「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネによる福音書7:37,38

 イスラエルの民が荒れ野を旅していたときに、岩から水がほとばしり出た恵みが、子々孫々にあることを祝う儀式が盛大に行なわれている最中に、主イエスは、それに逆らうかのように、大声で標記のように語られた。
 「渇いている人」というと、恵まれないで、心が乾いてしまっている人を思い浮かべるが、自分では渇きを意識しなくても、他人を見下げたり、疎ましくしていて、愛が干からびている人や、神様との関係が希薄になって、罪の赦しを必要とする、霊的に渇いている人も呼びかけられているのではないか。実は、「だれでも」が渇いているのだ。
 主は「神殿に行きなさい」とは言わずに、「わたしのところに来て飲みなさい」と言われる。もはや神殿では魂の渇きを癒す水を飲むことが出来ない。パウロも「この岩こそキリストだったのです」(Tコリント104)と言って、荒れ野で水が出た岩がキリストにおいて成就したと語る。主イエスは<どこそこに行けば泉がある>と教えるのではなく、「だれでもわたしのもとに来なさい」(マタイ1128)と言われる。旧約聖書に書かれている「水が流れ出る神殿」(エゼキエル47章)とは、イエス自身のことを指し、「エルサレムから命の水が湧き出て、…主は地上をすべて治める王となられる」との預言(ゼカリヤ14章)はキリストによって成就する。
 それらからすると、「その人の内から」とは、「キリストの内から」と読めるのだが、「わたしを信じる者」から「水が川となって流れ出るようになる」とも読める。「生きた水」とは、聖霊である。聖霊を受けた弟子たちが、罪の赦しの業を委ねられた(ヨハネ201923)ように、私たちに与えられる「生きた水」も、私たちから溢れ出て、他の人にまで及び、罪の赦しが起こり、その人の魂の渇きを癒し、新しい命を注ぐことになるのである。 

 米子伝道所主日礼拝説教<要旨>       2008年11月9日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書7:37−39
 説教題:「生きた水」
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