序.わたしは去って行く

・ヨハネによる福音書の7章から8章は、仮庵祭の後半から祭の終了後にかけて、主イエスが神殿において、祭に来ていた群衆やユダヤ人の指導者たちと交わしたやりとりが記されています。今日の箇所もその続きであります。

・冒頭の21節の前半に、こう書かれています。そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。」――イエス様は、今話しているユダヤ人たちのところから、やがて去って行く、ということをおっしゃっています。どこへ行かれるのでしょうか。エルサレムを去って、ガリラヤにお帰りになるということでしょうか。そうではなさそうです。

同様のことはこれまでにも言っておられて、733節以下にもこう書かれていました。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」7:3334)――このお言葉からすると、イエス様は父なる神様のところへ帰るということをおっしゃっているようであります。けれども、そう言われた時に、ユダヤ人たちは、「どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」7:35)と、イエス様のおっしゃる意味を図りかねているようなトンチンカンな言い方をしておりました。そこには、イエス様が神様のところから来られた方であることを認めたくないという気持ちが働いていたのかもしれません。

・けれども、今日の箇所の21節の後半では、イエス様はこう言っておられます。「だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」――ここではイエス様は、ユダヤ人たちの死にことを語っておられて、「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」と言っておられるのですから、御自分の死と関係づけて語っておられることは明らかであります。

・それに対してユダヤ人たちは22節で、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と、茶化したような、不真面目なことを言っております。

・このように、ユダヤ人たちは、イエス様の死のことを、真面目に考えようとしていませんし、自分たちが「罪のうちに死ぬ」と指摘されているにも拘わらず、そのことを真剣に受け止めようとしていないのであります。

・ところで皆さんは、御自分の死のことについて、真剣に受け止めて、備えをしておられるでしょうか。

 一般に、若いうちはあまり自分の死のことは考えないものでありますが、身近な者の死を経験したり、大病を患ったり、歳をとってくると、自分の死のこと、あるいは自分の死後の家族のことが気になり出します。

・年末に、私と小学校から高校まで同窓だった親しい友人が死にました。若い頃に胃潰瘍にかかって、胃を全部摘出していましたし、兄弟が六十台で亡くなっていますので、自分も高齢まで生きられないと早くから覚悟しておりましたが、それでも今年、古希を迎えて、4月には同窓会の幹事として、元気に大役を果たしてくれたのでありますが、9月に検査したときに、すい臓が癌に侵されていることが発覚して、余命幾ばくもないと宣告をうけたのであります。しかし、前から死の覚悟は出来ておりましたから、あわてることなく、身辺の整理をし、葬儀屋との打ち合わせもして、葬儀の式次第まで自分で考えて、その時には私に弔辞を述べるようにまで、依頼していたのであります。ただし、私は日曜日には葬儀に出席出来ないということが分かっていまして、その場合のために、もう一人用意するという、段取りの良さでありました。案の定、葬儀が1228日の日曜日にしなければならないことになって、私は弔辞をご遺族にメールで送って、それを代読していただくことになったのでありますが、ともかく、死を前にして、心の準備も含めて、殆ど完璧と言ってよい備えが出来ていたのであります。――彼はクリスチャンではありませんが、生前、人のためによく世話をし、多くの人から好かれ、おそらく親族や近隣との間にも何のトラブルも残さずに、人生を終えたのであります。神様はこういう人を天国に迎えられるのかもしれません。

・けれども、私たちキリスト者は、死の日のために、このような準備だけでよいのでしょうか。今日の箇所では、ユダヤ人に対するイエス様の厳しいお言葉が記されているのでありますが、それらはまた、私たちも心して聴かなければならないお言葉なのではないでしょうか。しかし、そのお言葉はまた、私たちを真の救いへとお招き下さる恵みのお言葉でもあるのです。

1.わたしを捜すだろう

・もう一度21節の主イエスの御言葉を聴いて行きたいと思います。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に来ることができない。」――この言葉を聞いているのは、前の段落からの続きだとすればファリサイ派の人々を中心とするユダヤの指導者たちであります。その人たちに対して「あなたたちはわたしを捜すだろう」と言われております。彼らは主イエスを捕らえて殺そうとしていた人たちであります。彼らは主イエスの言動を否定し、救い主であることを認めていない人たちであります。それなら、主イエスがこの世を去って行かれたならば、ほっとするのではないかと思いますが、そうではなくて、「捜すだろう」と言われるのであります。主イエスが亡くなられても、一件落着にはならないのであります。むしろ、主イエスを忘れられず、もう一度、主イエスが何者であったのか、何をなされたのかということを探求し直さなければならなくなる、ということであります。
・実は、ここで言われたのと同じような言葉が、後にイエス様の弟子たちにも言われるのであります。1333節を御覧下さい。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」(13:33)と言っておられます。イエス様に敵対していた人たちだけでなく、イエス様の弟子たちも、去って行かれるイエス様を捜さなくてはならなくなるのであります。主イエスが自分にとって誰であったのか、主イエスの十字架の死は何であったのかが分からなくなるのであります。弟子がそうであれば、私たちも同様だということであります。私たちもイエス様を見失いかねないのであります。私たちはイエス様を捉えているつもりであります。イエス様に従っているつもりであります。けれども、主イエスの十字架の死の意味を本当に捉えているのか、と問われているのであります。

2.自分の罪のうちに死ぬ

・続いて主イエスはユダヤ人たちに対して、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」との厳しい言葉を述べておられます。この言葉は24節でも繰り返されていて、「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分のうちに死ぬことになる」3回も言われているのであります。私たちは誰でも皆、死の時を迎えます。ある程度歳をとれば、死に対する覚悟もでき、あの私の友人のように、死の時に対する備えもある程度出来るのであります。しかし、自分の罪の問題について、清算を済ませて死の時を迎えることが出来るのでしょうか。主イエスはファリサイ派のユダヤ人に対して、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われました。私たちはこの御言葉から免れることが出来るのでしょうか。私たちには、人を躓かせたままにしていることがあるのではないでしょうか。人を傷つけたのに修復しないままになっていることがあるのではないでしょうか。神様の御心に従わないまま、自分中心の生き方を続けているのではないでしょうか。神様に委ねきることが出来ないまま、不安と恐れを拭いきれない自分がいないでしょうか。「罪」とは結局、不信仰のことであります。イエス・キリストを信じないことであります。私たちは教会へ来て、イエス・キリストと出会った者であります。それだのに、自分をイエス・キリストに委ねきれず、頑なに自分の習慣や考え方に拘って、素直に主の御命令に従おうとしないところがあります。――そんな私たちに対して、主イエスは「あなたたちは罪のうちに死ぬことになる」と警告して下さっているのであります。

・主イエスはここで、単にユダヤ人や私たちを批判しておられるのではありませんし、単に<死ぬしかない>と断罪しておられるのでもありません。主イエスは、憐れみをもって、<このままでは、あなたがたは罪のうちに死ぬしかない>と嘆いておられるのであります。そして、自分は、そのようなあなたたちのために、地上に来たのだ、そしてこれから、十字架へ向かおうとしているのだ、と言っておられるのであります。「罪のうちに死ぬことになる」のは、実は、イエス・キリスト御自身なのであります。

3.わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない

・更に主イエスは、「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」と言われました。これは先ほど見ましたように、13章で弟子たちにも同じ言葉で語っておられます。それはイエス様が弟子たちの足を洗われた席で語られたお言葉であります。イエス様は、自分がこれから世を去るということを繰り返しお語りになったのに続いて言われたのであります。

・では、どういう意味で言われたのでしょうか。<ユダヤ人たちや弟子たちが不信仰だから、私がこれから行く所には、ついて来れない>とおっしゃっているのでしょうか。あるいは、<これから自分は天国への道を登って行くのだが、それは神の子である自分しか行けなくて、あなたがた人間は、弟子であってもキリスト者であっても、一緒に来ることが出来ないのだ>とおっしゃっているのでしょうか。そうではありません。14章になると、主イエスはこう言っておられます。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(14:23)――つまり、最終的には、主イエスは弟子たちや私たちを御許に迎えようとして、準備して下さるのであります。

・それではここで、「わたしの行く所に、あなたがたは来ることができない」と言われているのは、どういう意味でしょうか。それは、これから向かおうとしておられる十字架の道は、一緒に行くことが出来ない、ということです。主イエスの十字架の死は、誰もついて行くことの出来ない厳しい道であり、ただ独り、主イエスだけが歩むことがお出来になる道なのであります。私たちが罪のうちに死なないために、ただ独り十字架へ向かわれるのであります。

4.「わたしはある」

・少し飛ばしまして、24節に参ります。「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」――ここでは、21節にもあった「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という同じ二つの言葉の間にサンドイッチのようにして、「『わたしはある』ということを信じないならば」という言葉が入っています。つまり、私たちが「罪のうちに死ぬ」ということになってしまうのは、『わたしはある』ということを信じないからだ、ということであります。逆に言うと、『わたしはある』ということを信じれば、私たちは罪のうちに死ななくてもよい、ということであります。

・では、『わたしはある』とはどういう意味でしょうか。この言葉は、実はヨハネによる福音書では何度か出て来ました。その際にもお話ししましたように、これはギリシア語では「エゴー・エイミ」というのですが、英語で言えば、「Iam」であります。旧約聖書の出エジプト記で、モーセが召命を受けたときに、<イスラエルの人々が「神さまの名は一体何か」と問うたら何と答えるべきですか>と神様に問うたところ、神様は『わたしはある』と言う者だと答えられたのであります。神様の存在を示す、非常に重い言葉であります。ヨハネ福音書では、イエス様が湖の上を歩いて弟子に近づかれたとき、弟子たちが恐れていると、イエス様は「わたしだ」とおっしゃいました。これは、『わたしはある』と同じ言葉であります。イエス様がそこに来られたことは、『わたしはある』というお名前の神様がそこにおられることでもあるのであります。ヨハネ福音書では、今日の箇所のすぐ前で、主イエスが「わたしは世の光である」(8:12)とおっしゃいましたが、この「わたしは○○である」というのも、同じ言葉であります。 「わたしが命のパンである」(6:35)と言われたときも、同じ言葉が使われています。「世の光」とか「命のパン」というのは比喩でありますが、そこに主イエスの(即ち神様の)存在と力が示されているのであります。ですから、「『わたしはある』ということを信じない」ということは、主イエス・キリストにおいて、神様の御臨在を信じない、ということになります。

・今日の箇所のもう少しあとの2829節を見て下さい。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」とあります。

 ここにも『わたしはある』という言葉が出て来ますが、その前に「人の子を上げたときに」という言葉があります。この「上げる」という言葉は、一つには「十字架に上げる」という意味があります。もう一つは「天に上げられる」、つまり<栄光の座に上げられる>という意味であります。すると、ここで語られていることは、<あなたたちユダヤ人が、人の子、つまり主イエスを十字架につけたときに初めて、『わたしはある』ということが分かる、即ち、神の御臨在が示される、ということであり、それこそ、主イエスが神様の御心に従ってなされた、神の御栄光を顕す御業である>、という意味になります。つまり、人々が主イエスを十字架につけるという呪いに満ちた業が、神様の御臨在を示し、御栄光を顕す出来事になるのであります。

・そして、そのことを信じるか信じないかが、私たちが罪のうちに死ぬのか、それとも救われるかの決め手になる、ということになります。

結.イエスを信じて死の備えをする

・これらのことを主イエスが語られたのは、ファリサイ派の人々を中心とするユダヤ人たちでありました。そのユダヤ人たちが、やがて主イエスを十字架に「上げる」のであります。しかし、その事が起こったとき初めて、『わたしはある』という、神様の救いの御業が成就するのであります。これは不思議な神様の御業であります。

・主イエスを十字架に上げるのは、ユダヤ人ばかりではありません。私たちもまた、キリストを蔑ろにし、その御存在を無視するような生き方をしてしまいます。主の十字架の赦しがなかったかのように、人を赦さず、自分を正しいとする歩みを続けております。そのような私たちに向かって主イエスは「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言って下さいます。これは、私たちに対する厳しい裁きの言葉であると共に、『わたしはある』と言われるお方の招きの言葉でもあります。主イエスは、そのような御言葉をもって、自らの罪を思わしめ、私たちに、「主と共にある死」への備えをさせて下さるのであります。

・最後の30節に、これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた、と記されています。喜ばしいことであります。しかし、ここに「みな信じた」とは書かれていないのであります。主の十字架の御言葉を聴いても信じない人がいるのであります。私たちもまた、ひと時は信じた気になっていても、やがて主の恵みを忘れてしまいかねないのであります。私たちはいつの間にか、「自分の罪のうちに死ぬ」ことになってしまう危険を抱えている者たちであります。ですから、絶えず御言葉によって呼び覚まされて、常に主の御臨在を信じる者へと立ち返らされつつ、死の時に備える者とされることを、願わざるを得ません。
・お祈りいたします。

祈  り
 ・救い主・イエス・キリストをお遣わし下さった父なる神様!

・主イエスの十字架の恵みを、感謝いたします。

・どうか、赦しを受けた者に相応しく死の時を迎えられるよう、備えさせて下さい。

・どうか、十字架の恵みを、日々の生活の中で生かすことのできる歩みを、なさせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>      2009年1月11日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書8:21−30
 説教題:「わたしはある」
          説教リストに戻る