序.救われた者は、いか生きるべきか

・二ヶ月に一度、新約聖書の中の「手紙」から御言葉を聴いております。五年間かけて「ヘブライ人への手紙」を読んだあと、「ペトロの手紙」を読み始めて、今日で4回目になります。

・なぜ、聖書の中に手紙が沢山取り入れられているのでしょうか。単に用件を伝えるだけの手紙であれば、時代が移ってしまえば、歴史的な興味はあるかもしれませんが、現代の人々が読んで、心を動かされるとか、影響を与えるということは、さほどないかもしれません。しかし、聖書に残されている手紙は、いずれも、当時の教会が現実の社会にあって、宣教の戦いをする中で、自分たちの信仰とは何か、キリスト者は如何に生きるべきか、を真剣に問いつつ書かれた、生きた証言や勧めであるだけに、現代の私たちの魂を目覚めさせ、生きる力を与えてくれるのであります。

・ペトロの手紙は、異教の世界の中で、信仰生活を営んでいる小アジア人の教会の人たちに宛てられたもので、その人たちの背後には、異教徒たちの厳しい扱いがあったり、キリストを知る以前の古い生活に舞い戻ってしまいそうになる危険が取り囲んでいたのであります。そうした信徒に対して、ペトロとされる筆者は、選ばれてキリスト者になるということは、どのような喜びや希望が与えられているのか、また、どういう生き方をすればよいのかを、言葉を尽して語っているのであります。

・私たちもまた異教社会の中にあって、様々なこの国の習慣やモノの考え方に取り囲まれていて、それらを無視して生活することは出来ませんし、それらの影響を受けてしまいます。そのために、私たちの信仰生活が疎かになったり、揺らいだり、時には消滅させられたりするのであります。ですから、このような手紙を読んで、自分たちの信仰の拠り所をしっかりと確認すると共に、自分たちの信仰生活を整えることが必要なのであります。

・さて、今日の箇所113節からの冒頭は、「だから」という言葉で始まっています。これは、13節から12節までに述べて来たことを受けていると考えられます。その部分の小見出しは、(3節の終りの言葉をとって、)「生き生きとした希望」となっていますが、その希望の中身というのは、(3節から5節に書かれていますが、)イエス・キリストの復活によって、私たちは新しい命に生まれ変わって、天に蓄えられている財産、すなわち罪からの救いという財産を受けるという希望であります。その救いは、イエス・キリストがもう一度現れて下さる終りの日に完成することが約束されていて、そのような信仰が、試練の中でも神様の力、すなわち聖霊によって守られているので、心から喜んでいる、と言っているのであります。

・そのような、再臨の日における救いの希望を与えられていることを受けて、「だから」と言って、ここからは、その時までの私たちの生き方、生活のあり方について、語り始めるのであります。今日の箇所はその最初の部分でありますが、ここで勧められていることを一言で言えば、説教題にもありますように、「聖なる者となりなさい」ということであります。

・「聖なる者」という言葉は、12節にも出て来ました。そこでは、「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、」と言われていまして、既に聖なる者(清い人)になってしまったかのように受け取れる訳になっていますが、原文では、2節は1節の最後にある「選ばれた人」の説明になっていて、直訳すれば、<選ばれた人というのは、御計画に基づいて、霊の清めの中にある>となります。「聖」とか「清め」というのは、聖人のような人間になるということではなくて、元の意味は「選り分けられる」ということで、キリスト者は、神様によって選らばれた、ということであります。

・しかし、救いにあずかるようにと選び分かたれた者には、それに相応しい生き方・生活の仕方がある筈であります。その生き方についての勧めが、13節以下になるわけであります。ですから、「聖なる者になりなさい」という勧めは、<選び分かたれた者に相応しい生き方をしなさい>、ということであります。今日は、この勧めに耳を傾けたいと思います。

1.心を引き締め、身を慎んで

・そこで、まず初めには、いつでも心を引き締め、身を慎んで、と書かれています。「いつでも心を引き締め」というのは意訳でありまして、口語訳聖書では直訳で「心の腰に帯を締め」と訳されていました。古代の中東では、長い、帯のない、上から下まで継ぎ目のない衣をまとっていましたから、外出するとか労働を始める時には、裾を持ち上げて帯を締めなければならないのであります。つまり、「腰に帯を締める」というのは、活動を始める体勢を整える、ということであります。ここでは単に「腰に帯を締める」のではなくて、「心の腰に帯を締める」と言われています。ここで使われている「心」という語は、考え方とか意向を表す言葉ですから、単に<気持ちを引き締める>というだけではなくて、活動に向けての考え方を整えるということであります。救われた者としての行動の仕方を定めるということであります。

・次に「身を慎んで」と言われていますが、この語は<酔っていない>という言葉です。ですから、酒に酔ったように現実から逃げるのではなくて、困難な現実を直視しながら、救われた者として責任ある行動をとれるようにする、ということであります。

救われるということは、罪が赦されて、罪から解放されるということであります。しかしそれは、何の責任もなくなり、自由で気侭な、夢見心地の生活に入るということではありません。むしろ、目覚めた生活、神様に対して責任ある生き方を始める、ということであります。

・酔わずに現実を見るということは、今の社会の現状を誤魔化さずに見るということでありますから、悲観的な思いに陥りがちであります。しかし、救われた者の見方は違うのであります。最終的には救われることを信じております。新しい命に生かされるという希望を持っています。主イエスが既に来て下さって、悪を滅ぼして下さったという現実を知っています。だから、目の前に見える現実は暗くて、希望が見出せないようであっても、神様が備えて下さっている救いの現実に立って、目覚めた、地に足が付いた行動が出来るのであります。それが、「心を引き締め、身を慎む」という生き方であります。

2.恵みをひたすら待ち望む

・その上で、13節後半で、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい、と勧めています。「イエス・キリストが現れるとき」とは、再臨の時であります。この言葉は7節の後半にも使われていました。そこでは、「イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらす」と書かれていました。この箇所を学んだ時にも申しましたように、称賛と光栄と誉れというものは、何よりも神様とイエス・キリストに帰すべきものであります。しかし、キリストが再臨される時には、賞賛と栄光と誉れは第一に神とキリストに帰せられるのは言うまでもないのですが、同時に、キリスト者もまた、称賛と栄光と誉れの祝福を受けることが約束されているのであります。それらは、私たちの功績によるのではなくて、あくまでも恵みによるのでありますが、救われた者は、それらの祝福をひたすら待ち望むことが許されているのであります。

・なぜ、そのように言えるのでしょうか。ここで「イエス・キリストが現れるとき」というのは、再臨の時ではありますが、闇雲(やみくも)に再臨の時が来るのではなくて、実は、イエス・キリストは既に現れたのであります。2000年前のクリスマスに、既に来て下さったのであります。そして、十字架と復活の救いの御業を成して下さったのであります。ですから、私たちは、再臨の時を、確かな希望を持って待ち望むことが出来るのであります。

・「ひたすら待ち望む」と言われていますが、この「ひたすら」という語は、普通「完全に」と訳される言葉であります。つまり、直訳すれば、<完全に期待せよ>ということであります。なぜ「完全に」かと言うと、既にイエス・キリストが来て下さって、救いの御業を成しておられるので、再臨の日に完成することは確実なのであります。だから、完全に期待して、裏切られることはないのであります。それだからこそ、目の前の現実がどれほど困難で、行き詰っているように見えたとしても、それは本当の現実(神様の現実)ではないのであります。

・ここで、再臨の時を待つ心得について、パウロが語っていることを見てみましょう。テサロニケの信徒への手紙一54節以下(p378)を御覧ください。

  しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。(5411

  ここでパウロも、「身を慎んでいましょう」ということを重ねて語っています。救われた者は、酒に酔った者のようにではなく、目覚めて生きるのであります。それは決して緊張づくめの堅苦しい生き方ではありません。主が必ず救いに入れて下さることを待ち望む平安な生き方であります。

3.欲望に引きずられることなく
 ・ペトロの手紙に戻って、14節の勧めに進みましょう。

 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、と勧められています。

・「無知であったころ」というのは、子供のように何も知らなかった、という意味ではなくて、神様について無知であった、神様が備えて下さった救いについて無知であった、という意味であります。私たちは色々なことを知っているつもりでいます。どんなことが起こっても、自分なりに判断できると思っています。キリストのこと、十字架と復活のことだって知っているつもりであります。しかし、そこで示されている神様の御心を、自分の生き方の中に反映していなければ、無知であるのと同じであります。神様の御心を反映しない無知な生活というのは、「欲望に引きずられる」生活になってしまいます。結局は自分の願望のまま、自分を喜ばすだけの生活になってしまうのであります。私たちは欲望なんかに引きずられることなく、十分に理性的で、欲望を抑えた生き方をしているつもりであります。しかし、生活の中心に神様の御心を置いていないと、いつの間にか自分のことだけしか考えない生き方になってしまうのであります。

・そのような生き方ではなく、「従順な子」となるように勧めています。「従順な子」というのは、ただ親や先輩の言うことに従順な人ということではなくて、神が備えて下さった救いの道筋に従って生きるということであります。キリストが生活の中心におられる生き方であります。そのような神が備えて下さった救いの道に従って生きるならば、もはや、欲望に引きずられるということがありません。それは、欲望を殺して我慢する生活ではありません。キリストによって満たされることによって、身勝手な欲望に引きずられない生き方が出来るのであります。

4.聖なる者となれ

・次の15節では、14節で述べられていたような、欲望に引きずられない、キリストによって満たされた生活をする者のことを、「聖なる者」と言っております。

・「聖なる者」とは、<聖人のような、道徳的に清らかな者>という意味ではありません。「聖」とは、先ほども少し触れましたように、<区別する><選び分かたれる>という意味であります。神のものとして、他から区別された者ということであります。区別されると言っても、仙人のように世捨て人になるということではありません。この世にありながら、キリストの救いを知らない人とは区別されるような生き方をするということであります。

・キリスト者が、他の人の生活と区別されるところと言えば、第一に、日曜日の過ごし方が違うということであります。礼拝のために教会に行くということが、一番はっきりした違いであります。それは、ただ教会に行くということではなくて、そこで神様の前にひれ伏し、神様の御言葉を聴き、それに従うということであります。それは、決して、日曜日だけのことに留まらなくなる筈であります。

・生活のすべての面で聖なる者になりなさい、と勧めております。「生活のすべての面」というのは、日曜日だけではない、ということであります。教会生活だけではない、ということであります。職場の生活であっても、学校生活であっても、家庭生活であっても、生活のあらゆる面で、他の人とは区別された生き方をする者になる、ということであります。どこが違うかと言えば、生活のあらゆる場面で、自分の欲望に引きずられないで、生活の中心に神様の御心がある、キリストが居られる、キリストの救いがある、ということであります。

・それは、具体的には、教会だけでなく職場や家庭でも、聖書を開いたり、祈ったりするということになるのかもしれません。そのようなクリスチャンもおられます。しかし、物理的に年がら年中聖書を読んだり祈ったりしているのが、聖なる者の生活ということではありません。全ての生活が、キリスト中心に整えられているかどうか、ということが大切であります。具体的には、職業を選ぶとか、結婚するとか、住まいを定めるとかいう人生の節目に、人間の都合や好みで決めるか、神の御心に従うか、ということであります。そこで大きく、日々の生活が、聖なる生活かそうでないかが大きく分かれて来るのであります。

15節の前半を見ますと、召し出してくださった聖なる方に倣って、とあります。「召し出してくださった聖なる方」とは、神様であり、主なるキリストであります。そんなお方に倣うことなんか出来ない、と思ってしまいます。「倣って」という語は、「…のように」とか「…に従って」という言葉であります。神様やキリストと同じになれるわけがありません。キリストが完全であられるように、完全になれ、ということではありません。キリストの姿勢に倣うということであります。キリストは御自分を捧げることにおいて、「聖なる者」となられました。私たちも、キリストが御自分を捨てられた姿勢を模範として「聖なる者」となることが出来るのであります。自分を捨てるとは、無欲になるとか、自分の利益を考えないとかいう前に、神様に自分を委ねるということであります。神様を信じなさいということであります。それなら、私たちも出来るのではないでしょうか。

結.「わたしは聖なる者だから」

・最後に16節で、「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです、と言われています。この引用は、先ほど朗読しましたレビ記19章や、11章に書かれている言葉であります。これも、先ほどの15節と同様に、非常に高いハードル(目標)が示されているように思えます。

しかし、先ほどレビ記19章の18節までしか読みませんでしたが、その後をずっと読んで行くと、色々な掟を述べられた後で、19章の終りに至って、「わたしは、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である」と言われているのであります。レビ記11章の場合も同様であります。つまり、私が聖なる者であって、私があなたがたをエジプトの国から導き出す、ということが大前提になっているのであります。この神様の絶対の御意志のもとで、「聖なる者」すなわち、他の民とは区別された民になれ、とおっしゃっているのであります。イスラエルの民を他と区別なさるのは、主なる神様ご自身であります。

エジプトから救うということは、私たちに当てはめて言えば、<十字架によって罪から救われる>、ということに他なりません。それは神様が、その御意志によってなさることであります。だから、「あなたがたは聖なる者になれ」、「聖なる者として区別された者になれる」と言われているのであります。私たちが自分の力で聖なる者になれと言われているのではありません。神様がキリストによって既に聖なる道を示して下さったのであります。神様が私たちを、選び分かって下さったのであります。私たちはただ、この招きの言葉に従って行くだけであります。

・「わたしは聖なる者だからである」――この言葉が鳴り響いています。私たちはこの言葉に聴き従って行くことが、「聖なる者」となるための、唯一で確実な道なのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・聖なる父なる神様!

・私たちに「聖なる者となれ」と仰せになり、キリストをお遣わしになって、私たちが「聖なる者」となる道を開いて下さったことを感謝いたします。

どうか、私たちの生活の只中にもキリストをお遣わし下さって、他の人たちとは区別された生き方が出来るようにして下さい。

どうか、終りの時まで、身を慎んでキリストを待ち続けることが出来る者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨         2008年12月28日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 1:13-16
 説教題:「
聖なる者」                  説教リストに戻る