その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。                   (イザヤ書259

 ここには、終りの日に来られる待望の救い主に対する感謝と喜びが先取りされている。イザヤが高らかに感謝と喜びを語る根拠(理由)は、第一に、主なる神が、旧約の遠い昔からの揺るがない真実をもって、驚くべき救いの計画を成就された(1)ことである。第二に、主が、経済力の象徴である都を石塚とし、軍事力の象徴である城壁のある町を瓦礫の山とされる(2)一方、弱い者・貧しい者のために身を挺して砦となって下さる(4)ことである。第三に(これが最大の理由であるが)、すべての人間の醜い罪の現実を隠していた覆いが取り除かれて明るみに出される(7)と共に、人間の罪の集積の結果である「死」を永久に滅ぼして下さる(8)からである。それは、イエス・キリストによる十字架と復活の出来事を指し示している。「すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥をぬぐい去ってくださる」(8)とは、単に愛する者の死を悲しむ涙や、無念の思いのことを言っているのではなく、罪の問題が解決されたことを言っている。
 終りの日には、「この山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される」(6)と言う。「この山」とはシオンの山であり、そこで王の宴席に匹敵する最高のご馳走とえりぬきの酒が出される。それは、罪と死が滅ぼされた勝利の祝宴であり、神と共に王座に着いておられるのは、立役者のイエス・キリストである。この席に「すべての民」が招かれる。ただし、「モアブ」で象徴されるような、自らを誇り、驕り高ぶる者は打ち倒される(11)。私たちの礼拝は、終りの日における感謝と喜びの祝宴の先取り(予行演習)であり、驕りと誇りが砕かれる悔い改めの予行演習の場でもある。待降節にあたり、終りの日における最後のクリスマスを待ち望みつつ、感謝と喜びを先取りし、イザヤと共に賛美の声を挙げる者とされたい。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨              2008年11月30日 山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書25:1−12
 説教題:「待ち望んでいた主」                
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