「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」              (ヨハネによる福音書8:12

 仮庵祭に神殿の「婦人の庭」に四本の大きな燭台に火が灯されていたが、主イエスはそれに対抗するかのように、標記のように言われた。燭台の火は油が尽きたり、祭が終れば消えてしまうが、主イエスの光は消えない。主は、世の中を明るくする方法について教えたり、「あそこに光がある、ここに光がある」と言って、光を指し示すのでもなく、御自身が闇を滅ぼす光だと宣言なさる。
 「世」は神が創造された世界であるが、今や、罪がまん延し、悪魔の支配下にあるかのようだが、神は見放されるどころか、愛してやまず、御子を送って、その光の支配下へと救い出されるのだ。
 だが、世は光を受け入れようとしない。ファリサイ派の人々は「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」(13)と抗議する。確かに、人間の証言であれば、間違いや偽証が入り込む恐れがあるので、「二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」(申命記1915)。しかし、主イエスは神から遣わされ、十字架と復活の御業をされた後、神の右の座へ帰られるお方であるから、その証しは真実である。主は、「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」(15)と言われる。人は自分の神観念や正義観や自分の知識・経験といった肉的・この世的な判断で裁いてしまう。そこには闇しかない。しかし、主イエスは、姦淫の女を罪に定められなかった(8111)ように、人々の罪を御自分が責任をもって負われることによって、裁かれない。これこそ、真実の証言であり、光の裁きである。
 主を信じて従う者は、命の光を持つ、とも言われる。私たちも主の光を受けて、世に向かって光を放つ存在に変えて下さるのである。主イエスは「あなたがたは世の光である」(マタイ514)ともおっしゃっている。

 米子伝道所主日礼拝説教<要旨>       2008年12月7日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書8:12−20
 説教題:「わたしは世の光である」
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