アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。                      (マタイによる福音書1:1)

 新約聖書の冒頭になぜキリストの系図が掲げられているのか。ユダヤ人は系図を大切にしていたので、これからキリストのことを証ししようとする時に、そのお方のルーツを明らかにしておく必要があると考えたのかもしれない。しかし、系図の中身を見ると、それだけが理由ではなさそうだ。
 まず、この系図は三期に分けられていて、アブラハムとダビデがその区切りのキーパーソンになっている。アブラハムは神の選びを受け、ユダヤ人の父祖とされただけでなく、「諸国民の父とする」「王となる者たちがあなたから出る」(創世記176)と約束された人物であり、ダビデは「あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続く」(サムエル下716)と言われた王である。アブラハム以来、二千年のイスラエルの歴史の中には様々な困難や国家存亡の危機があったが、神はこれらの約束(契約)を忘れることなく、御子イエス・キリストにおいて成就されたということを、この系図で示そうとしている。
 一方、この系図の中には、マリアのほかに四人の女性の名が挙がっている。タマル(3)は夫の死後、夫の父の前で娼婦を演じて子を宿らせた女、ラハブ(5)は遊女、ルツ(5)は異邦のモアブ人、ウリアの妻(6)はダビデ王に見初められて、姦淫の罪を犯した女である。こうした問題の女性を明記することによって、神は恥ずべき人間の罪の歴史を通してもなお、真実を貫いて、約束を実現なさったことを語ろうとしている。
 神の救いの約束の歴史は教会に引き継がれ、新しい系図が作られていく。
私たちは相変わらず罪を犯し続けており、その系図は汚点だらけであるかもしれない。だが、私たちは、イエス・キリストを信じることによって、罪赦され、主イエスを長兄とする神の子として、神の家族に加えられ、新しい救いの系図に私たちの名を加えて下さるとの約束を与えられている。待降節は、キリストから始まる神の家族の系図が完成する再臨の日を待っていることを覚える季節でもある

 米子伝道所主日礼拝説教<要旨>       2008年12月14日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書1:1−17
 説教題:「待降の民」
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