序.待降節を迎えて

・本日から待降節(アドベント)に入ります。隔月の月末に旧約聖書のイザヤ書から御言葉を聴いて参りまして、今日はたまたま第25章が与えられているのですが、ここはまさに、待降節のメッセージを聴くのにピッタリの箇所であるように思います。

・イザヤ書の24章から27章までは「イザヤの黙示録」と言われていて、終末における世界の審きと救いが預言されています。9月に聴きました24章では、神様による世界審判が語られていて、地上の荒廃と破壊が預言されていたのでありますが、その中で、<主に従うわずかの残りの者が主を賛美する声をあげるのだ>、ということが記されていました。

・今日の25章は、それを受けて、神の驚くべき救いの業についての感謝と喜びの預言が書き連ねられているのであります。

・待降節というのは、言うまでもなく、主イエス・キリストの御降誕の記念日であるクリスマスを待ち望む季節ということでありますが、それと同時に、主イエス・キリストが再び来て下さる再臨の日のことを覚え、その日を待ち望む信仰を新たにする季節でもあります。そういう意味で、このイザヤ書25章は、まことに時宜に適った箇所と言えるのであります。

・また、本年は年間目標に「感謝と喜びの礼拝」ということを掲げて参りました。私たちの毎週の礼拝というのは、終わりの日に捧げる感謝と喜びの礼拝の先取りであります。今日の箇所からは、終わりの日の礼拝が「感謝と喜びの礼拝」となることの根拠(理由)が語られているように思います。その根拠は、私たちの毎週の礼拝が「感謝と喜びの礼拝」になるための根拠でもあります。今日は、イザヤの終末の預言を通して、私たちの礼拝が「感謝と喜びの礼拝」となる根拠を学ぶことによって、終わりの日の感謝と喜びを先取りしたいと思うのであります。

1.神の計画の成就

・まず1節には、こう語られています。主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって。

・「あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめる」という表現は、出エジプト記や詩編にも見られるものであります。イスラエルの民が葦の海を渡って出エジプトを果たしたとき、モーセとイスラエルの民は賛美の歌を歌いました(出エジプト152)。そこに、この表現が使われています。その同じ表現をイザヤは用いながら、「あなたはおどろくべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって」と語るのであります。それは、出エジプトの出来事が、アブラハムに対して約束されたイスラエルを守るとの契約以来の神様の御計画の成就である、という意味もあるでしょうが、むしろここでは、終わりの日における成就のことを先取りして言っているのであります。――イザヤの時代はアッシリアあるいはバビロンといった大国の脅威の下にあって、将来の展望が開けない時代であります。しかし、神は、かつて出エジプトの時代も御計画に従って導かれたし、これからも、御計画に従って、「遠い昔からの揺るぎない真実をもって」、必ずやイスラエルの民の救いを成し遂げて下さる、と語っているのであります。

イザヤが高らかに感謝と喜びを語る第一の根拠は、目の前に繰り広げられている状況にあるのではなく、また自分たちの力への自信でもなくて、遠い昔から変わらない神様の御計画にあるのであります。私たちの目論みはいつも狂います。人生設計を立てても、思い通りには行かずに、挫折を経験しなければならないケースが多いのであります。しかし、神様の救いの御計画に狂いはありません。そのことを信じることが出来るならば、どのような挫折を経験しても、感謝と喜びを失わないでいることが出来ます。

2.力ある者が滅び、弱い者が守られる

・次に、2節から5節にかけて、力を振るって繁栄した都が滅亡し、逆に力の弱い者が守られることが語られています。ここで「都」とは、力と繁栄を誇ったアッシリアの都やバビロンの都に特定する必要はありませんし、エルサレムの都を除外する必要もないでしょう。「都」とか「城壁」というのは、経済力や軍事力の象徴であります。神は、それら経済力や軍事力によって支えられた都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とされるのであります。

2節の3行目には、異邦人の館を都から取り去られた、とあり、5節の3行目にも、異邦人の騒ぎを鎮め、とあります。「異邦人」というのは、ユダヤ人に対する外国人というだけでなく、真の神様を信じない異教の民であります。異教が力を持ち、一時的に盛んになり、町を牛耳ることがあっても、やがて神の手によって、異教の影響力が町から消えてしまう、ということでありましょう。

・その結果、3節にあるように、強い民もあなたを敬い、暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる、と言います。強かった異教の民も真の神を敬うようになり、武力や権力による暴虐がまかり通っていた町の人々も神を恐れるようになる、ということであります。

このように、神は、経済的、軍事的、宗教的に力を持っていた者たちを滅ぼされる一方、4節から5節には、「弱い者」や「貧しい者」を、神は守られるのだということが語られています。まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨、乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように、異邦人の騒ぎを鎮め、暴虐な者たちの歌声を低くされる。――ここに、「砦」「避け所」「陰」という言葉が用いられています。これらは、詩編でも好んで用いられている言葉であります。そのいくつかを拾ってみましょう。

「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の、わたしは誰の前におののくことがあろう。(詩編271)」「主に従う人の救いは主のもとから来る、災いがふりかかるとき、となってくださる方のもとから。主は彼を助け、逃れさせてくださる、主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避け所とする人を、主は救ってくださる。」(詩編3739,40)「神はわたしたちの避け所、わたしたちの。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(詩編462)「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神のに宿る人よ、主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、わたしの神、依り頼む方』と。」(詩編911,2)――このように、神様は強い力を持つ者たちを攻撃して滅ぼされるとともに、弱い者のために、自ら砦となり、避け所となり、陰となって、身を挺して守って下さるお方なのであります。これは、来たり給う十字架の主イエスを指し示しております。圧倒的な罪の力の前に、私たちは引きずり込まれてしまうものでありますが、神様は独り子イエス・キリストを遣わして、いわば身を挺して、私たちを罪の力から守って下さったのであります。そして、終わりの日に向けて今もなお、私たちの砦、避け所、陰となって、守り続けていて下さるのであります。これが感謝と喜びの礼拝の第二の根拠(理由)であります。

・現代もまた、経済力、軍事力、それに宗教の力が世界を牛耳っていて、様々な暴虐が行なわれているし、これらは、今起こっている様々な混乱―金融危機や各地の紛争の原因にもなっています。そして、弱い立場にある者、貧しい者の苦悩は深まるばかりの現状であります。どうすれば解決できるのか。他国と競って、この国の経済力や軍事力を高めるだけでは、反って混乱を増幅しかねませんし、宗教と政治が手を結ぶことによって弱者を救済できるという主張は、欺瞞に過ぎません。強い者も弱い者も、真の神を敬い、畏れることからしか、本当の解決は訪れません。こうして世界の片隅で、真の神様を敬い、畏れる礼拝が行なわれ続けていることが、様々な問題の解決に繋がっているし、終わりの日の裁きを待ち望む者にとって相応しいことなのであります。

3.涙がぬぐわれ、死が滅ぼされる

・続いて、6節から10節前半までは、終わりの日における、主なる神の勝利を喜ぶ祝宴の様子が描かれているのですが、その喜びの最大の根拠が7節、8節に記されていますので、そこを先に見ておきましょう。

 主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。

・ここには、神が「死を永久に滅ぼしてくださる」ということが語られています。「死」の問題は、私たちにとって最大の問題であり、その解決こそ、感謝と喜びの最大の根拠であります。

・「この山で」とありますが、これは前回の24章の23節にあった、「万軍の主が、シオンの山、エルサレムで王となり、・・・栄光が現される」という言葉を受けています。終わりの日に全世界の人々がエルサレムに集められて礼拝を捧げるということは、既にイザヤ書の2章で語られていました。そこをもう一度見ておきます。

 「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちにその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。」(p1063イザヤ書223

・この2章の預言と同様に、ここ25章の7節でも、「すべての民」「すべての国」とあって、民族、国境を越えて、すべての人々が喜びの祝宴に招かれているということであります。

・そして、「すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし」と言われています。この布の覆いは何を意味するのかについて、二つの解釈があります。一つは、モーセが神様の前に出る時には、顔の覆いをはずしたという故事に従って、神様に対する認識を妨げている覆いを取り除かれることを意味するという解釈であります。今一つは、肉親の死の悲しみを表わすためにベールをかぶったことと関連して、8節で死が滅ぼされることが述べられるので、もはや布で顔を覆う必要がなくなったことを表わしているという解釈であります。いずれにしろ、覆いは現実を見えなくするものであります。私たちには、醜い罪の現実があります。すべての民にもすべての国にも、覆い隠さなければならない悪の支配の現実があります。しかし、終わりに日には、すべての覆いが取り除かれて、現実が明るみに出されます。罪の現実も、悲しみの現実も顕にされます。なぜなら、死が永久に滅ぼされるからであります。

・「死」というのは、聖書の世界では、単なる自然的な命の終わりではありません。死は罪の問題と切り離すことが出来ません。死は罪の結果であります。誰も死を免れることが出来ないのは、罪があるからであります。しかし、主なる神は、終わりの時には、その死をも永久に滅ぼしてくださるのであります。

キリスト者にとって、死が滅ぼされるとは、イエス・キリストによる十字架と復活の出来事に他なりません。先ほど、新約聖書のコリントの信徒への手紙15章の50節以下を朗読いたしました。15章はパウロによるキリストの復活証言から始まっておりますが、50節以下は、死者の復活のことを述べている箇所の一部であります。56節でパウロは、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と言っております。人の死にはとげがあって、死ぬ本人を傷つけますし、周りの人の心も傷つけます。それは、ただもう生きて会うことが出来なくなるという寂しさだけの問題ではありません。人の死には罪が絡んでいます。どんなに清らかな人生であったと言われる人であっても、神の前に恥じることのない人はいません。どんなに幸せな生涯であったと言われる人であっても、本人や周りの人の罪によってもたらされる不幸を背負っていない人はいません。第三者の責任や社会全体のゆがみも人の死に関わります。人の死は、そうした人間の罪の集積の結果であります。

しかし、イエス・キリストの十字架の死と、そこからの復活によって、死は滅ぼされたのであります。パウロはホセア書を引用しながら、こう言っております。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント1554,55「のみ込まれた」という言い方をしておりますが、イザヤ書の258節で「死を永久に滅ぼしてくださる」と言われている「滅ぼす」という言葉は、「のみ込む」という意味の言葉であります。主イエス・キリストの十字架と復活によって、神様は人間の死を永久にのみ込んでしまわれるのであります。

8節の後半は、死が滅ぼされた結果、「すべての顔から涙をぬぐい」「御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる」と語られています。涙と恥がぬぐわれるのは、愛する者の死を悲しむ涙や、無念な思いのことだけを言っているではありません。罪の問題が解決されるからこそ、すべての涙と恥が、ぬぐい去られるのであります。時間が悲しみや恥を忘れさせるということがあるかもしれません。しかし、それは真の解決ではありません。けれども、主が死を滅ぼして下さったということは、悲しみや恥の原因である罪の問題をすべて解決して下さったということであります。そこには、永遠の憩いがあり、本当の感謝と喜びがあります。

4.その日の祝宴

・以上、終わりの日における感謝と喜びの三つの根拠を見て来ました。一つは、驚くべき神の御計画が、揺るぎない神の真実をもって成就されるということ、二つ目は、人間の力が支配する都が滅ぼされて、弱い者、貧しい者が守られるということ、そして三つ目の最大の根拠は、罪の結果である死が永久に滅ぼされるということであります。

・6節には、終わりの日における喜びの祝宴の様子が描かれています。万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。――

この祝宴の主催者は「万軍の主」であります。ここまでで見てきたように、私たちが祝宴の根拠を生み出すのではありません。私たちはむしろ、神様を悲しませることばかりを積み上げております。しかし、それを喜びに変えて下さったのは、神様であります。神様は人間の背きと罪にも拘わらず、驚くべき御計画に従って、救いを成就して下さるのであります。そして、その救いの完成の喜びの席に、私たちをも招いて下さるのであります。

・祝宴の場所は「この山」であります。「この山」とは、先ほども見ましたように、エルサレムのことであります。そこは世界中から、すべての民が集められて礼拝を捧げる場所であります。礼拝とは、実は祝宴なのであります。喜びと感謝の場なのであります。祝宴では「良い肉と古い酒」「脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒」が供されます。これは王様の戴冠式などで振舞われる最高の御馳走であります。ここには主イエスのことは直接には出て来ません。しかし私たちは知っています。人間の罪と死を滅ぼして下さった立役者は、主イエス・キリストであります。神と共に王座に着いておられるのは、主イエス・キリストであります。そして、私たちも、喜びの席に連なることが許されるのであります。

5.誇りは打ち倒される

9節と10節前半には、人々の賛美の言葉が記されています。

 しかし、その前に、10節後半以降の言葉を聴いておきたいと思います。ここには、モアブの滅びが語られています。シオンの山の祝宴には、すべての国のすべての民が招かれているのでありますが、モアブだけは除外されているのであります。モアブ人は古来、イスラエルとは敵対関係にありました。

しかし、文字通りモアブ人だけが滅ぼされるということではなくて、モアブ人とは、神様に反抗する者たちの象徴的な呼び名であります。モアブで代表される人たちのどこが問題で滅ぼされるのでしょうか。11節の最後の行に、主はその誇りを打ち倒される、とあります。誇りが問題なのであります。このモアブについての託宣は、すでに15,16章で聴いてきました。16章の6節では、こう言われていました。「我々はモアブが傲慢に語るのを聞いた。甚だしく高ぶり、誇り、傲慢で驕っていた。その自慢話はでたらめであった。」――驕り高ぶって神を畏れない傲慢、救いを受け入れようとしない誤った誇りが問題なのであります。11節の1,2行目に、モアブはそこで手を広げる、泳ぐ人が泳ごうとして手を広げるように、とあります。これは、溺れそうになって救いを求める姿であります。しかし、終わりの時になって助けを求めても、もう遅いのであります。12節を見ると、主はお前の城壁の砦と塔を砕き、打ち倒して地の塵に伏させる、とあります。4節では弱い者を守った砦が、ここでは砕かれるのであります。

私たちの驕りと誇りは、今の内に砕かれなければなりません。その日が来てからでは間に合わないのであります。礼拝の場は、祝宴の予行演習であるとともに、驕りと誇りが砕かれる予行演習の場であります。今の内に砕かれて、悔い改めるならば、終わりの時には祝宴の席に連なることが許されるのではないでしょうか。

結.主をこそ待ち望め

・最後に、9節から10節前半の賛美の言葉を聴きましょう。

 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。主の御手はこの山にとどまる。

・ここには「この方」という呼び方が三回繰り返されています。「この方」とは、イザヤの時代には、まだ預言の中の人物でありました。しかし、「この方こそわたしたちの神」と言われ、「この方がわたしたちを救ってくださる」と言われ、「この方こそわたしたちが待ち望んでいた主」と言われています。この方とは、まさに、神の子であり、救い主であるイエス・キリストであります。

・イエス・キリストは、私たちにとっては、既に2000年前に来たり給うたお方でありつつ、終わりの日に、再び来たり給うことを待ち望んでいるお方であります。その日には、私たちもまた、「この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」と賛美の声を挙げることになるのであります。しかし私たちは、その日を待ち望みつつも、既に、信仰によって救いに入れられた者として、終わりの日の最後のクリスマスを迎える前に、感謝と喜びを先取りすることを許されているし、イザヤと共に賛美の声を挙げることが出来るのであります。

・私たちは、世界や国の前途に不安を覚えたり、教会の行き詰まりを嘆いたり、自分の人生が思い通りに行かないことに苦悩することが多いのであります。しかし、私たちに必要なことは、イザヤを通して語られた、終わりの日の約束を信じて、心から主の来臨を待ち望むことであり、礼拝において祝宴の先取りに与って、感謝と喜びに満たされることであります。
・祈りましょう。

祈  り

 ・救い主イエス・キリストの父なる神様!

・今日も、世界中の約束の民とともに、来るべき日の祝宴の喜びを先取りすることを許され、感謝いたします。

様々なこの世の力の前に、くずおれたり、逆に、愚かにも、己を誇ったりして、あなたを見失いがちになる者ですが、どうか、絶えず御言葉をもって、立ち返らせてください。

どうか、主の祝宴にはべる者とならせてください。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年11月30日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書25:1-12
 説教題:「待ち望んでいた主」     
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