序.この言葉を聞いて

・ヨハネによる福音書7章は、ユダヤの最大の祭りである仮庵祭の時に、エルサレムに上られたイエス様と人々とのやりとりが記されています。先週は、祭が最も盛大に行なわれる最終日に、イエス様が大声で言われた言葉を聴きました。それは37節の後半から書かれていますが、もう一度、聴きましょう。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(37b38

・さて、今日の箇所は40節以下53節までですが、その冒頭に、この言葉を聞いて、とありますように、ここには、先ほど読んだイエス様の言葉を聞いたエルサレムの人々の様々な反応が書かれているのであります。

・私たちは今日も、イエス様のお言葉を聴くために、ここにやって来たのでありますが、今日の箇所自体の中には、イエス様のお言葉は一言も書かれていません。また、ここにはイエス様のお言葉を聞いて悔い改めた人の話や、信仰を与えられて救いに入れられた人のことも書かれていません。中には、イエス様のことを、預言者だとかメシアだとか言う者もいたことが書かれてはいますが、全体としては、むしろ、イエス様に対する疑問や戸惑いや反発が満ちているように見えます。そうであれば、この箇所は礼拝説教で取り上げる値打ちがあまりない箇所なのでしょうか。

・しかし、なぜ疑問や戸惑いや反発が起こるかと言えば、イエス様のお言葉を聞いたからであります。イエス様の言われる「生きた水」が流れ始めたからこそ、よどんだ水が動き始めたのであります。御言葉の光がエルサレムの人々の心を照らし出したからこそ、暗闇の中にいる人々が、眠りこけているわけにはいかなくなったのであります。

・当時のエルサレムの人々に比べて、今のこの国の人々はどうなのでしょうか。この町の人々はどうなのでしょうか。イエス様に対する疑問や戸惑いや反発は、表立ってはいないかもしれませんが、キリストの福音が浸透しているという状況にはありません。伝道は非常に困難な状況にあります。イエス様の御言葉は聞かれているのでしょうか。大声で語られたイエス様のお言葉は、か細い声でしか語られていないように思えます。「生きた水」は流れているのでしょうか。御言葉の光は人々を照らしているのでしょうか。

・ひるがえって、私たち自身はどうなのでしょうか。私たちは確かに、こうして教会へ来て、御言葉を聞いているようであります。しかし、「生きた水」が私たちの中に流れ始めているのでしょうか。私たちの生活の中に、御言葉の光が差し込んでいるのでしょうか。表向きは、イエス様のお言葉に疑問を呈したり、戸惑いを覚えたり、反発しているわけではなくとも、御言葉が生きて働いているのでしょうか。私たちの魂の汚れを洗い落としているのでしょうか。私たちの中にある暗い部分を御言葉の光が照らし出しているのでしょうか。

・当時のエルサレムの人々、特にユダヤ人の指導的な立場にある人たちは、イエス様に対して疑問を持ち、激しく反発していました。群衆の間に対立が生じた、と43節には書かれています。

・しかし、この箇所をよく読んで行くと、エルサレムの人々の中に明らかに変化が表れ始めていることを、読み取ることが出来るのであります。チェンジが起こり始めているのであります。「生きた水」も、まだチョロチョロかもしれませんが、流れ始めているのです。朝日はまだ昇っていませんが、山の向うは明るくなって来ているのであります。――今日はその御言葉の光を、この中から、御一緒に見ることを通して、私たちの中にも光が差し込んで来ていることに気付かされたいと思うのでございます。

1.群衆

・まず、40節から44節にかけて報告されている「群衆」の反応を見てみましょう。40節には、この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者がいたことが記されています。――「あの預言者」とは誰のことでしょうか。それはモーセのことを指していると考えられています。申命記1815節で、モーセは神様から語られたことを報告しています。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたは彼に聞き従わねばならない」。18節にも、神様のお言葉が直接報告されています。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。」――ユダヤの人々は、このような申命記の言葉をもとにして、モーセのようにはっきりと神様の言葉を伝える預言者が再び現れることを期待しておりました。モーセはシナイ山で神様から十戒を初めとする律法を与えられただけではなくて、先週も聞きましたように、荒れ野の旅の中で、飲み水に困った時に、モーセが神様の言葉に従って、杖で岩を打つと、水がほとばしり出たのであります。ユダヤの人々は皆、そういう話をよく知っていて、あのようなモーセがまた現れるなら、この苦しい状況から抜け出せるのではないかと期待しておりました。ですから、イエス様が「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われると、モーセのことを思い出して、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う人がいたのであります。

・また、41節にあるように、「この人はメシアだ」と言う者もいました。「メシア」というのは「油注がれた者」という意味ですが、それは救い主を指す言葉であります。当時のユダヤ人の多くは、旧約聖書のあちこちの言葉をもとに、救い主が現れて自分たちを救ってくれる日が来ることを待ち望んでいたのであります。ヨハネ福音書4章で聞いた、サマリアの女とイエス様との対話の中で、女は、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」(ヨハネ425)と言っております。ユダヤ人からは蔑視されていたサマリアの女でさえ、メシア(キリスト)が来られるのを期待していましたから、イエス様のお言葉を聞いて、<この人がメシアではないか>と言う者もいたのであります。

・いつの時代でも、困難な状況の中では、英雄の出現が期待されます。現代の日本も、先が見えにくい時代の中で、首相が次々と交代せざるを得ない状況があって、英雄(すぐれた指導者)の出現を期待する空気が高まっているように思います。またアメリカも、イラク戦争の失敗や金融危機の中で、流れをチェンジする大統領を期待してオバマ氏を選択いたしました。ユダヤの群衆の中にも、そのような英雄出現の期待があって、イエス様を預言者であるとか、メシアかもしれないと思う人がいたのであります。

しかし、こうした期待に慎重な人たちもいました。41節後半から42節までを見ますと、「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」と言う人も群衆の中にいました。メシアがダビデの子孫から出るというのは、列王記7章でナタンという預言者がダビデに告げた言葉に基づくもので、メシアがベツレヘムから出るというのは、ミカ書51節に預言されていることに基づいているものであります。イエス様の家はガリラヤのカナにあり、そこで育たれましたが、実はお生まれになったのは、降誕物語で御存知のように、ベツレヘムでありました。そのことはこの当時、あまり知られていなかったので、聖書によれば、イエス様はメシアではない、と誤解したのであります。聖書の知識があるばかりに、イエス様を受け入れられなかったのであります。

・こうして、43節にありますように、イエスのことで群衆の間に対立が生じました。本物のメシアが来ておられて、そのメシアから直に御言葉を聞いていながら、そこには、英雄願望と聖書の誤解から対立が生じてしまったのであります。イエス様は他の福音書の中で、こう言っておられます。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ1251)正にそのお言葉が文字通り成就しているのであります。このように、キリストが来られた時に、人間の間で起こることは、必ずしも直接、救いの出来事には結びつかないように見えるのであります。私たちの中にキリストの福音が宣べ伝えられる時も、同様であります。キリストを受け入れる人と、そうでない人との間に対立が生じます。私たち自身の中にも葛藤が生まれます。しかしそれは、救い主キリストがそこまで来ておられることの、しるしであります。夜明けが近づいていることのしるしなのであります。

44節を見ますと、その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった、とあります。群衆の中には、ユダヤの指導者たちに協力して、イエス様を捕らえようとする者もいました。この時はまだ、30節にありましたように、「イエスの時がまだ来ていなかった」ので、手をかける者はなかったのでありますが、やがて、半年後には、十字架に行き着くのであります。キリストが来られるところ、福音が語られるところでは、イエス様を亡き者にするということが起こってしまうのであります。私たちの中にも、イエス様に関わってもらっては都合が悪い、無視しよう、ということが起こってしまうのであります。しかし、それが、救い主が近づいておられることのしるしであります。既に夜空は白んで、やがて朝の光が射そうとしているのであります。

2.下役たち

・次に、45節から49節までのところには、イエス様を捕らえるために遣わされた下役たちのことが報告されています。下役たちが祭司長たちとファリサイ派の人々によって派遣されたことは、32節に書かれていましたが、下役たちは彼らの命令を実行出来ないまま、戻って来たことが45節に書かれています。どうして実行出来なかったのでしょうか。もちろん、「イエスの時がまだ来ていなかった」と言われているように、神様の御計画の時に至っていなかったということでありますが、具体的には、下役たちに、ある力が働いたのであります。その力とは何でしょうか。

45節にあるように、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言ったところ、下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えたのであります。祭司長と言えば、ユダヤ人の宗教の世界の最高権威者であります。ファリサイ派の人々というのは、律法を忠実に守っていることを誇っていた人たちで、当時の最高議会のメンバーの中核をなしていた人々であります。そういう指導者たちの命令を果たさずに戻って来たのでありますから、責任を問われなければならないような状況であります。「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と詰問されています。すると下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えています。イエス様の話しが原因で、連れて来れなかった、というのであります。これはどういう意味でしょうか。これは、下役たち自身がイエス様のお言葉に圧倒されて、捕まえる気にはなれなかったということなのか、あるいは、イエス様の言葉を聞いた群衆が、イエス様のお言葉の力を受けて圧倒されていたので、下役たちがイエス様に手を出そうものなら大変なことになりそうで、すごすごと帰って来たのか、両方が考えられますが、いずれにしましても、今までにないイエス様の言葉の力が、イエス様を捕らえさせなかったのであります。ここにも、やがて昇って来る太陽の光の力を予感させるものがあります。

・これに対してファリサイ派の人々は、47節によると、「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている」と言いました。下役たちがイエス様の言葉も報告したのかどうかは書かれていませんが、ファリサイ派の人たちは、これまでにもイエス様の言動を耳にしていて、おそらく、その力を感じていたからこそ、それに負けまいと、虚勢を張っているのであります。彼らは当時の社会における議員やファリサイ派の人々の権威をかざしながら、群衆たちが律法に対して無知だから、惑わされているのだ、と言うのであります。

・私たちもまた、御言葉の圧倒的な力を受けると、自分のこれまでの立場や生き方が否定されるようで、何とか自分の立場を守ろうと、虚勢を張って、知識や経験を総動員して、御言葉を否定しようとするのであります。しかし、昇り来る太陽を押し留めることは出来ないように、御言葉の光を消し去ることは出来ないのであります。

3.ニコデモ

・次に50節以下のところには、もうひとり、御言葉の光の力を予感させる人物のことが書かれています。それはニコデモであります。50節に、彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った、と書かれています。「彼らの中の一人」とありますように、ニコデモはファリサイ派に属し、最高議会の議員でありました。(31)「以前にイエスを訪ねたことのある」というのは、この福音書の3章に書かれていることです。ある夜、人目をはばかってイエス様のところにやってきて、イエス様から何事かの教えをいただこうとしましたが、イエス様から「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われて、戸惑いながら会話を進めるのですが、次第にイエス様が一方的に話されるようになって、遂には、316節の福音の真髄を示す有名な御言葉が語られるのであります。それは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という言葉です。その後の19節では、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」という言葉も、ニコデモは聞いております。このように、ニコデモはイエス様の御言葉の光を受ける体験をしたことのある人物でありました。

・そのニコデモが、51節でこう言っております。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」――「我々の律法によれば」というのは、申命記1章に記されている裁判に当たっての基本ルールのことと思われます。律法を重んじるファリサイ派の人間として、律法に従って、イエスという人物の言い分をよく聞いてから判断すべきではないか、という正論を述べているのであります。しかし、その裏には、イエス様の言葉の光を受けた者として、もう一度、この場でイエス様のお言葉を聞きたい、そうすれば新たな事態が開かれるのではないか、という思いがあったのではないでしょうか。

・ニコデモの提言を聞いた人たちは、52節でこう言います。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」――この言葉の中には、中央のユダに対して、地方のガリラヤへのひどい軽蔑が込められています。彼らは、41,42節にあったように、一応、聖書の預言を根拠にしているのですが、これは偏見から来る大いなる誤解で、よく調べれば、ヨナ、ホセアといった預言者はガリラヤ出身ですし、イエス様はユダのベツレヘムで生まれておられるのであります。彼らの方がよく調べるべきだったのであります。

・そのことはともかく、ニコデモはイエス様の言葉を忘れることが出来なかったのであります。そして、半年後にイエス様が十字架にお架かりになった後、ニコデモはアリマタヤのヨセフという人物と共に遺体を引き取って、丁寧に墓に埋葬するのを手伝ったことが、この福音書の1938節以下に記されているのであります。更にニコデモは後に、キリスト者になったのではないかと言われています。最初にイエス様を訪れた時に、すぐに回心して新しく生まれ変わったわけではありませんでしたが、イエス様の御言葉の力は、ゆっくりとニコデモの中に働いて、やがて信仰へと導かれることになったのだと思われます。

結.曙の光

・今日の箇所には、イエス様の言葉を聞いて、戸惑ったり、反発したり、対立が生じたり、呪いの言葉さえ語られたりした様子が書かれていました。しかし一方で、群衆の中には、イエス様が本当の預言者ではないか、待ちに待ったメシアではないかという思いがもたげ始めていましたし、イエス様を捕らえようとした下役たちは、イエス様の御言葉の力に圧倒されて、捕らえることができませんでしたし、夜イエス様を訪れたことのあるニコデモは、同じファリサイ派の人々や議員に向かって、堂々と正論を述べることが出来るようになっていました。

・このように、イエス様の言葉の力が隠れたかたちで働き始めていたのであります。まだ、太陽は、山の陰にあって、その姿を直接は見ることは出来ませんし、まだ辺りは暗い影で覆わています。しかし、東の空は白んで、曙の光がまさに射し始めようとしています。御言葉の光が、人々の中に射し込もうとしているのであります。そして、半年後には、イエス様の十字架と復活の出来事が起こって、太陽の光は燦然と輝くのであります。

・けれども、その太陽の光は、その後も人間の罪の雲によって、覆われることが多いのであります。私たちはまだ、主イエス・キリストの御栄光そのものを、見ることは許されていません。それを見るのは、主イエスが再び来て下さる再臨の日であります。

・しかし、雲の向うでは、太陽が輝いています。御言葉の力は、厚い雲を通しても、私たちのところに届いているのであります。

・私たちの伝道所にも、様々な問題があります。厚い雲が覆っているのかもしれません。礼拝から離れてしまった人がいます。まだ迷いの中にいる人がいます。不満や苛立ちがあります。憎しみや対立さえ見え隠れいたします。しかし、主は御言葉を語っていて下さいます。そして、御言葉の光は厚い雲を通してであっても、射し込みはじめ、力を持ち始めているのではないでしょうか。私たちは、その光の中へと招かれているのであります。

・今月の末から待降節に入ります。日曜学校の子供たちが、模型の会堂に取り付けるステンドグラスを造り始めていますが、待降節に入ると光を入れて、玄関の外に飾られる予定です。クリスマスは光の祭典と言われます。それは、イエス様の誕生によって射し込み始めた光を祝う祭典であります。どうか一人一人が、クリスマスに向けて、御言葉であるイエス・キリストの光を待ち望み、罪深い自分自身の中に、御言葉の光を受け入れることが出来る者となりたいと思います。
・祈りましょう。

祈  り
 ・救い主イエス・キリストの父なる神様!

・今日も、御言葉の力と光に触れることを許していただいたことを感謝いたします。

・どうか、罪の闇に止まりがちな私たちに、溢れる光を注いで下さい。生きた命の水を溢れさせてください。
・どうか、クリスマスに向けて、御言葉の光によって備えさせて下さい。

 ・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2008年11月16日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書7:40−53
 説教題:「今までにない話」
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