序.見物席から立ち上がって

・今日与えられておりますヨハネ福音書81節から11節に記されている出来事は、聖書の中でも非常に印象深い出来事の一つであります。ところが、古い聖書の写本では、この部分が抜けているのであります。そのため、聖書学者たちは、この部分が後から挿入されたと考えております。この部分の最初と最後に〔 〕がついているのは、そのためです。

・こんなに印象深い物語が、なぜ最初から入っていなかったのか。その理由は定かではないのですが、後の人が創作して付け加えた、というようなことではなくて、むしろ、伝承としては伝わっていたのだけれども、ヨハネ福音書が書かれた時代に、載せるには問題を含んだ出来事だということで、省いていたのではないかと考えられます。なぜこの物語が問題かというと、姦通の罪を犯した女が、裁きを受けることなく、イエス様によって赦されたからであります。当時の教会が倫理的にも正しい集団として形成して行こうとしているときに、聖書にこんなことが書かれていると、示しがつかない、ということであります。

・しかし、イエス様が姦淫の女に対して「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃったのは、イエス様が姦淫の罪に対して甘かったとか、単に寛大であったからではありません。むしろ、この物語の中には、人間が犯す罪に対するイエス様の非常に厳しい姿勢が見られるのであります。その厳しい姿勢は、当然、姦淫の罪を犯した女にも向けられていますし、その女を利用して、イエス様を困らせてやろうと思っていた人たちにも向けられていますし、何よりも、この物語を聞いている私たちにも向けられていることを知らねばなりません。そのことが分かったとき、この物語は、聖書からはずすことの出来ないものとして、ここに収められるようになったのではないでしょうか。

・この物語を劇として上演して、それを私たちが見物席で観ているだけなら、主人公であるイエス様の機知に富んだ対応に、拍手喝采したくなるような、小気味のよい物語であります。しかし、もし私たちが、この物語を、そのような見物人のような心持で読んでいるならば、私たちはこの物語の価値を何も理解していないことになります。ここに記されていることは、姦淫の女のことにしろ、律法学者やファリサイ派の人々のことにしろ、決して他人事ではありません。私たちはこの劇の観客(見物人)なのではなくて、登場人物なのだということを知らなくてはなりません。私たちは、女に同情したり、律法学者やファリサイ派の人々を軽蔑しているだけの見物席から立ち上がって、舞台に出て行って、彼らが立っているのと同じところに立たなければなりません。はたして、私たち自身が女を裁く立場にあるのだろうか、私たち自身が律法学者やファリサイ派の人々を非難することが出来るのだろうか、主イエスのお言葉は今日、私たちに向けられているのではないだろうか、ということを考えさせられる物語であります。

1.裁きの真ん中に立たされて

・さて、私たちは第7章の終りで、仮庵祭の最終日にイエス様が「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と大声で語られたあと、その言葉を聞いた人々の反応を見て来ました。群衆の中には、イエス様のことをモーセの再来だと見る者や、メシアだと言う者がいたり、ファリサイ派の人たちからイエス様を捕まえるために遣わされた下役たちが、イエス様の言葉の力に圧倒されて、捕まえられずに戻って来たり、以前イエス様訪ねたことのあるニコデモという最高議会の議員は、秘かにイエス様に心を引かれていたようでありますが、ユダヤの指導者層の人たちの多くは、イエス様への反感を強めていたようであります。

・今日の箇所は、イエスはオリーブ山へ行かれた、という言葉で始まっております。ルカ福音書2137,38節には、「イエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って、『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」と書かれています。この時もイエス様は、夜の間、オリーブ山で野宿されていたのであると思われます。

この日が、仮庵祭の最終日の翌日であったのかどうかは分かりませんが、2節にあるように、朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた、のであります。7章の43節では、「イエスのことで群衆の間に対立が生じた」とありまして、イエス様に対する評価は一様ではありませんでしたが、ともかく、イエス様の言動は大変注目を集めていたようであります。

そんな民衆の心を、何とかイエス様から引き離したいと考えていたのが、指導者たちであります。3節から5節には、こう書かれています。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

・先ほど、申命記の2222節以下を朗読していただきました。そこには、姦淫の罪を犯した者は、石で打ち殺さねばならない、ということがはっきりと命じられていました。女は姦淫の罪の現場で捕らえられたのですから、答えは明らかであります。

・そこで、女を連れてきた人たちは、イエス様に答えを迫ります。それは、6節前半に、イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである、あるように、イエス様を貶めるためです。イエス様は日頃、罪人とされていた徴税人や娼婦たちを擁護するような発言をしておられました。例えば、マタイ福音書の2131節では、「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたち(祭司長や長老たち)より先に神の国に入るだろう」とおっしゃっています。これは、悔い改めることの大切さを譬えで話された文脈の中で言われたことでありますが、普段からそういうことをおっしゃっているイエス様が、姦淫の現行犯で捕まえられた女に対して、律法に従って冷ややかに、石を投げることに賛成されたならば、普段のイエス様の言動とは矛盾することになって、民衆の心はイエス様から離れてしまうでしょう。それに、当時は死刑の決定は支配者であるローマの総督が行うことになっていましたから、その権威を犯すことになります。逆に、女を赦してやれ、などと言われたならば、律法に違反したとして、法廷に訴える口実を与えることになってしまいます。いずれにしても、律法学者やファリサイ派の人々は、これを材料にして、イエス様に対する民衆の評価を一気に落とすことが出来るし、イエス様を訴えることが出来る、と考えていたに違いありません。

・イエス様の話を聞きに来ていた大勢の人々の真ん中に、姦淫の女が立たされているのですが、今や、イエス様が、大勢の人々の真ん中で裁かれようとしているのであります。女を連れて来た人たちは、実は、女のことなどどうでもいいのです。女が石で打ち殺されようが、悔い改めてまともな女性に立ち帰ろうが、どうでもよくて、イエス様を貶めることだけを考えているのであります。この女は利用されているだけであります。この女に対する憐れみや愛が微塵も見られません。

・では、イエス様は、窮地に追い込まれて、どうされるのでしょうか。また、この女の罪の現実に対して、どう関わろうとなさるのでしょうか。

2.主イエスの沈黙

6節の後半には、イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた、とあります。イエス様はこの時、何を考え、何を書いておられたのか、これまでに色々な想像がなされて来ましたが、あまり意味がないと思います。むしろ、主イエスがすぐには何もお答えにならず、黙っておられた点を見たいと思います。イエス様は、自分を陥れようとする者に対して、対話を拒否しておられるのであります。後にイエス様に対する十字架の裁判のときにも、何もお答えにならなかったことがあります。イエス様は答えに窮しておられるのではありません。イエス様を裁くことの愚かさを知るべきであります。また自らの愛のなさを思うべきであります。

3.罪を犯したことのない者が、石を投げなさい

・しかし、7節にあるように、彼らがしつこく問い続けるので、イエス様は身を起こして言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

・このイエス様の言葉を聞くと、これまで激しい口調でイエス様を問い詰めていた律法学者たちは、急に黙ってしまいました。そしてやがて、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残りました。

・律法学者たちが、すごすごと去って行く姿や、女が危ないところで救われたのを見て、これが劇であるならば、見物席から盛んな拍手が送られるところであります。しかし、最初に申しましたように、もし私たちがこの物語を、そのような見物人のような心持で読んでいるならば、私たちはこの物語の価値を何も理解していないことになります。果たして私たち自身が、女に石を投げることが出来るのだろうか、私たち自身が律法学者たちを非難することが出来るのだろうか。主イエスのお言葉は私たちに向けられているのではないか、ということを考えなければなりません。

私たちは、罪には色んな段階があって、自分も悪い事をしたり悪い思いを持ったりするが、犯罪を犯すような人と自分とは違う、あの人のような卑劣なことを私はしない、と考えて、自分を一段高い所に置いて、他人を見下げようとします。しかし、主イエスは誰の中にある罪も、鋭く見抜いておられます。

今ここで問題になっている姦通の罪について申しますと、十戒の第七戒にある「姦淫してはならない」というのが元にあって、その具体的なケースについて定められているのが先ほどの申命記2222節以下なのですが、主イエスは、山上の説教の中で、こう言っておられます。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」(マタイ52729)。このような主イエスの規準からすれば、誰もが姦淫の罪を犯しているのであります。近代国家において、姦通ということは、道徳的には許されないにしても、刑法上の罪にはならないことが多いですし、まして、イエス様の言われるような心の中で淫らな思いを持つことは、何の問題にもされないのでありますが、そもそもの十戒の精神というのは、男女の関係というのは、神様が定められたものであって、それを人間の欲望でもって破ることが罪なのであります。ですから、イエス様が言われたように、心の中で淫らな思いを持つことも、神様に対する挑戦なのであります。性的な欲望だけでなく、物欲も同様であります。物の所有も神様の秩序であります。物欲から勝手に他人の物を奪ったり、欲しがったりするのも、神様の秩序を破ろうとすることであります。ですから罪になるのであります。イエス様は時代の状況を「よこしまで神に背いた時代」と言っておられます(マタイ1239164ほか)。その「よこしま」と訳されている語は「姦淫」という言葉であります。私たちはいつも、神様に対して姦淫の罪を犯しているのであります。

イエス様が「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とおっしゃった時に、一人また一人と、立ち去ったということは、さすがユダヤ人たちで、罪ということが神様に背くことだということが分かっていたのであります。私たちはどうでしょうか。この中に、<罪なんかない>と言い張る人はいないと思いますが、具体的な問題になると、他の人が悪くて、自分は正しいと主張し始めるのではないでしょうか。しかし、神様の御心に背いていないか、神様に対して姦淫の罪を犯していないかどうかを問われるならば、他人の罪をとやかく言う前に、自分が罪人であることを気付かざるを得ないのであります。

私たちは、この姦淫の女に向かって石を投げる資格がないばかりか、律法学者やファリサイ派の人々に向かっても石を投げる資格はありません。私たちも、すごすごとその場を立ち去らなければならない、恥ずべき罪人なのであります。

4.わたしもあなたを罪に定めない

・さて、主イエスの一言によって、すべての人が姿を消して行った後に、女だけが残りました。そこで彼女も、立ち去ろうと思えば立ち去ることも出来たでしょう。誰も、もう、彼女を引き止めようとする者はいません。しかし彼女は、そこから立ち去ろうとはいたしません。なぜでしょうか。井上良雄という方は、この箇所の講解説教の中で、「今こそ彼女は、本当に愛すべきものが何かということを知ったからだ」また「彼女は今、本当に畏るべき方を知ったからだ」と言っておられます。ただ一人彼女を裁くことの出来るお方の前に、自分を委ねることが出来たのであります。

・すると、10節にありますように、イエス様は、身を起こして、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と問われますと、女は、「主よ、だれも」と答えます。これは、<お蔭様でだれもいなくなって、助かりました>と言っているのではありません。<主よ、あなた以外に、誰も私を罪に定める人はいません>、<あなたの裁きを受けざるを得ません>、ということであります。――ところがイエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われたのであります。

・「わたしもあなたを罪に定めない」というのは、どういうお言葉でしょうか。このお言葉は、主イエスがこの女の罪を<大目に見てやろう>ということなのでしょうか。可哀想だから、見逃してやろう、ということなのでしょうか。――そうではありません。

・主イエスは、あくまでも正しいお方であります。姦淫の罪を犯した者は石で打ち殺せという律法は守られなければならないと考えておられます。ですから、「この女に石を投げなさい」ともおっしゃったのであります。罪に対して妥協するようなことは、なさらないお方であります。この女の罪に対しても、それに相応しい償いが支払われなければなりません。肉が裂かれ、血が流されるという、石打ちに相当する刑罰が、どこかで起こらなければなりません。神様は必ず罪を罰し給うのであります。

・そして、実際にそのことは起こったのであります。しかしそれは、この女の上に起こったのではなくて、彼女と向き合って立っておられる主イエスの上に起こったのであります。それが、主イエスの十字架の出来事であります。「わたしもあなたを罪に定めない」という御言葉、――それは、<私があなたの身代わりになって罪を負いましょう>ということであったのです。イエス様は、この女の罪を自分自身でお引き受けになることによって、正義を貫かれるのであります。

5.もう罪を犯さないように

・最後に、イエス様は11節後半で、「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われました。「行きなさい」と言われて、彼女はどこへ行くのでしょう。天使のようになって、天国のような世界へ行くわけではありません。この世の生活に戻るのであります。そこは相変わらず罪が渦巻いている世界であります。彼女に姦通の罪を犯させた状況は、何も変わっていないかもしれません。元のしがらみが残っていて、また誘惑が襲ってくるかもしれません。ですからイエス様は、「これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃいました。しかし、この女は、イエス様のこのお言葉を守ることが出来るのでしょうか。元の淫らな生活に戻るということはないにしても、これから先、一切罪を犯さずに過ごすことが出来るのでしょうか。イエス様から罪の赦しの恵みを受けたこの女も、絶対罪を犯さないとは言えません。

それならば、イエス様から赦しの恵みを受けたことは、何にもならないということなのでしょうか。そうではありません。彼女は「行きなさい」と言われましたが、このあと、イエス様のことは忘れ去って、イエス様不在の生活に戻るのではないのであります。恐らく、何ヶ月か後に、イエス様の十字架のことを知って、イエス様が「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたことの意味をはっきりと知ることが出来たでありましょう。その後に出来たキリスト教会の一員になったということは十分に考えられます。一生、イエス様のことは忘れられないばかりか、事あるごとに、特に罪の誘惑が襲ってくるごとに、イエス様のことを思い出したに違いありません。そして、イエス様が身代わりになって自分の罪を引き受けて下さっていることを思わざるを得なかったでありましょう。当然、襲ってくる罪の誘惑に対する身の処し方も、以前とは違ったでありましょう。

結.主のもとに留まる群れ

・ところで、私たちは今日の物語をどこで聞いているでしょうか。イエス様を陥れようとしていた律法学者やファリサイ派の人々は、すごすごと、その場から立ち去らなければなりませんでした。周りで見ていた民衆も、見物席にいることは出来なくて、自らの罪を覚えつつ、立ち去らなければならなかったでしょう。私たちも、同じように、主イエスの前から立ち去らなければならないのでしょうか。

・確かに私たちは、この女を罰する資格はありませんし、律法学者やファリサイ派の人々を非難する資格もありません。そういう意味では、イエス様の前から立ち去らねばならない者であります。

しかし、今、この物語を最後まで聞いて、この女と一緒に、「わたしもあなたを罪に定めない」というイエス様のお言葉を聞くことが許されました。私たちもイエス様の許に留まって、罪の赦しの御言葉を聞くことが出来ました。

そして、あの罪の女が、「行きなさい」と言われて罪の世界に戻って行っても、もはやイエス様との出会いを一生忘れることがないように、私たちも、イエス様の赦しの言葉を忘れることが出来ない者とされたのであります。

・礼拝というのは、ただお一人、罪を罰する権威を持ち、ただお一人、罪を赦すことも出来るお方の許に、留まり続ける、ということであります。教会というのは、そのように、罪の中にありながら、主イエスの許に留まり続ける者たちの群れである、ということが出来ます。そして、礼拝においてだけ、私たちは主イエスの赦しの御言葉を聴き続けることが出来るのであります。イエスさまは私たちにも、おっしゃって下さいます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」   ・祈りましょう。

祈  り

父なる神様!

罪深い私を、この場所に招いて下さり、更に引き留めて下さって、赦しの御言葉を聴かせて下さいましたことを感謝いたします。

どうか、罪の世にあって、罪に打ち勝つ力をお与え下さい。

どうか、主の御言葉の許に留まり続けさせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2008年11月23日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書8:1−11
 説教題:「あなたを罪に定めない」
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