「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」      (ヨハネによる福音書8:11

 主イエスを何とか貶(おとし)めたいと考えていたユダヤ人の指導者たち(律法学者、ファリサイ派の人々)が、姦淫の現場で捕らえられた女を連れてきて、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と言った。主イエスは日頃、罪人とされていた徴税人や娼婦たちを擁護するような発言をされ(マタイ2131)、愛を説いておられたのに、この女を、律法に従って石で打ち殺せと言われるなら、普段の言動と矛盾することになって、民衆の心は離れてしまうし、死刑の決定権を持つローマの権威を犯すことになる。逆に、女を赦してやれと言われたなら、律法違反だとして訴える口実を与えることになる。  これに対して主イエスは、しばらく指で地面に何か書きながら、彼らの愚かな問いに答えることを拒否しておられたが、彼らがしつこく問い続けるので、こう言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」――主は、女が律法に従って裁かれるべきであることを明言された。だが、裁くことが出来るのは、罪を犯したことのない者だけである。この言葉を聞いて、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、女だけが残った。この場面に、私たちは拍手喝采をしたくなる。だが、私たちは見物人ではおれない。私たちも、この女に石を投げることが出来るのか、またユダヤの指導者たちを非難することが出来るのだろうか。主イエスの言葉は私たちにも向けられている。  主イエスの裁きを待つだけとなった女に、主は標記のように言われた。これは、律法を無視して、この女を寛大に扱われたということではない。罪は裁かれ、償われなければならない。石打ちに相当する刑罰が、どこかで行なわれなければならない。それは、この女の上に起こるのではなく、彼女と向き合っておられる主イエスの上に起こることになる。「わたしもあなたを罪に定めない」との御言葉は、<私があなたの身代わりになって罪を負いましょう>ということなのである。その上で、「もう罪を犯してはならない」と言って、この世の現実の中に帰された。この女がこれで、一切の罪を犯さなくなったということはあり得ない。だがこの女は、生涯、主イエスの赦しを忘れることが出来ないだろう。女は、ただ一人罪を裁く権威を持ち、罪を赦すことの出来るお方の許に留まり続けた。私たちもまた、主の御言葉の許に留まり続ける者たちでありたい。

 米子伝道所主日礼拝説教<要旨>       2008年11月23日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書8:1−11
 説教題:「あなたを罪に定めない」
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