序.本当の弟子とは

・今日はヨハネによる福音書831節以下の箇所から御言葉を聴こうとしております。先週は、すぐ前の段落から、『わたしはある』という題でお話しましたが、そこで主イエスが言われていたことを、一言で要約するならば、<あなたがたは、今のままなら、自分の罪のうちに死ぬことになるけれども、主イエスが十字架に上げられたときに初めて、「わたしはある」という神様のお名前の意味、即ち神様が主イエスと共にあり、また私たちとも共にいて下さるということが分かるだろう>ということでありました。

・そして、先週の箇所の最後の30節に、「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」と書かれていたのでありました。しかし、私は、ここには「みな信じた」とは書かれていなくて、主イエスの話を聞いても、信じられない人がいた、ということを申しました。それは非常に残念なことなのですけれども、実は、今日の箇所から後を読み進んで行くと、もっと深刻な事態が明らかにされて行くのであります。

31節を御覧いただきますと、イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた、と書かれています。つまり、30節で、「イエスを信じた」と書かれていた人に対して、イエス様のお話が続くのであります。ところが、今日の箇所では、「信じた」とされていたユダヤ人とイエス様の話が、かみ合わないのであります。それどころか、37節でイエス様は、「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」、とおっしゃるのであります。更に、次回に取り上げる箇所の中ですが、44節では、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」とまで言われるのであります。

・ですから、30節で「イエスを信じた」と言われていたけれども、本物の信仰ではなかったということなのかもしれませんし、人は信じたように見えても、すぐさま悪魔にも変わり得るものだ、ということを示しているのかもしれません。私たちは、自分が信仰を持っているつもりであります。主イエスを信じているつもりであります。しかし、その信仰は本物なのか、信じているという根拠はどこにあるのか、主イエスの本当の弟子と言えるのか、ということを問い直さざるを得ないのであります。

・今日の箇所で、主イエスのお言葉を聞いただけでは、ユダヤ人たちは、根本的には変わらなかったのであります。59節を見ると、「ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした」、とあります。そして結局は、主イエスを十字架に上げるところまで行くのであります。私たちも、根底において、このユダヤ人と変わらないところがあるのであります。

・ですけれども、幸いなことに、私たちは聖書を通して、主イエスの言葉を、あらためて聴き直すことが許されているのであります。そして、私たちは一体何者なのか、主イエスはそのような私たちに何をして下さったのか、そして、どうすれば、本物の弟子になれるのかを教えて下さるのであります。――ですから、注意深くこの箇所の主イエスの言葉に耳を傾けたいと思います。

1.主イエスの言葉にとどまる

・まず31節で、主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」と言われています。

・ここに「とどまる」という言葉が出てきます。ギリシャ語で「メノー」という語ですが、これはヨハネ福音書の中にしばしば登場する重要な言葉であります。これまでにも何度か出て来ました。1章で、主イエスがヨハネから洗礼を受けられたとき、ヨハネは、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(1:32)と証言しております。聖霊が、一瞬、主イエスの上に降ったのではなくて、その後ずっと、「とどまる」のであります。その翌日、ヨハネがイエス様を二人の弟子に紹介すると、二人はイエス様について来て、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」(1:38)と尋ねます。この「泊まって」というのが、同じ言葉であります。その日二人は、イエス様のもとに泊まったのであります。この場合は、その後ずっとイエス様のところに泊まったという訳ではないのですが、イエス様の弟子として、とどまり続けることになるのであります。

15章に有名な「まことのぶどうの木」の話しがあります。その中でイエス様は、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(15:4)と言われました。ここで何度も出てくる「つながっている」という言葉が、同じ「メノー」という語であります。ぶどうの枝は、ぶどうの木につながり続けていなければ、実を結ぶことは出来ません。一旦、木から離れれば、枯れ枝になるしかありません。そのように、私たちも主イエスにとどまり続けるのでなければ、命をつなぐことも、まして実を結ぶことも出来ないのであります。

・どのようにして主イエスにつながるかと言えば、「わたしの言葉にとどまるならば」と言われています。主イエスの言葉にとどまるとは、主の言葉を聴き続ける、ということであります。主の言葉を聴く、ということは、礼拝によく出席して、説教を聞いておればよい、ということでしょうか。ただ聞いているだけでは、「とどまる」と言われていることとは違うでしょう。御言葉がとどまるような聞き方というのは、人生における様々な場面において、キリストの言葉に従って、判断し行動する、ということであります。仕事のことについても、家庭のことについても、人間関係においても、様々な困難に出会ったときにも、或いは何かを始めようとするときにも、キリストの言葉に基づいて、判断し行動していることが、御言葉に聴き続けている、ということであります。果たして私たちはそうしているか、ということが問われています。私たちはつい、世間の常識とか、自分の利益になるかどうかとか、自分の感情とか正義感とかによって、動いていないでしょうか。こんな場合、イエス様なら、どうしろとおっしゃるだろうか、イエス様ならどうされるだろうか、と考えることが大切であります。でも、イエス様のようにはいかない、と思ってしまいます。本当でしょうか。イエス様のようにはいかない、と思った瞬間に、私たちはイエス様の御言葉にとどまらなくなってしまって、イエス様から離れてしまうのであります。御言葉を本気で信じていない本性が現れて来るのであります。本物の弟子ではないことが判明するのであります。イエス様のようにはいかないかもしれないけれど、お言葉だから、おっしゃるようにしましょう、というのが、御言葉にとどまる、ということであります。マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けたときに、マリアが「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と言いましたが、これが御言葉にとどまるということであります。

・今年の年間目標を「御言葉に親しみ、伝える」といたしました。これは、今日の言葉で言えば、御言葉にとどまる、ということです。聖書をよく読んで、親しむということも「御言葉に親しむ」ということであるに違いありません。けれども、ただ聖書の知識が増えたり、聖書の言葉をたくさん覚えても、御言葉にとどまる、ということにはなりません。御言葉を聴いて、それに自分の生き様を合わすことで初めて、御言葉はとどまるのであります。

2.真理を知る

・続いてイエス様は32節で、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とおっしゃいました。この言葉は、聖書の中でも一般によく知られている言葉の一つです。ヨーロッパの大学や研究所の入り口などに掲げられることが多いようですが、日本でも、新島襄が好んだ言葉で、同志社大学法学部の入り口にラテン語でこの言葉が彫られているようですし、国会図書館にも掲げられているそうであります。ところが、国会図書館では、聖書の言葉そのままではなくて、「真理がわれらを自由にする」となっているそうであります。この場合には、人間が学問的に真理を追究することによって、迷信や様々な束縛から解放されて、人間の可能性が開かれる、という意味で、この言葉が用いられているのであります。しかし、イエス様がおっしゃったのは、そういう意味ではありません。イエス様は一般的な格言を述べられたのではなくて、31節の言葉に続いているのであります。つまり、「わたしの言葉にとどまるならば」という条件がついているのであります。一般的な真理ではありません。主イエスの言葉が真理の元であります。しかも、死んだ言葉ではなく、主イエスの言葉にとどまって、その言葉に従って生きることによってはじめて、真理を知ることが出来、その真理が私たちを自由にするのであります。ですから、ここで言う真理とは、<主イエスの御言葉>と言い換えてもよいでしょうし、<主イエスそのもの>と言ってよいのであります。主イエスは後に14章で、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)と言っておられます。ですから、「真理を知る」とは、イエス・キリストを知るということであり、それは、31節で言われているように、主イエスの御言葉にとどまって、主の弟子になるということであります。

3.真理は自由にする

・では、「自由にする」とは、どうなることでしょうか。次の33節を見ると、ユダヤ人たちが「自由」ということをどのように考えていたかが分かります。イエス様が「自由にする」とおっしゃると、ユダヤ人たちは、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までにだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」と言っております。彼らは、<何もイエス・キリストの世話にならなくても、もともとアブラハムの子孫なのだから、自由なのだ。今まで誰の奴隷にもなったことはありません>と言っているのであります。

・ユダヤ人が奴隷になったことがないというのは、史実と違うと思われるでしょう。ユダヤ人は、エジプトで奴隷を経験したではないか。バビロン捕囚も、いわゆる奴隷状態ではなかったかもしれないが、隷属させられていたわけですし、主イエスの時代もローマの支配下にあったのは事実です。しかし、ユダヤ人は、そのような政治的、経済的な隷属状態を奴隷とは考えないのであります。ユダヤ人はアブラハムの子孫であり、神様から選ばれた民であるという誇りがあります。それに、アブラハムの妻サライには、はじめ、子供が生まれず、ハガルという女奴隷との間に子供をもうけるのです。その後、妻のサライにイサクが生まれるのですが、その子孫が自由人としてのユダヤ人であり、ハガルの子孫は奴隷になる、という考え方を持っているのであります。そのユダヤ人の誇りを支えているのがモーセを通して与えられた律法であります。この律法を守ることによって、たとえ政治的、経済的な隷属状態にあっても、宗教的には支配されることなく、神の民として自由であるという誇りをもっているわけであります。ですから、イエス様が「あなたたちを自由にする」とおっしゃったことには、ひっかかるわけであります。

4.罪からの自由

・そこで主イエスは34節で、彼らが実は奴隷であることを明らかになさいます。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」。――ユダヤ人は律法を守っていると自負していました。もっとも、律法を完全に守ることは出来ないと知っていたでありましょう。でも、罪の清めの儀式を行っているから、神様の怒りからは免れられると思っていました。しかし、洗礼者ヨハネは言いました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(ルカ3:78)。――主イエスがここでおっしゃっているのも同じ主旨であります。ここで「罪」というのは、個々の律法違反というよりも、神様との関係が損なわれていることであります。ユダヤ人たちは、アブラハムの子孫だ、と言って誇りながら、神様との関係は破れ、律法に縛られ、罪の奴隷になってしまっているではないか、と言われるのであります。

・私たちはどうなのでしょうか。私たちは、それなりに正しい生き方をしている、人のために尽すこともしている、キリスト者としての教会生活も、完全とは言えないにしても、なすべきことはちゃんとやっている。この世のしがらみとも、自分なりに距離を置く生き方をしている。人に迷惑をかけないで生きることも、何とかできる。――そのように思って、自分を誇っているところには、神様はおられるのでしょうか。主イエスの御言葉はとどまっているのでしょうか。私たちもまた、いつのまにか、ユダヤ人と同じように、罪の奴隷になってしまっているのであります。自由人であることを誇りつつ、本来の自由を失っているのであります。

結.子が自由にする

・イエス様は<お前たちは罪の奴隷である>と宣言されたあと、35,36節で、更にこう言われています。「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

・奴隷は息子と違って跡継ぎになるわけにはいきません。むしろ、奴隷は売り飛ばされて他の家に移らなければならないかもしれません。一方、家の息子は親を継いで、いつまでもその家にいます。放蕩息子の譬えでは、弟息子は、親の家にいるのが窮屈で、もっと自由になりたいと思って、家を飛び出しました。けれども、気ままな生活の果ては、不自由な生活が待っていました。あの譬えでイエス様がおっしゃっていることは、父なる神様のところにこそ、本当の自由がある、ということであります。

・ここでイエス様がおっしゃっている「子」というのは、一般的な子ではなくて、明らかにイエス様御自身のことであります。父なる神様と自由な愛の関係にある御自身のことを言っておられるのであります。神の子である主イエスは、父なる神様とぴったりの関係にあります。

・その「子」である主イエスが、あなたたち罪の奴隷である者を、自由にする、とおっしゃるのであります。本来は、父の家から追い出されても文句の言えない罪の奴隷である者を、自由の身にしてくださる、というのであります。これが、これから主イエスが十字架の御業において、しようとしておられることでありました。31節で「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」と言われました。私たちは、キリスト者とされながら、なかなか本当の弟子にはなれない者であります。しかし、子なるキリストが、私たちを罪の奴隷から自由にして下さると約束しておられるのであります。

それが、今日、私たちを本物の弟子にして下さるための、主イエスの御言葉であります。私たちは、この御言葉にとどまるならば、この御言葉に自分を委ねるならば、本当に自由にされるのであります。私たちを雁字搦めにしている誤った誇りや自尊心から解放されて、神と人の前に真にへりくだった者となることが出来るのであります。

このあと、37節では、冒頭に触れましたように、ユダヤ人たちは、今のイエス様のお言葉を聞いておりながら、イエス様を殺そうとするのであります。私たちもまた、御言葉を与えられながら、それを無視するかのような生き方をしてしまう者であります。

けれども、主イエスは諦めずに、ユダヤ人たちに語り続けられます。そして遂には、十字架に上げられるのであります。そのイエス様が命をかけて私たちに御言葉を語っておられることを、蔑ろにすることは出来ません。どうか、主の恵みの御言葉に留まり続ける者とされるよう、祈りましょう。

祈  り
 ・神の独り子イエス・キリストの父なる神様!

・今日も御言葉によって、私たちを本当の自由へと招いて下さいましたことを感謝いたします。

・自らを誇り、御言葉に委ねない、罪の重荷を、どうか、あなたが取り去って下さい。どうか、御言葉のもとにとどまり続ける者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>     2009年1月18日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書8:31−38
 説教題:「罪からの自由」
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