[子供のための小説教]

序.大人と一緒の礼拝

・今日は、大人の人と一緒にクリスマスの礼拝をしています。どうして今日は大人の人と一緒に礼拝するのでしょうか。――本当はいつでも(毎週)大人と一緒に礼拝が出来ればよいのです。でも、大人向きの難しい言葉を使ったお話しでは子供の皆さんには、分からないだろうし、子供向きの優しい話では、大人の人は物足りないと思うかもしれませんね。だから、いつも一緒に、同じお話を聞くということは難しいですね。けれども、礼拝でお話することは、大人の礼拝でも子供の礼拝でも、聖書のお話です。そして、イエス様がどんなお方で、私たちのためにどんなことをして下さったか、ということです。ですから、お話しの仕方や、言葉使いは違っても、同じイエス様のお話を聞くのです。

・今日はクリスマスの礼拝ということで、イエス様のお誕生のことを聞いて、神様を礼拝する日です。イエス様がお生まれになったことをお祝いするのは大人だけではないし、クリスマスというのは、子供だけが楽しむ日でもありません。大人も子供も一緒に、イエス様がお生まれになったことを喜んで、一緒にお祝いが出来ます。だから今日は一緒に礼拝しています。

・では、なぜ、イエス様がお生まれになったことが、子供だけでなくて、大人にとってもうれしいことなのでしょうか。どうして、クリスマスには大人も子供も、それに日本だけでなく世界中の人がお祝いするのでしょうか。今日はそのことを、先ほど読んだ聖書の箇所から聴きたいと思います。

 
1.神さまのお力によって

・ところで、皆さんにはそれぞれお名前があります。○○君、○○さん、というように名前があります。皆さんの名前は誰がつけたか聞いたことがありますか。お父さんとお母さんが相談して決めたという人があるかもしれません。おじいさんかおばあさんに決めてもらった人がいるかもしれません。名前をつけた方は、どんなことを考えてつけられたのでしょうか。強くて元気そうな名前がいいと考えたかもしれませんし、可愛い名前がよいとか、呼びやすい名前が良いと考えられたかもしれません。皆さんそれぞれ、良い名前をもらっていますね。

・では、イエス様のお名前は、誰がどのようにしてつけたのでしょうか。私たちは23日にページェントをしますが、その中で、天使ガブリエルがマリアさんのところに現れて、男の子が生まれることを知らせた場面があります。マリアさんはヨセフさんと結婚の約束をしていましたが、まだ結婚していないのに、赤ちゃんが生まれるというので、びっくりしましたが、天使は生まれてくる子に「イエスと名づけなさい」と言いました。そして、「神さまには何でもできないことはありません」と言いました。

先ほど読んだ聖書の箇所には、ヨハネさんに天使が現れたときのことが書いてありました。その時はもう、マリアさんのお腹の中に赤ちゃんが出来て、お腹が大きくなって来ました。婚約していたヨハネさんは、困ったことになったと思いました。天使ガブリエルからマリアさんに知らせがあったことを、マリアさんから聞いていなかったのでしょう。ヨセフさんは、マリアさんには他に好きな人がいるなら、結婚するのを諦めなければならない、と考えました。そんなヨセフが眠っていたとき、夢の中に天使が現れて、こう言いました。「ヨセフよ、マリアさんをお嫁さんとして迎えなさい。マリアさんのお腹にいる赤ちゃんは、聖霊によって与えられたのです。」――聖霊によって与えられるというのは、誰か他の男の人の子どもとして生まれるのではなくて、神さまのお力によって与えられたということです。

2.イエスと名づけなさい

天使はさらに続けて、「その子の名前をイエスと名づけなさい」と言いました。マリアさんに言ったのと同じ名前です。これは神さまがつけられたお名前です。では、なぜその子に「イエス」という名前をつけるのが良いのでしょうか。天使はそのことも教えてくれました。「その子は人々を救う人になるからです」と言いました。「イエス」という名前には、「主は救いである」という意味があるのです。

・人々を救うとはどういうことでしょうか。人々は神さまのことを忘れて、自分勝手なことばかりしてしまいます。そして放っておくと、どんどん神さまから遠いところへ行ってしまいます。私たちもそうです。そんな私たちを神さまのところに帰るようにしてくださることが「救う」ということです。イエス様は私たちを神さまのところに帰れるようにして下さるお方として、お生まれになったので、「イエス」というお名前なのです。

3.インマヌエルと呼ばれる

・今日の聖書の箇所には、もう一つ大切なことが書かれています。それは、旧約聖書の中で預言者のイザヤという人が言っていたことです。それは23節に書いてありますが、イザヤさんは、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と言っておりました。インマヌエルという言葉には、「神さまは私たちと一緒にいてくださる」という意味があるのです。イエス様がお生まれになることで、「神さまは私たちと一緒にいてくださる(インマヌエル)」ということが実現した、というのです。

・これはどういうことでしょうか。イエス様はヨセフとマリアの子供としてお生まれになるのですが、本当は神さまの独り子でいらっしゃいます。その神さまの子が人間の子供として生まれて下さるのですから、「神さまが私たち人間と一緒にいてくださる」ということになります。

・それだけではありません。イエス様はただ人間として一緒にいて下さっただけでなくて、病気を治したり、困った人を助けたりされましたし、最後には、神さまから離れてしまっている私たちに代わって、十字架にお架かりになって、神さまに「御免なさい」をして下さったのです。それで、私たちは神さまのところに帰ることが出来るようになったのです。それが、さっき言った、<私たちを救って下さる>、ということです。こうして、私たちは神さまと一緒におれるようになったのです。だから、イエス様はインマヌエル(神さまが私たちと一緒におられる)ということを実現して下さったお方なのです。

・クリスマスはそのようなイエス様を、神さまからのプレゼントとして与えられたことを喜ぶ日ですから、大人も子供も心から喜んでお祝いすることが出来るのです。
・お祈りしましょう。

祈  り

天の父なる神様!あなたのことを忘れて勝手なことをしてしまう私たちのために、イエス様を送ってくださって、私たちを神さまのもとに引き寄せてくださいましたことを感謝いたします。

どうか、クリスマスに神さまがしてくださった恵みのことを、これからも忘れずに、日曜学校へ来て、いつも神さまから離れることがないようにしてください。

・今日、一緒に礼拝出来なかったお友だちも、神さまから離れないように、イエス様が一緒にいてあげてください。
・イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

[大人のための説教]

序.ヨセフの苦悩を通して

・先ほどは子供たちと一緒に、イエス様のお名前の持つ意味を通して、「神さまが私たちと共におられる」ということが、主イエスのお誕生によって実現したという、クリスマスの恵みについて聴きました。

しかし、この恵みの出来事も、最初ヨセフにとっては、苦悩に満ちた事柄であり、受入れ難い出来事でありました。そのヨセフも結局は、天使の言葉を受け入れ、マリアを迎え入れることが出来るのであります。

クリスマスの出来事は、ヨセフならずとも、簡単には受け入れ難い事柄であります。ヨセフに何が起こったのか。そして、神様は私たちにどう関わって下さるのか。――そのことを天使の言葉を通して、もう少し深く聴いてみたいと思います。

マリアとヨセフは既に婚約をしていました。ユダヤの社会では、婚約というのは、肉体的な関係はまだ持ってはいませんが、法的にはほとんど夫婦になったのと同じことでありました。従って、婚約中に他の男と関係を結ぶということは、姦淫の罪を犯すことになって、掟によれば、石で打ち殺されなければならないと定められていました(申命記222324)。

ところが、先ほど子供の説教でも見たように、結婚する前にマリアが身ごもっていることがヨセフにも分かったのであります。しかし、それが聖霊による受胎だということは、ヨセフには伝えられていなかったようであります。だから、ヨセフは深く傷つき、苦悩が始まりました。夫ヨセフは正しい人であった、と書かれています。それは、神様の掟を重んずる人であったということであります。掟に忠実であろうとすれば、マリアの姦淫の罪を告発しなければならないということになります。その結果は、マリアは確実に死刑の処せられることになります。けれども、ヨセフはマリアを深く愛し、信じていたのだと思います。しかし、身ごもったという事実は打ち消すことが出来ません。でも、何とかマリアを助けたいと思いました。そこでヨセフが採ろうとした道は、19節にありますように、マリアのことが表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した、ということでありました。「表ざたにするのを望まず」というのは、立派な人だと思われていた自分に傷がつくことを避けようとしたという意味ではなくて、むしろ反対です。ここで婚約を破棄するということは、自分の子供を宿らせておいて、責任を持たない好い加減な男ということになります。そのような不名誉を受けても、マリアが身ごもったことを公に告発せずに、婚約を解消するならば、マリアの命は失われないで済むのであります。しかし、愛するマリアとは一緒になることが出来ません。でもそれが、マリアのために出来る最善の方法だと考えて決心するのであります。手続き的には、二人の証人の前でマリアに離縁状を渡す、ということになります。辛いことではありますが、これがマリアを救う方法だと考えたのであります。もう一つの道があります。それは、マリアが誰の子を宿しているのかが分からないまま、マリアと正式に結婚するという道です。しかし、真実を覆い隠したまま、マリアと他人の子と一緒に結婚生活を続けることは、ヨセフにとっては耐えられないことであったと思われます。ですから、ヨセフは人間として出来るギリギリの決心をしたのであります。

1. 聖霊によって

ところが、このような決心をしていたヨセフのところに、主の天使が夢に現れて、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と告げたのであります。人間として悩み抜いた挙句、苦渋の決断をしたヨセフに対して、上からの(神様からの)アプローチがあったのであります。

「恐れず」という言葉から始まっています。マリアに対する受胎告知の時も、「恐れることはない」という言葉から始まりました。神様のなさることは、いつも驚きであり、恐れを覚えさせます。未婚のマリアが身ごもったということは、当のマリアにとっても、恐れざるを得ないことでありましたが、ヨセフにとっては、ある意味ではマリア以上に悩ましい、恐ろしい出来事でありました。あってほしくない出来事でありました。

しかし、天使は「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と命じるのであります。ヨセフの恐れを、自分自身では取り除くことが出来ません。ヨセフがしたギリギリの決心も、恐れを和らげることは出来ませんでした。神様がなさったことは、それを受け入れるしか、恐れから逃れる道はありません。天使は続けて「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と説明します。「聖霊によって」とは、<神の力によって>ということであります。マリアが身ごもったことには、他の人間の関与はなく、神様がなさったことだ、ということであります。ヨセフは今、神様がなさった出来事に直面させられているのであります。神様と向き合わされているのであります。

でも、そのように説明されても、理性で納得が出来るような事柄ではありません。こう言われても、マリアを疑うことも出来ました。あるいはヨセフが決心したように、マリアと離縁することも出来ました。しかし、ヨセフはそうしませんでした。24節にあるように、ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れたのであります。――これは、当たり前のことではありません。奇跡と言っても良いようなことであります。ヨセフにも聖霊が働いたとしか言いようのないことが起こったのであります。ヨハネのマリアに対する愛が、マリアを受け入れさせたのではありません。天使の言葉を信じて、その命令に従ったから、マリアを受け入れることができ、マリアに対する愛も深められたのであります。

神の子が人の体内に宿るというようなことは、唯一無二の出来事ではありますが、私たちの身の回りに起こる様々な出来事であっても、神様がなさることは、いつも私たちを驚かせたり、恐れさせたり、時には、なぜこんな目に遭わねばならないのだろう、と思うようなこともあります。しかし、ヨセフがこの出来事によって、神様と向き合うことが出来たように、神様がなさることによって、私たちは神様と向き合う恵みを与えられるのであります。うれしいことはうれしいことなりに、辛いことは辛いことなりに、そのことを通して神様と向き合うことによって、神様の御言葉の前に立たされ、神様の御心を受け入れることへと導かれるのであります。そこには聖霊が働いて下さるのであります。

2. イエス――主は救い

ところで、天使はもう一つのことを命じました。こう言いました。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。「こどもの説教」でも申しましたように、「イエス」という名前には「主は救いである」という意味があります。その名の通り、イエス様は御自分の民、即ちイエス様を信じる者たちを罪から救うために、この世に誕生されたのであります。罪とは、神様から離れていることであります。神様を忘れて勝手に生きていることであります。神様なんか必要ない。せいぜい困った時だけ神様に手を合わせるけれども、本気で神様に委ねようとしない。神様と私たちの間には、大きな隔たりが出来てしまっています。それが罪であります。そんな私たちを救うために、神様は御自分の独り子を送り込んで、神様の方から私たちの方に近づいて下さったのであります。救いとは、神様が天から救いの綱のようなものを降ろして、私たちを引き上げて下さることではなくて、神様が私たちのところまで降って来て下さることなのであります。

ここでもう一度、ヨセフのことを考えてみましょう。イエス様は聖霊によってマリアの胎に身ごもられました。ヨセフを抜きにして、この世に生を受けられたのであります。しかし、ヨセフはそのイエス様の父親としての大事な働きをさせられるのであります。マタイ福音書は、この後、幼子イエスの命を狙うヘロデ王から逃れるために、エジプトへ避難したことを述べております。ヨセフは自分の生活を棄てて、幼子イエスを守るのであります。こうしてヨセフは、神様の救いの御業の一端を担うことになるのであります。人間は自分たちを救うことは出来ません。救いは神様から来ます。しかし、人間も神様の救いの御業に参与することが許されるのであります。私たちもまた、それぞれの仕方で、このヨセフのような役割を担うことを求めておられるのではないでしょうか。


3. 神は我々と共に

さて、マタイによる福音書の著者は、天使の言葉を預言者イザヤが言ったことと結びつけて、イエスと名付けられた子を「インマヌエル」すなわち、「神は我々と共におられる」と呼ばれるのが相応しいお方であると説明しております。神様は、独り子を一人の処女に身ごもらせることによって、罪深い人間と共にいて下さるのであります。マリアは天使ガブリエルから、「主があなたと共におられる」という言葉を与えられました。それは、ただ主が守って下さるというような意味ではなくて、正真正銘、主がマリアの胎の中にいると言う形で、共にいて下さったのであります。

それと同様に、ヨセフも主イエスの父親になるという形で、神が共におられるということを、身近に体験させられました。それは、自分の種から出たのではない子の親にさせられるという、考えようによっては耐えられないような体験でありますが、そのことを通して、人間の業を超えた神の御業を信じる者とされたのであります。

ヨセフはマリアと共に、神が共にいて下さることを信じることが出来た第一号の人間であるということが出来ます。どうしてヨセフがマリアを妻として迎え入れることが出来、イエス様の父親として、神様が共にいて下さることを信じるに至ることが出来たのかと言えば、天使が神様の御心を伝えたこと、そしてマリアが聖霊によって身ごもったのと同じように、ヨセフにも聖霊の働きがあって、全てを神の御業であると信じることが出来たからであります。

「神は我々と共におられる」ということは、必ずしも、私たちの人生が、この世的に幸せ一杯になるということではありませんし、何の疑問も何の苦悩もない状態にあるということではありません。ヨセフがそうであったように、人間の思いを超えたことが起こり、ある意味で恥を負わなければならないようなことであるかもしれません。私たちが自分を主張し、自分の誉れを求めるならば、神様を信じられなくなって、神様と距離を置いてしまい、神様に対して罪を犯してしまうようなことであるかもしれません。しかし、神様は人間の思いをはるかに越えて、聖霊の働きによって、私たちを天の御業へと引き込んで下さるのであります。否、むしろ神様が地上に御子を送って下さったように、神様の方から私たちの所に近づいて下さって、私たちと共にいて下さるのであります。私たちが神様を自分たちの方に引き寄せることは出来ません。私たちが努力して、御心に適う行いをして、神様を引き寄せるのではありません。神様が主イエス・キリストを遣わして、人間の追うべき恥を身に負って下さったことによって、私たちが神様に近づくことの出来る者とされたのであります。「神が我々と共におられる」ということは、まさに、聖霊の働きであります。

マタイによる福音書は、最後の2820節において、十字架と復活の御業を終えた主イエスが、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたことを伝えています。

このクリスマスにおいても、このようにして御言葉を下さることによって、まさに「神が我々と共におられる」ということが、聖霊において実現しているのであります。

今日は、この後、遠藤真理子さんの洗礼式が行われます。このことは「神が我々と共におられる」と言うことの、目に見えるしるしであります。彼女がここに至ることが出来たのも、彼女が精進努力した結果ではありませんし、周りの人がよいアドバイスや支えをしたからでもありません。神様が彼女と共にあり、この教会と共にいて下さったからであります。この恵みを感謝するとともに、「神が我々と共におられる」ということを、私たち一人一人が、それぞれの実生活の中で、また礼拝生活の中で、信じ、受け入れる者とされたいと思います。

祈りましょう。

祈 り

救い主イエス・キリストの父なる神様!

計り知ることの出来ないあなたの恵みによって、今年のクリスマスの礼拝に連なることが許され、御子イエス・キリストによって、あなたが私たちと共にいて下さることを覚えることができまして、感謝いたします。

私たちは、あなたが共にいて下さる恵みを忘れて、身勝手な思いと歩みをしがちな者でございますが、これから始まる新しい一年、どうか、聖霊の導きによって、あなたの御許に引き留めていて下さいますように。そしてどうか、ヨセフと同様に、あなたにお仕えする相応しい場をお与え下さい。
今日、共にクリスマスの恵みに与ることが出来なかった方々にも、同じ恵みが与えられますように。

主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。

米子伝道所クリスマス礼拝説教<全原稿>   2008年12月21日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書1:18−25
 説教題:「神は我々と共に」
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