祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。 (ヨハネによる福音書7:45,46)
主イエスの「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。……」(7:37,38)との言葉を聞いて、エルサレムの群衆の中には、荒れ野でモーセが杖で岩を打つと水がほとばしり出た故事などを思い出して、イエスをモーセの再来と考える者がいたり、待望のメシアだと言う者もいたが、一方、聖書に預言されているメシアの出生地とは異なるとして否定する者もいて、対立が生じた。だがそれは夜明けが近いしるしなのだ。
祭司長やファリサイ派の人々がイエスを捕らえるために遣わした下役たちは、主イエスの言葉を聞いて、その力に圧倒されて捕らえることが出来ず、戻って来て標記のように言った。それに対して、ファリサイ派の人たちは、指導者たちは誰もイエスを信じていないと、自分たちの権威を振りかざして、虚勢を張るのであった。
ところが、彼らの中の一人で、以前にイエスを訪れて、お言葉を聞いたことのあるニコデモは、本人の言葉を直接聞いてから判断すべきだと、律法に基づいて正論を述べた。このニコデモは後にイエスの遺体を引き取ることになる。彼の中に主イエス御言葉の力が徐々に働いていたのだ。
以上のように、主イエスの言葉は、戸惑いや反発や対立を生みながらも、エルサレムの人々の中に変化を起こしはじめており、主の御言葉の力が働いているのを見ることが出来る。曙の光は既に射しはじめているのだ。
わが国における福音宣教の状況や、米子伝道所の実状を見ると、福音の光が、人間の罪の厚い雲によって覆われていて見えないように思えるが、実は、御言葉の光が、その厚い雲の向こう側で燦然と輝いているのであって、厚い雲を通しても射し込んで来て、力を持ちはじめているのである。クリスマスに向けて、御言葉であるキリストの光を待ち望み、それを受け入れる者とされたい。
米子伝道所主日礼拝説教<要旨> 2008年11月16日 山本 清牧師
聖 書:ヨハネによる福音書7:40−53
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