序.御言葉に親しむために

・明けまして、おめでとうございます。今年もこうして皆様と御一緒に、御言葉を聴いて礼拝することから一年を始めることが出来ますことは感謝であります。

・米子伝道所の今年の年間目標は、『御言葉に親しみ、伝える』と委員会で決めさせていただきました。<なぜ、そのような目標を掲げたのか、その狙いは何か、>ということですが、昨年と一昨年は『私たちはキリストの使者』という目標を掲げました。それは<一人一人が伝道の業に仕えることができるように>、という狙いがありました。しかし、そのためには、一人一人がまず、礼拝において感謝と喜びを覚えるのでなければ、そのような志が出て来ないということで、昨年は、副題として、「感謝と喜びの礼拝に招き入れるために」という言葉をつけていました。結果的にどうでありましたでしょうか。礼拝が本当に感謝と喜びの礼拝になっていたでしょうか。私自身、説教が感謝と喜びを生み出す説教になっていたかどうか、反省させられるところであります。更に、感謝と喜びに押し出されて、礼拝に欠席している人をお招きすることが出来たか、新しい方をお誘いすることが出来たか、ということになると、目標は決して達成されたとは言えません。

・しかし昨年も、私たちの怠慢にも拘わらず、神様は、新しい人を礼拝に招いて下さったり、長年、求道をしておられた姉妹を洗礼に導いて下さいました。感謝のほかありません。神様は私たちの思いもかけない色々な方法で、人を教会へお招きになります。最初からはっきりと信仰を求めて来るとは限りません。昨年洗礼された姉妹の場合も、最初はオルガンの奏楽をしてみたい、という動機からでありました。教会には、人間的な交わりを求めて来られる方もあります。この世的な幸せを求めて来られる方もあります。そのようなきっかけを用意するために、私たちの小さな働きが用いられることもあります。それも喜ばなければなりません。

・しかし、どのようなきっかけで教会に来られても、最終的には、主イエス・キリストと出会い、神様の前に跪くということがなければ、その人の救いにはなりませんし、一生涯にわたって信仰生活を続けることには繋がりません。そこで決定的な鍵になるのは、人間的な暖かさとか、交わりの深さとかではなくて、神様の御言葉の力であります。御言葉の語りかけによって、主との出会いが起こり、礼拝が起こされるのであります。

・その御言葉の語りかけは、中心的には礼拝で行われる説教と聖餐でありますが、それは牧師だけに任せておけばよい、というものではなくて、教会全体が、御言葉に耳を傾け、御言葉に聴き従い、そして御言葉を語り伝えようとする姿勢がある中でこそ、一人一人の信仰も養われ、教会生活も身に着いて行くのであります。

・そういう意味で、教会が伝道の使命を果たして行こうとする時に、教会の一人一人がどれだけ御言葉に親しんでいるか、どれほど御言葉と向き合いながら日々の生活を送っているか、ということが、大きな決め手になるのではないかと思うのであります。そういうわけで今年は、『御言葉に親しみ、伝える』という目標を掲げることにしました。これは、これまで二年間掲げた『私たちはキリストの使者』という目標が達成できたから降ろすとか、とても到達出来そうもないから看板を書き換える、ということではなくて、私たちがキリストの使者となるためには、私たち自身が、更に御言葉に親しみ、御言葉と取り組むことが必要で、その基本のところから、もう一度始めようではないか、ということであります。

・それならば、どうしたら、私たちは御言葉に親しむことが出来るのでしょうか。日ごとに聖書を開いて読む習慣をつけるということでしょうか。聖書研究会や聖書と祈りなどの集会に出るようにすることでしょうか。具体的にはそういうことも大切でしょう。

・しかし、今年の主題聖句を御覧ください。二つありますが、一つ は、“御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある”であります。これは今日の箇所の108節の言葉でありますが、ほぼ同じ言葉が、申命記3014節にあって、パウロがそこから引用して、ここで述べているのであります。(もう一つの主題聖句の“良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか”というのも、今日の箇所の中にありますが、これについては125日の定期総会の日の礼拝で取り上げたいと思います。) この108節の言葉を見ますと、御言葉は、既にあなたの近くにある、と言われているのであります。私たちが御言葉に親しもうとする前に、御言葉の方から私たちの近くに来ている、ということであります。これは、どういう意味でしょうか。――今日は、この言葉を中心に、御言葉と私たちとの関係について学びたいと思うのであります。

1.遠い御言葉

・さて、今日の箇所の冒頭の5節で、パウロはこう言っています。モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。――これはレビ記185節の引用なのですが、そのままの引用ではなくて、レビ記の方ではこう言われています。「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。」――つまり、律法を守って、それを実行する人は命を得る、ということで、逆に言えば、律法を守れない人は命を失わざるを得ない、という厳しい言葉であります。ここで、「律法」とか「掟」と言われているのは、神様から与えられたものであり、神様の御意志を表すものでありますから、「御言葉」と置き換えることも出来るものであります。

・私たちは旧約聖書に書かれている、十戒をはじめとする律法について知っていますが、とうてい完全に守ることが出来ないものであります。しかし、イスラルの民は、これが神様から与えられた御言葉ですから、何とかこれを守ろうと努力して来たのであります。律法を守ることによって、自分たちの義を立てようとしたのであります。でもそれは所詮、不可能なことでありました。実際は、律法の真髄を曲げて、それを形式的に熱心に守ることによって、自らを誇ることに陥ってしまいました。

私たちの信仰生活も、そうした過ちに陥り勝ちであります。礼拝に休まず出席している、献金は人並みに献げている、生活面でも人に後ろ指を指されないどころか、人から尊敬されるようなことをしている、ということで、自分の義を立ててしまって、同じようには出来ない人を批判したり、信仰が未熟だと蔑んだりしてしまうことがあるのではないでしょうか。

また、教会の雰囲気とか、皆の価値観がそういう捉え方になってしまっていると、そういうことが出来ない人は、教会に居辛くなったり、教会では救われないと思ってしまったりして、教会を去ってしまうことになるのであります。

このようにして、神様の律法・神様の御言葉は、私たちにとって守ろうとしても守れない近づき難い存在になったり、逆に、自分を正当化する手段に化してしまっていて、本来の、神様との正しい関係を与えるものとは異なる、御言葉から遠い存在になってしまっているのであります。

2.キリストが御言葉

・パウロは、イスラエルの中にあった、律法に対するそうした態度に悩んで来た人であって、直前の101節から4節までを読むと、彼の心が分かります。こう言っております。

 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

4節でパウロは、「キリストは律法の目標であります」と言っております。これは大切な言葉であります。この訳では「律法の目標」という言葉が使われていますが、口語訳聖書では「律法の終り」と訳されていました。あるいは「律法の完成」とも訳せます。イスラエルの人々は律法を守ることによって自分で神の義を満たそうといたしました。しかし、律法を完全に守ることの出来たのはイエス・キリストだけであります。イエス・キリストは律法に示された神様の御心に従われ、十字架に至るまで従われたので、律法は「目標」に達し、「完成」したのであります。そのことによって、誤った熱心さを生み出す律法に「終り」をもたらされたのであります。

そこで5節に戻りますが、モーセは「掟を守る人は掟によって生きる」と言っており、イスラエルの人々は、そのモーセの言葉に従って掟を守って命を得ようと努力しましたが、それが出来ず、命は得られず、掟は(御言葉は)遠い存在になってしまっていたのであります。

しかしパウロは、続いて6節以下で、申命記30章のモーセの言葉を引用しながら、こう言っております。

しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを使者の中から引き上げることになります。

この言葉を申命記でモーセが語っている際には、冒頭で「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」(申命記3011)と語られていて、神の言葉である戒めがいかに身近なものであって、それを実行することがいかに容易であるかを語ろうとしたもので、わざわざ天まで行って持ち帰らなければならないようなものでもなく、海のかなたまで渡って持ち帰るようなものではなくて、身近にあるのだ、ということを言ったのであります。ところが、実際は、律法を守ることによって義を立てることは難しく、神の言葉は遠くの存在になってしまったのであります。けれどもパウロはその同じ言葉を、「律法による義」ではなくて、「信仰による義」のことが預言されていると解釈して述べているのであります。つまり、キリストのことが語られているのだと理解するのであります。

・そうすると、キリストが来られて、「律法の目標」(或いは「律法の終り」)になって下さったことによって、信仰によって義とされることになったのだから、もはや、救いを求めて天に上ろうとすることは、キリストが救い主として天から来て下さったことを否定することになるし、また、底なしの淵(すなわち陰府)に下ろうとすることは、私たちのために墓にまで入って下さったキリストの十字架の死を疎かにすることになる、というのであります。

・パウロの解釈には少し飛躍があるように感じられるかもしれません。しかし、<神の言葉である戒めが、難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない>という申命記の言葉は、そのままでは決して理解できないのであって、それがキリストの十字架による救いのことを言っていたのだと解釈することによって、はじめて理解できるのであります。キリストが私たちの身代わりとなって、神の律法を成就して下さったからこそ、神の言葉が私たちにとっても難しいものではなく、身近なものになったのであります。

3.御言葉はあなたの近くに

・パウロは更に8節で、申命記3014節の言葉を引用しながら、御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある、と言います。申命記の方では、神の律法が遠いものではなくて、人間の口や心ほどに近くにあるということが述べられていたのでありますが、それを、キリストの救いの福音の御言葉が、いかに我々に近いかということを語る信仰の言葉として引用しているのであります。

・更にパウロは9節以下で、申命記の「御言葉は…あなたの口、あなたの心にある」という言葉を、私たちの信仰の告白のことに繋げています。9節、10節でこう語っています。

 口でイエスを主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

ユダヤ人にとっては、律法の言葉はいつも口ずさみ、いつも頭から離れず、日常生活に密着したものでありました。それと同じように、今度はキリストの十字架による救いの福音の御言葉が、私たちの口をついて出るようになり、心に根付く、というのであります。ここで「公に言い表す」と訳されていることばは、「信仰を告白する」という場合の言葉と同じであります。

・「口で…言い表し、心で…信じる」と言われていますが、これは口で言うことと、心で信じていることに違いがあるということではありません。「イエスを主である」と告白するのは、口だけで言うのではなくて、心でも告白していないと、口で言い表すことが出来ません。また、「神がイエスを死者の中から復活させられた」ということも、心で秘かに信じているだけでなくて、口に出して信仰告白として語られなければなりません。口で告白することと、心で信じていることは、分かち難いことであります。だから、「イエスを主である」と告白することと、「神がイエスを死者の中から復活させられた」と信じることは、一つの信仰であって、イエス様を主として崇めるけれども、イエス様の復活ということは信じられないということはあり得ないし、イエス様の復活は受け入れていながら、イエス様を主と崇めないということもないのであります。どちらも口で告白し、心でも信じるということは、私たちが、これらのことを信じる信仰によって生きているということであります。私たちの生活が、イエス様を主人とする生活になっているし、そのことを言葉と行動によって表している、ということであります。それが、救われるということであります。

・このようにパウロの語ることを聴いて参りますと、「御言葉が私たちの近くにある」ということが、だんだん鮮明になって来ました。最初にも申しましたように、「御言葉に親しむ」という今年の年間目標は、具体的には日常生活の中で聖書に親しみ、聖書から力を受けることを今年の課題にする、ということなのではありますが、実は、「御言葉が私たちの近くにある」ということは、これから私たちが励まなくてはならない課題なのではなくて、既に、クリスマスに神の言葉である主イエス・キリストが来られたことによって現実となっていることなのであります。「御言葉に親しむ」という課題も、一つの律法になってしまっては、反って御言葉が遠退いてしまいます。私たちが御言葉にいかに近づくか、ではなくて、既に私たちに近づいて下さったキリストを見ること(聴くこと)が、「御言葉に親しむ」ということなのであります。

・私たちの普段の生活は、御言葉とは別の論理や別の習慣や別の思いが働いていて、私たちはそれらに流されているように思われます。しかし、主は、私たちの日常生活の主でもあります。そのことを信じぬく生き方が、救われた者の生き方であります。

結.主を信じる者は、だれでも救われる

・最後に11節から13節までを見ましょう。11節にはイザヤ書からの引用があり、13節にはヨエル書からの引用があります。11節では、「主を信じる者は、だれも失望することがない」とあり、13節では「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と言われています。

・当然のことが言われているだけのように思われるかもしれません。けれども、私たちの実生活の中では、しばしば失望しているのではないでしょうか。<救いようがないな>と思うような状態があると感じているのではないでしょうか。それは、現在の社会の状態を批判的に見たり、人様の様子を見ていて思うだけでなくて、自分自身についても思うことが多いのであります。信仰するとか、礼拝するということが、この世で生きて行くためにどれだけ役に立つのだろうか、と思ってしまうことがあります。

・しかし、聖書は、そうは言いません。御言葉は、そうは語らないのであります。「主を信じる者は、失望することがない」と言い、「主の名を呼び求める者は救われる」と言うのであります。なぜなら、主が既に私たちの近くに来て下さって、救いの御業を始めて下さっているからであります。私たちがこれから何事かを始めなければならないのではありません。私たちがせっせと努力を重ねて、主に近づかなければならないのではないのです。既に、御言葉なる主が私たちの近くにあるからであります。御言葉が私たちの困難な生活、望みを失いかけるような生活の只中で語られているからであります。私たちは、その御言葉を聴き続け、信じ続け、主の名を呼び求める礼拝を続けている限り、失望に終ることがないし、必ず救いに入れられる(神様とのよい関係へと導かれる)のであります。

・しかも、ここでは「だれでも」ということが強調されています。12節には、ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです、と言われています。立場や境遇や才能が違っても、それはキリストの前(御言葉の前)では、問題にならないのであります。<問題にならない>というのは、何の問題も生じていないかのように、現実から目を逸らすとか、一人一人の個性を無視するということではありません。救いのためには、何の障害にもならない、ということであります。むしろ、人間の目に不利と思われること、欠点だと思われることが、御言葉と出会うきっかけになったり、救いの喜びをより多く受け止めるために役立つのであります。パウロはコリントの信徒への手紙の中で、「わたしは弱さを誇ろう」(Uコリント125)と言っています。なぜかと言えば、主が「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われた(Uコリント129)からであります。御言葉なる主は、弱さの中にある人にこそ近くいますのであります。実に、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」のであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・御言葉なるイエス・キリストの父なる神様!

・新年最初の礼拝にも、御言葉において私たちの近くに来て下さいましたことを感謝いたします。

・閉塞感が広がる中で、弱さを覚え、あなたが遠くにおられるかのように思い勝ちでありますが、どうか、どのような時にも、御言葉において近くにいて下さいます主を覚えさせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所新年礼拝説教<全原稿>       2009年1月4日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙10:5−21
 説教題:「御言葉はあなたの近くに」
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