序.キリストの系図から聴き取ること

・来週のクリスマス礼拝では、マタイによる福音書118節以下の、小見出しで「イエス・キリストの誕生」とあるところから、クリスマスのメッセージを、日曜学校の子供たちと一緒に聴きたいと思っています。今日は、それに先立って、マタイによる福音書の冒頭にあるイエス・キリストの系図によって、クリスマスを迎える備えをしたいと思います。

・新約聖書を開くと、いきなりカタカナの名前ばかりの系図が出て来るので、はじめて聖書を開く人は戸惑うのですが、マタイによる福音書を書いた人は、イエス様の誕生のことを書く前に、系図を掲げるのが良いと考えたようです。また、昔、聖書の編集をした人も、系図が最初にあるマタイによる福音書を最初に持って来たのも、新約聖書のはじめに、キリストの系図があるのが相応しいと考えたからではないでしょうか。

・では、なぜ新約聖書のはじめに、キリストの系図があるのが良いのでしょうか。新約聖書は全体が、イエス・キリストのことを書いた書物です。これからイエス様のことを書き連ねようとする時に、その人のルーツを明らかにしておくことは、必要かもしれません。特にユダヤ人は自分の系図というものを大事にしました。ユダヤ人は自分たちが神から選ばれた特別な民であると考えていましたから、正真正銘のユダヤ人であることが証明され、どの部族に自分のルーツがあるのかを知ることは、とても大事なことだったのであります。そういうユダヤ人の関心から、まず系図を掲げたということが考えられます。しかし、この系図を見ると、アブラハムだとか、ダビデだとか、立派な方も出て来るのですが、後で詳しく見ますが、問題の人物もあちこちにあって、必ずしもユダヤ人として誇れるような系図ではないのです。それに、歴史的な事実と食い違っているところもあって正確ではないのです。

・ではなぜ、そのような系図をわざわざ掲げたのか。――それは、イエス・キリストが、ユダヤ人の歴史の中で、長く待ち続けてきた救い主としてお生まれになったからであります。1節を見ていただくと、アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図という表題がついていて、最後の17節を見ていただくと、こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である、とありまして、系図の中でアブラハムとダビデがキーパーソンになっているのであります。この人たちはどういう人かと言うと、神様から約束をいただいた人たち、神様と契約を結んだ人たちであります。つまり、その人たちに神様が約束された契約が、イエス・キリストにおいて実現した(完成した)、ということを、この系図は示そうとしているのであります。約束(契約)と言えば、「旧約聖書」「新約聖書」の「約」というのは、「契約」のことであります。旧約聖書はイエス・キリストに至るまでの神さまの約束(契約)とその約束を待ち望むユダヤ人たちの歩みを記したものであります。その歴史の中には神様の御心を傷めるような出来事が沢山ありました。そうした中で、神様は約束(契約)を守り通して、遂に約束の救い主であり王である方を、お遣わし下さったのであります。そう考えると、ここに掲げられているキリストの系図というのは、良いことも悪いことも含めて、旧約聖書が語っていることの要約ないし縮図である、ということが出来るのであります。ですから、ここから新約聖書をはじめようとする時に、旧約聖書の要約(縮図)としてのキリストの系図を掲げることが相応しいのであります。この系図は先ほども言いましたように、史実的には必ずしも正確なものではありませんが、キリストを旧約の預言の成就であると捉える信仰の告白であると言えるのであります。

・今日は、このキリストの系図を通して、四千年前に与えられた神様の約束と、それを守り通された神様の真実に触れるとともに、神様が今も変わらない真実をもって、私たちにも新しい約束をして下さっていることを聴き取りたいと思うのであります。

1.アブラハムの子、ダビデの子

・まず、アブラハムでありますが、1節では、「アブラハムの子ダビデの子」とありまして、ここで「子」というのは「子孫」という意味ですが、この訳では<アブラハムの子孫であるダビデの子孫>とダビデにかかっているように読めるのですが、原文は、<アブラハムの子孫であり、ダビデの子孫であるイエス>とも読めるのでありまして、大きな違いではありませんが、イエス様がダビデの子孫であるだけでなく、アブラハムの子孫でもあるということを、忘れないことが大切であります。

・というのは、創世記12章にアブラハムの召命の記事がありますが、そこで神様はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と言われ、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記122,3節)と言われていて、それらの祝福は、アブラハムの子孫にイエス・キリストが誕生されることによって、完成するのであります。また、先ほど朗読していただいた創世記17章のアブラハムの契約の記事では、「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう」と言われていて、ここでも、ユダヤだけでなく、諸国民の父になることと、子孫から王が輩出することが約束されているのですが、それらはやはり、真の王であるイエス・キリストによって完成するのであります。このように、アブラハムによって始まった祝福と救いの歴史が、イエス・キリストによって完成するのであります。

次にダビデでありますが、ダビデはアブラハムから約千年あと、イエス様の誕生の約千年前のユダヤの王でありますが、サムエル記7章で、このダビデに対する約束が、ナタンという預言者によって語られています。「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」(サムエル下716)、と言っております。

しかし、間もなく、国は二つに分裂し、やがて北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国はバビロンによって倒されて捕囚となるのであります。神様の約束は果たされないかに見えたのでありますが、50年後には故国に帰ることが出来ます。その後もユダヤは絶えず外国の脅威に悩まされ続け、イエス様の時代もローマの支配下にあったのでありますが、主イエスが真の王として到来されたことによって、神様の約束は実現することになるのであります。

・このように、ユダヤ人の父祖と言われるアブラハムに約束されたこと、そして理想の王とされたダビデに約束されたことが、イエス・キリストによって成就したということが、この系図によって表されていることなのであります。

・ところで、私たちはイエス様が聖霊によってマリアに宿ったということを知っております。それならば、父ヨセフとイエス様の間には血のつながりはないわけであります。それなのに、この系図では、イエス様をヨセフの子としていて、イエス様はアブラハムの子であり、ダビデの子とされているのであります。――これはどういうことかと言うと、一つには、ヨセフとマリアは既に婚約をしていて、当時のユダヤでは、婚約は法的には結婚と同じであるとされていたということから説明できます。しかしそのことよりも大切なのは、血のつながりがどうかということよりも、信仰的に見て、アブラハムとダビデに対してなされた神様の約束が、イエス・キリストにおいて実現した、という事柄であります。

2.十四代×三期――約束実現への歴史

・次に、この系図が、17節に書かれているように、十四代ずつ三期に区分されていることについて見て行きます。第一期は、アブラハムからダビデまでの十四代で、アブラハムが神様に選ばれて、約束を与えられてから、ヤコブの時代にエジプトに移住し、やがてそこで奴隷とされ、出エジプトの荒れ野の旅があって、カナンの地に定着して、そこで王国を建設するまでの期間であります。奴隷や荒れ野の旅という苦難を経験しなければなりませんでしたけれども、神様の約束どおりイスラエル民族が発展していく段階であります。第二期は、ダビデからバビロン捕囚までの十四代で、王国が分裂し、北王国、南王国とも大国の脅威に悩まされながら、遂に滅ぼされて、捕囚の憂き身を経験する時期であります。この間、南王国では神様の約束どおりダビデ王家が続くのですが、列王記や歴代誌の記述と比較すると、三代の王様が抜けているのであります。無理やり十四代に合わせた形跡があります。第三期は、バビロンに移されてからキリストまでで、引き続き大国の支配を受けながらも、律法に従って宗教国家の回復を図った時期で、神殿の再建も行なわれました。そして遂に、イエス・キリストを迎えるのであります。しかし、よく見るとここには十三代しか書かれていません。――このように見て来ると、この系図は少し強引に十四代の三期にまとめようとした形跡があって、史実とは必ずしも一致していないのでありますが、なぜ十四代に拘ったかというと、完全数とされていた七の二倍で、神様のなさることは完全だ、ということを表そうとしたと考えられるのであります。つまり、マタイが言いたいのは、二千年の歴史の中には様々な困難なことがあり、国家存亡の危機をも経験したけれども、神様はアブラハムやダビデに約束されたことを忘れることなく、御子イエス・キリストにおいて成就して下さったということであります。

3.罪の系図

・この系図で見落としてはならないもう一つの特徴は、五人の女性の名前が含まれていることであります。イスラエルの系図には女性の名は出ないのが普通であります。しかも、イスラエルの歴史の中で好まれた女性ではなくて、マリアを除けば、少々問題がある女性ばかりであります。最初は3節に出て来るタマルであります。ユダはタマルによってベレツとゼラを、とありますが、タマルは自分の夫が死んだ後、夫の父であるユダの前で娼婦の格好をして子供を宿らせた女性であります(創世記3812以下)。次に5節に出て来るラハブは、エリコの町でイスラエルの斥候をかくまったことがヨシュア記に書かれていますが、遊女でありました(ヨシュア2章)。同じく5節のルツは、夫を失った後、姑に仕えた美しい物語がルツ記に記されていますが、異邦のモアブ人でした(ルツ記)。そして、6節後半に出て来るウリヤの妻とは、バト・シェバという名で、夫ウリアが戦争のために出かけている間に、ダビデ王に見初められて、姦淫の罪を犯してしまった女であります(サムエル下111以下)。そこにはダビデ王がウリアを最も危険な戦場に送るという重大な罪が絡んでいます。――このように、四人の女性はいずれも、系図に載っている子供が生まれるについて、罪が絡まっているし、異邦人の女性も含まれるのであります。普通なら家系を誇るためには削ってしまいたいような名前を、この系図では敢えて含めてあるのです。つまり、イエス様を美化しようとして、この系図を書いているのではなくて、恥ずべき人間の罪の歴史を通してもなお、神様は真実を貫かれて、約束を実現された、ということを示そうとしているのであります。そして、イエス・キリストは、罪に汚れた系図の最後のお方としてお生まれになり、その御生涯を通じて、人間の罪の問題の解決のために救いの御業をなされて、神様の約束を完成されたのであります。

結.新しい救いの系図

・さて、キリストの系図の背後にある神様の救いの約束の歴史は、キリスト以後は、教会に引き継がれているのであります。キリストに至る救いの歴史は、ユダヤ人を中心に、異邦人をも巻き込んで、また多くの人間の過ちや罪を含んだ歴史であり、キリストの系図にもそれが表れていましたが、それは、イエス・キリストの救いへと集中していく歴史であり系図でありました。

・それに対して、キリスト以後の教会の歴史は、異邦人も含めて、罪の赦しの福音が地の果てまで広がって行くことになりました。しかし、人間は相変わらず罪を犯し続けております。福音に捕らえられた私たちも、罪から完全に縁のないところにいるわけではなくて、私たちの日常生活は、神様の御心に反する罪で汚れています。私たちの系図を書くとすれば、キリストの系図以上に、汚点だらけであるかもしれません。

・けれども神様は、罪にまみれたユダヤの歴史の中を通して、真実を貫いて下さり、救いの約束を実現して下さったのであります。系図の最後で、イエス・キリストによって、人間の罪の問題を解決して下さったのであります。この神様は、その限りない真実と愛をもって、なお私たちにも関わっていて下さるのであります。そして、イエス・キリストを通して新しい約束を与えて下さいました。それは、主イエスを信じることによって、罪が赦され、主イエスを長兄とする神の子として神の家族に加えられて、新しい救いの系図に私たちの名を加えて下さる、という約束であります。

・クリスマスを待つ待降節は、再臨のキリストを待つことを覚える季節でもあります。それは、キリストから始まる神の家族の系図が完成する日を待ちわびる私たちであることを、忘れないようにするための季節であります。神様は今日もこうして、私たちを終りの日のために備えさせて下さっているのであります。
・祈りましょう。

祈  り

・イスラエルの歴史を導き、教会の歴史を今も導いておられる主イエス・キリストの父なる神様!御名を賛美いたします。

・今日も、私たちを待降節の群れに加えて下さり、救いの系図に加えようとしていて下さいますことを覚えて、感謝いたします。

私たちは、汚点だらけの者であり、救いの系図に相応しくない者でありますが、どうか、イエス・キリストのゆえに、その端に加えて下さい。

どうか、クリスマスを多くの人々と共にあなたの御前で迎えることが出来るようにして下さい。計り知ることの出来ないあなたの御計画が、この地においても成就しつつあることを、信じ、また見ることの出来る幸いを与えて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>      2008年12月14日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書1:1−17
 説教題:「待降の民」
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