召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。  (ペトロの手紙一1:15               
 イエス・キリスト再臨の日に与えられる救いの希望について語って来た筆者は、その日までの生き方について標記のように勧める。「聖なる者」とは、<聖人のような、道徳的に清らかな者>という意味ではない。「聖」とは<区別する><選び分かたれる>という意味だから、神のものとして、他から区別される者のことである。仙人のような世捨て人になるということではないが、この世にありつつ、キリストの救いを知らない人とは区別されるような生き方をせよと言うのである。
 それにはまず、「いつでも心を引き締め(直訳:心の腰に帯を締め)、「身を慎んで(直訳:酔わないで)」(13)、その日を待ち望むようにと勧める。これは、困難な現実があっても、そこから目を逸らさず、責任ある行動をとれるように体勢を整える、ということである。それは、救いに向けて区別された者は、主イエスが既に来て下さって、罪の根を断たれたという真の現実を知っており、再臨の日の救いの完成を「ひたすら待ち望む(直訳:完全に期待する)」(13)ことが出来るからである。
 さらに、「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となれ」(14)と勧める。「無知」とは、ここでは神の救いの御心を知らないことであり、その場合は、いかに理性的に生きようとしても、自分の欲望に引きずられた生活をしてしまう。しかし、神が備えて下さった救いの道筋を知る者は、その道に従順に従う者とされるのだ。
 「召し出してくださった聖なる方に倣う」(15)とは、あまりにも高いハードルが与えられたように思えるかもしれないが、これは、主がイスラエルの民をエジプトから導き出された事実と一対になっている言葉(レビ19章ほか)であり、私たちキリスト者に当てはめれば、キリストの十字架の救いの御業と一対になった言葉であって、そこには、既に私たちを「聖なる者」へと区別された主の御意志が働いているのである。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨          2008年12月28日 山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一1:13−16
 説教題:「
聖なる者」                説教リストに戻る