序.光の祭典に当たって

・待降節第二の主の日を迎えております。クリスマスは「光の祭典」と言われて、この時期にはイルミネーションが飾られたり、キャンドル・サービスが行なわれたりいたします。米子伝道所では、今年は模型の教会堂のステンドグラスを子供たちが造って、模型の中に電灯を入れて、ステンドグラスが美しく見えるようにして、夜は道行く人にも見てもらえるようにしています。どうしてクリスマスでは、光が用いられるのか。それは一つには、クリスマスは一年で最も夜が長い「冬至」に近い時期に行なわれるので、だんだんと日が長くなるのを喜ぶことと結びついたということもありますが、聖書的には、やはり、闇の世界に主イエスが光として来て下さった、ということに理由があります。

・先ほど、イザヤ書49章を朗読していただきました。これは、主なる神が遣わされる主の僕、すなわち救い主のことを預言したものですが、「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」(イザヤ496)と言われていました。旧約聖書の中には、こうした暗黒の世界を照らす光への待望があちこちに見られます。もう一個所、イザヤ書から拾ってみましょう。イザヤ書60章のはじめに、「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出て、主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ書601,2)とあります。

・ところで、私たちが聴いてきたヨハネ福音書も、第1章は暗闇の中に輝く光のことから語り始められていました。15節以下にこう書かれていました。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ福音書159)こういう言葉で始まったヨハネ福音書では、「光」が一つのテーマになっています。

・7章で私たちは、仮庵祭の時にエルサレムの昇られた主イエスのことを聴いてきたのでありますが、仮庵祭には水の儀式があって、それに合わせてイエス様が、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われて、ご自身が「生きた命の水」であることをお示しになりました。その仮庵祭には、実は、もう一つの儀式がありました。それは火の儀式ともいうべきもので、祭の最初の日の夜から祭の期間中、神殿の「婦人の庭」と呼ばれている所に立っている四本の大きな燭台に、火が灯されるのであります。その明るい輝きは、エルサレムの町中を照らすほどのものであったそうであります。仮庵祭は水の祭であると共に、火の祭でもあったのであります。なぜ、火を燃やしたかというと、これも水の祭と同様に、出エジプトの旅に起源があって、荒れ野を旅する間、神様が昼は雲の柱、夜は火の柱によって導かれたことを思い起こすためであります。今日の箇所のイエス様とファリサイ派の人たちとの対話は、その燭台の火がまだ輝いていた仮庵祭の最中なのか、それが終ってからなのかは、はっきりしませんが、場所は、20節にありますように、神殿の境内で、宝物殿の近くであります。燭台にも近い所だと思われます。まだ火が煌々と輝いていたのか、火は既に消えていたとしても、その余韻が残っている場所であります。そこで、主イエスは、812節にあるように、「わたしは世の光である」と言われたのであります。

・しかし、このイエス様の言葉も、水についての言葉の時と同様に、すんなりとは受け入れられないのであります。この世は闇だからこそ、光が必要なのであります。けれども、ヨハネ福音書の冒頭にありましたように、「暗闇は光を理解しなかった」のであります。光が来るところでは、光と闇との戦いがあるのであります。

・私たち自身の中にも闇があります。そして光に照らされたとき、それを素直には受け入れることが出来ないのであります。そんな私たちに向けて、主は今日も、「わたしは世の光である」と語られ、私たちの中の闇を照らし出そうとされます。今日は、主イエスとファリサイ派の人々との対話を通して、光であり給う主と向き合わされるのであります。

1.わたしは世の光である

・主イエスは「わたしは世の光である」と断言なさいます。「わたしは・・・である」という言い方は、このヨハネ福音書にたびたび出て来る言い方であります。これまでにも、「わたしは命のパンである」とおっしゃったのを聴きました。この後も、「わたしは羊の門である」「わたしは良い羊飼いである」「わたしは道であり、真理であり、命である」「わたしはまことのぶどうの木である」とおっしゃっています。これらは、ご自身がどのようなお方であるかを、分かりやすく譬えを用いて語られたものではありますが、単なる説明ではありません。これは宣言であります。

この場合も、神殿では大きな燭台の火が灯されていて、それは神様の導きを表わすものでありましたが、それに対抗するかのように、「わたしは光である」と言われたのであります。人々は神殿の燭台の光を有難がっているかもしれないけれども、それは油が尽きれば消えてしまう光であり、祭が終れば忘れ去られてしまう光であります。それに対して主イエスは、「私自身が光なのだ」とおっしゃいます。その意味は、単に、<光とはこのようなものだ>と説明するのではなく、<あそこに光がある、ここに光がある>と教えるのでもありません。また、イエス様の御人格や人に対する態度が<光のように世の中を明るくする>とか、イエス様の教が<物事がよく見えるために光のように助けになる>、ということでもなくて、主イエスそのものが闇を滅ぼす光だと宣言しておられるのであります。

私たちは色々なものに光を求めようといたします。先が見えない閉塞的な暗さの中で、人間の知恵や経験や創造力に光を求めたり、人間の良心や愛情や小さな幸せに明るさを見出そうとしたり、人間を越えた空想や偶像の世界に光を捏造したり(作り上げる)するのでありますが、それらは、この世の闇を決して滅ぼすことは出来ません。人間が考えたり作り出した光ではなく、本物の光である方だけが、闇を変えて光とすることが出来るのであります。

ここでイエス様は、ただ「わたしは光である」と言われたのではなくて、「わたしは世の光である」と言われたことに注目したいと思います。ここで「世」と訳されている「コスモス」という言葉は、ヨハネ福音書の中で77回も使われていて、非常に大事な言葉の一つでありますが、この言葉は、神様が創られた、「世界」――良くも悪くもない中立的な世界を意味する場合もありますが、多くは否定的な世界、悪魔が支配し、罪が満ちているところ、救いの対象として用いられています。例えば、これまでのところでも、洗礼者ヨハネはイエス様を指して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(129)と言っておりますし、イエス様自身もニコデモとの会話の中で、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」(319)と言われています。

しかし、「世」は神様とは無関係の世界、神様が見放されたところではなくて、元々は神様の御意志によって創られた世界であり、神が愛してやまない世界であって、「神がその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(316)と言われている通りであります。ですから、「わたしは世の光である」というお言葉は、神様の愛を受けながらも、罪に陥ったために闇が覆っている「世」を、<私こそが、もう一度、光の支配の下へと救い出すのだ>という宣言なのであります。

 
2.真実の証し・真実の裁き

・「わたしは世の光である」と言われたあと、まだ12節の後半のイエス様の言葉は続くのでありますが、それを聴く前に、13節以下に記されている、ファリサイ派の人々の反応を先に見ておきたいと思います。というのは、ここには暗闇の中にある「世」の実態が現れているからであります。

13節でファリサイ派の人々はこう言っております。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」――ユダヤの律法によれば、裁判においては、「二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」(申命記1915)とされていて、自分で自分のことを証言しても有効とはされません。第三者の証言が必要であります。これは常識的に考えてもっともなことでありますし、前に531節でイエス様自身も、「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」と言っておられましたし、マタイによる福音書でも弟子たちに、「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定される」(マタイ1816)とおっしゃっています。しかしこれらは、人間の証言に対して言われていることであります。神様が証言されるのであれば、たとえ御自身だけの証言であっても、それは真実であります。人間の証しには間違いや偽証が入り込みますが、神様の証しには間違いも偽りもないからであります。ファリサイ派の人々の抗議に対して、イエス様はすぐにこう言われました(14節)。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。」――イエス様は、<自分が神だから、自分の証しは真実だ>という言い方はされていませんけれども、「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っている」とおっしゃいます。主イエスは、闇の中にある者たちを照らす光として、父なる神様の許から来られました。そして、これから人間の罪を負って十字架へと赴かれようとしておられるのであります。そして、十字架の死から復活されて、その務めを果たしたならば、天に昇って父なる神様の右の座につかれるのであります。そのことを全て知っておられるのだから、イエス様の証しは間違いないし、真実である、ということであります。イエス様は、人間に対する神様のほとばしる愛から来て下さった、天地創造の時に創造された輝く光から来て下さった。そして、人間を極みまで愛し、輝く光をまとわせて下さる。そのようにして、御自分の御栄光を現されるのであります。「わたしは世の光である」と言われた言葉の裏側には、それだけの神様の救いの御計画の裏打ちがある、ということであります。

・それに対して、ファリサイ派の人々の実態はどうでしょうか。主イエス様は14節後半で、こう言っておられます。「しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」――ファリサイ派の人々ばかりでなく、誰もが、主イエス何者であられるのか、どこから来てどこへ向かわれるのか、どのような目的で来られたのかを、自ら知ることは出来ません。ただ、主イエスの真実の証しを聴くことによってだけ知ることが出来るのであります。そうでありますのに、ファリサイ派の人々は、自分たちこそ、神の掟を守り、真実を守る者だと自負しながら、主イエスを裁こうとするのであります。ここに闇があります。私たちもまた、この闇の中にあります。私たちも、主イエスの証しに耳を傾けるよりは、自分の神観念や、自分の知識や経験、自分の判断で、聖書が語っていることは、この程度のことだとか、自分には当てはまらない縁遠い話だ、と決め込んで、裁いてしまって、自分に語られた言葉としては受け止めようとはしないのであります。そして、闇から抜け出せないでいるのであります。

・このようなファリサイ派の人々と私たちに向かって、主イエスは続いて15節で、こう言われます。「あなたがたは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。」――「肉に従って裁く」というのは、肉的、この世的な原理によって裁く、ということであります。霊的、信仰的に判断しない、ということであります。私たちは信仰を持っていると自認しながらも、様々な判断において、主イエスならどうされるだろうか、ということを考えずに、自分の正義観や自分の経験則などで物事を判断したり、人を裁いたりしているのではないでしょうか。それは、闇の裁きにすぎません。

・イエス様は「わたしはだれをも裁かない」とおっしゃいます。このお言葉ですぐ思い出すのは、すぐ前に書かれていた姦淫の女の物語であります。人々は姦通の現場で捕らえられた女を裁いて、石で打ち殺すのは当然だと考えていました。しかも、女を連れてきた人々は、この女を出汁(だし)にして、イエス様を裁こうとしていました。そのような裁きは、イエス様の言われる「肉に従って裁く」ことであります。それに対してイエス様の裁きは、どうであったでしょうか。まず、「あななたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というのが、女を取り囲んでいた人々に対する裁きの言葉でありました。誰もが罪人であって、人を裁く資格はない、という裁きでありました。そして、この女に対しては、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われました。これは、<罪あるあなたをも裁かない>ということであります。これは、罪をうやむやにする、ということではありません。<私があなたの罪に対して責任を持ちます>ということであります。こうして主イエスは自ら女の罪を負うことによって、女を罪から解放されたのであります。ここに真実の裁きがあります。ここに人を救う裁き、光の裁きがあります。

・イエス様は16節で、「しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである」と言われ、18節で「わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」と言っておられます。主イエスの裁きが真実であるのは、父なる神と御一緒であるからであります。そして、主イエスの証しと父なる神の証しが一つであるからであります。これは人間の二人の証しとは比べ物にならない確実な証しであります。ですから、ファリサイ派の人々や私たちの裁きや判断が真実となり、闇から光へと移されるのは、父なる神と御一緒におられる主イエスを信じることによる以外にありません。私たちが自分の判断や裁きにこだわって、主の判断と裁きに委ねることをしないならば、私たちは闇から抜け出すことは出来ないのであります。

さて、イエス様がこのように、父なる神との密接な関係について語られると、ファリサイ派の人々は、「あなたの父はどこにいるのか」(19節はじめ)と問います。これは、イエス様があまりに父なる神との密接な関係を強調されたのに対して、恐らく、皮肉を込めて言ったつもりであります。彼らはまだ、闇から抜け出せないのであります。しかし私たちも、彼らをあざ笑うことは出来ません。私たちも聖書を通して聞くイエス・キリストの言葉を、父なる神の言葉として受け止めているのでしょうか。「わたしは世の光である」という言葉を、光を創造し、闇をも光に変え給う神の言葉として聴いているのでしょうか。私たちはどこかで、<現実の闇は深くて、主の力をもってしても拭いきれない>などと思っているのではないでしょうか。

主イエスは最後におっしゃっています。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」――ここで「知る」とは、知識的に知ることではありません。<信仰をもって受け入れる>ということであります。そして、神様を知る道は、主イエスを知る以外に、主イエスを信じて受け入れる以外にはないのであります。

結.命の光を持つ

12節の後半に戻ります。「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」――「従う」というのは、先に進んで行く人を信頼して随いて行く、ということであります。ですから、「信じる」ということと同じであります。ただ主イエスの話が面白いから、為になるから、慰めを受けるから、<結構なお話ですね>と言って賞賛するだけでは、従うことになりません。主イエスの教えを広めて行けば、世の中も少しは明るくなるだろう、というような受け止め方では、従うことになりません。主イエスの言葉に本気で身を委ねて、お言葉通りにする、ということであります。主イエスは「わたしは世の光である」とおっしゃっているのであります。既に光は輝いているのであります。もう暗闇が支配しているのではなくて、光が支配しているのであります。しかし、主イエスに従わないならば、その光が見えないのであります。けれども、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われます。<主イエスに従って行ったら、やがて光が見えてくるだろう、やがて光の中に入ることが出来るだろう>、ということではありません。主イエスに従うことにが、即、闇の中から光の中へと引き出されることなのであります。

・「命の光を持つ」と言っておられます。光に生かされるということであります。光の子になるということであります。マタイによる福音書ではイエス様は「あなたがたは世の光である」(マタイ514)とおっしゃいました。主イエスだけが世の光であるのではなくて、私たちも光となるのであります。もちろん私たち自身が光源になり得るということではないでしょう。主イエスの光を受けて、その光を反射して光るということでありましょうが、世に向かって、光を放つ存在になるのであります。

・最後に、「光の子」に関する聖書の言葉を二箇所、聴きたいと思います。

 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ58

 「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。」

(Tテサロニケ一545
・祈りましょう。

祈  り
 ・世の光である主イエス・キリストの父なる神様!
 ・闇の世を光で輝かして下さったことを感謝し、賛美いたします。

・私たちの心の中には、まだ闇が巣食っています。どうかあなたの光によって照らし出してください。そして、どうか、光であるお方を信じて従って行く者とされ、光の子とならせてください。

・暗闇に閉ざされて、行く先を見失っている人々に、あなたの光をお与え下さい。私たちが暗いところに光を持ち運ぶ者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>        2008年12月7日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書8:12−20
 説教題:「わたしは世の光である」
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