いていて下さる恵みのお言葉なのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・愛する主イエス・キリストの父なる神様!

御子をお遣わし下さって、私たちのために悪魔との激しい戦いに勝利して下さって、あくまでも私たちを悪魔の手に渡さないようにして下さった恵みを感謝いたします。

あなたの恵みを受けながらも、頑なに御言葉に従おうとしなかった私たちをお赦し下さい。

・どうか、お与え下さった真理の御言葉にとどまり続けることの出来る者とならせて下さい。どうか、私たちの日常の歩みの中で、主を愛し、人を愛して、御栄光を証しする者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>     2009年1月25日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書8:39−47
 説教題:「真理の言葉」
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