序.仮庵祭に

・今日、与えられておりますヨハネによる福音書737節以下の箇所は、今年の春の伝道礼拝において槌本先生が取り上げられて、「渇いた心にいのちの御言葉を」という題で素晴らしい説教をして下さった箇所であります。槌本先生は最初この箇所の背景となっている仮庵祭について触れられたあと、この箇所と深いつながりがある4章の、サマリアの女との対話を中心に、「命の水」についてお話しになりましたが、今日は、この737節から39節の箇所に密着しながら、主イエスが何を言おうとされたのかを聴いて行きたいと思います。

・7章の初めから、当時のユダヤにおける最大の祭である仮庵祭の間のイエス様の行動とエルサレムの人々との対話について書かれていましたが、今日の箇所は37節にありますように、祭りが最も盛大に祝われる終わりの日のことであります。この祭は、元来は収穫祭で七日間行なわれたものでありましたが、それに荒れ野の旅の際の天幕生活を思い起こすために各家で仮小屋を造ることと結びついて、仮庵祭と呼ばれるようになり、日数も8日間に延長されたようであります。祭のクライマックスは終わりの日の8日目だったようですが、この後のイエス様の言葉と関係がある、雨乞いの儀式は七日目に行なわれたので、これは七日目のことではないか、という見方もありますが、雨の水では癒されない心の渇きの話なのだから、8日目が相応しいと考える人もいます。しかし、どちらの日かということは、あまり大事なことではありません。ただ、イエス様が神殿で行なわれた水の儀式を意識しながら語られたことは間違いのないことであります。その水の儀式というのは、祭の間に毎日、祭司がシロアムの池に行って、湧き出ている水を桶に汲んで来て、「水の門」と呼ばれている門を通って神殿に入って、犠牲を捧げる神殿の祭壇に注ぐのであります。

・この儀式の由来は、かつてイスラエルの民が荒れ野の旅をしていた時に、飲み水がなくて困って、人々が不平を言い出した時に、モーセが神様にどうすればよいかをお尋ねしたところ、杖で岩を打つように命じられて、そうすると水がほとばしり出たという故事(17)に基づいたものであります。詩編114編では、この出来事のことを、「岩を水のみなぎるところとし、硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に」(詩編1148)と歌っております。

・しかしこの儀式は、単に過去の歴史の中の神様の恵みを思い起こすためだけに行われるのではありませんでした。<神様は今も、イスラエルの民に恵みを注いで下さる>、更に、<子々孫々に亘って、神様はイスラエルの民に祝福を与え続けて下さる>、ということを覚える儀式でもありました。イザヤ書44章にはこう書かれています。「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。彼らは草の生い茂る中に芽生え、水のほとりの柳のように育つ。」(イザヤ4434

・さて、6章以来見て参りましたように、ユダヤ人の指導者たちのイエス様に対する敵意が日増しに激しくなる中で、神様の御心が行われる決定的な時は、まだ来ていないのでありますが、今、水の儀式が行われる仮庵祭が最も盛り上がっている大事な時に、イエス様がこれから何をなそうとしておられるのかを語られるのであります。イエスは立ち上がって大声で言われた、とあります。イエス様は通常は律法の教師たちと同じように、座って人々に語られたようですが、この時は立ち上がって、しかも大声で言われたと記すのであります。聴いていた人たちも、ただならぬ熱意を感じたことでありましょう。――イエス様は今日も私たちの前に立って、熱意を込めて語っておられます。心して主イエスの御心を聴き取りたいものであります。

1.渇いている人はだれでも

・イエス様は大声で、こう語り始められました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」――今まさに、祭りは最高潮にあります。神様が自分たちに恵みを注いで下さることを覚える祭りが盛大に行なわれているのであります。人々はその喜びに満たされている筈であります。それなのにイエス様は、その祭に逆らうかのように、「渇いている人」に呼びかけておられるのであります。

・「渇いている人」とは、どのような人でしょうか。祭りの喜びに付いていけない人たちがいたことが考えられます。ユダヤの社会の中で罪人とされていた徴税人や遊女たちは、神様の恵みが豊かに注がれているとは思わなかったでありましょう。彼らは祭りの喜びの外に置かれて、彼らの心は渇いていたに違いありません。イエス様はそのような人々と共に食事をなさいました。ここでも、そのような人々を招いておられるのかもしれません。

しかしイエス様は、そのような人々だけを「渇いている人」と呼びかけておられるのではないと思います。祭りに積極的に参加し、その喜びの中にありながら、その魂には、霊的な渇きがある人たちを見ておられるのではないでしょうか。自分たちは神様の掟を守って正しい生活をしている、と思っている人たちの中にも、周りの人と比べて豊かな生活をしたい、少しでも上の地位に昇りたい、人々から立派な人だと尊敬されたい、という思いがあって、その心は必ずしも満たされてはいないのを、イエス様は見ておられるのではないでしょうか。この世の喜びという点では、ある程度満たされている、他人からは後ろ指を指されない生き方をしている、否むしろ誇りを持って生きている、と思っている人の中に、自分たちでは気付いていないけれども、イエス様は魂の渇きを見ておられるのではないでしょうか。

・ここで「渇いている人」というのは、満たされない思いの中で、心がカラカラになっている人という意味だけではなくて、むしろ、ある程度満たされている中で、他人を見下げたり、神様との関係が希薄になってしまっていて、霊的に渇いている人、もっとはっきり言うと、罪の中にあって、神様の赦しを必要としている人を言っておられるのではないでしょうか。

・私たちは、「渇いている人」というと、経済的に恵まれない人々、競争社会の中で落ちこぼれた人々、家庭的に恵まれない孤独な人々、あるいは健康的に弱さを抱えて不安の中にある人などを思い浮かべるかもしれません。私たち自身もそういう渇きの中にある一人であるかもしれません。イエス様は、確かにそういう人にも呼びかけておられます。しかし、呼びかけられているのは、そういう人だけではありません。自分自身ではあまり渇きを意識しないかもしれませんが、私たちの中には、他人を見下げたり、羨んだり、差別したり、疎ましく思ったり、時には憎んだりする心があるのではないでしょうか。そこでは愛が干からびています。魂の奥底に、自分では気付かない渇きがあります。罪があります。それ故、私たちはだれでも、罪の赦しが必要な「渇いている人」なのであります。

・イエス様は、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われました。今、見ましたように、だれでもが渇いている人なのであります。ですから、イエス様のところに行かなくてもよい人はいないのであります。しかし、自分は渇いていないと思っている人がいます。あるいは、渇きを覚えつつも、イエス様なんかによって自分の渇きが癒されることはない、と思い込んでいる人もいます。本当にそうなのでしょうか。イエス様は、どんなに渇きがひどい人も、どんなに罪深い人も、だれでも来るようにと、招いておられるのであります。

2.わたしのところに来て飲みなさい

・イエス様は「わたしのところに来て飲みなさい」と言われました。このとき、神殿では祭壇に水が注がれて、神様が、かつて岩から水を溢れさせられたように、今も恵みを注いで下さることが示されているのですが、イエス様は、「神殿に行きなさい」とは言われずに、「わたしのところに来て飲みなさい」と言われるのであります。イエス様は神殿で神様を礼拝することを否定されたわけではありません。しかし、以前に宮清めを行うことによって示されたように、当時の神殿の礼拝が限界を持っていると見ておられました。そして、神殿を「三日で建て直してみせる」(ヨハネ219)とおっしゃいました。十字架の後に三日目にお甦りになることによって、キリストの体である新しい神殿を建て直すことを預言されたのであります。キリストの体である教会の礼拝においてこそ、魂の渇きを癒す水を飲むことが出来るのであります。だから、「わたしのところに来て飲みなさい」とおっしゃるのであります。

・パウロはコリントの信徒への手紙の中で、かつてイスラエルの民が岩から水を飲んだ故事を引き合いに出しながら、こう言っております。「兄弟たち、次のことをぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」(Tコリント1014)――パウロは、かつて荒れ野で水が出た岩は、キリストを指し示していて、神殿の儀式の中に引き継がれていたが、今や、キリストにおいて成就したのだ、と考えているのであります。私たちもまた、この岩から溢れる水を飲むのであります。

・ですから、私たちは、魂を癒す場所を、どこか他に求める必要はありません。イエス様は、<どこに行けば泉がある>、<あそこに行けば魂に潤いが与えられる>、というようには、お教えになりませんでした。「わたしのところに来て飲みなさい」と言われました。イエス様は別の福音書では、こう言っておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」(マタイ1128)――このように、イエス様は、御自身のもとに呼び寄せられました。イエス・キリスト以外に、魂の渇きを癒すところも、人もないのであります。

3.聖書に書いてあるとおり

・続いて38節で、イエス様はこう言われています。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

・「わたしを信じる者」というのは、その前で言われていた、「わたしのところに来て飲む」人のことでしょう。「飲む」ということは、与えられるものを自分の中に受け入れる、ということであります。イエス様のところに来て飲むということは、イエス様が与えようとされるものを、信じて受け入れるということであります。

・「聖書に書いてあるとおり」というのは、ここでは旧約聖書に書いてあるように、ということです。水が流れるということに関して書かれている旧約聖書の箇所はたくさんありますが、ここまででも既に、詩編114編とイザヤ書44章の二箇所を引用しましたが、先ほど朗読していただいたエゼキエル書47章も、その一つです。これは、破壊された神殿が再建されるのを、エゼキエルが幻で見て語っている個所ですが、その中で、神殿から水が流れ出す様子が述べられていて、それが川になるのであります。そして、「川が流れていく所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」(エゼキエル479)と言われています。イエス様は恐らく、この御言葉を念頭に置きながら語っておられたでしょうし、聞いている人たちも、この箇所を思い出したでしょうが、すべての生き物を生かす水が流れ出る神殿とは、イエス様御自身のことを指していると読んでよいでありましょう。

・もう一個所見ておきましょう。ゼカリヤ書146節以下(p1494)ですが、これは終りの日の預言であります。「その日には、光がなく、冷えて、凍てつくばかりである。しかし、ただひとつの日が来る。その日には、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出て、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の王となられ、その御名は唯一の御名となる。」(ゼカリヤ1469)――この預言は、やはりイエス・キリストによって成就するのであります。イエス様がエルサレムで十字架にお架かりになることによって、エルサレムから新しい命の川が全世界に向かって流れ始めるのであります。もはや神殿も、仮庵祭も要らなくなります。新しい主の日が始まるのであります。

4.その人の内から生きた水が

・ところで、ヨハネ福音書に戻りますと、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とあるのですが、ここの「その人」というのは、この新共同訳で見ると、「わたしを信じる者」即ちイエス様を信じるキリスト者と読めるわけですが、原文では「彼の腹から」で、「キリストの内から」とも読めるのであります。先ほど読んだ旧約聖書からすると、イエス・キリスト御自身と読んだ方が当たっているのであります。生きた水が流れ出す源は、あくまでもイエス・キリストであります。しかし、そこを明確にしていないのは、キリストの体である教会の群の一人一人からも、生きた水が川となって流れ出て、それがまた、他の人々潤す祝福の水ともなる、と読ませようとしたのではないでしょうか。

・では、「生きた水」とは何でしょうか。この言葉は4章のサマリアの女との対話の中でも出て来ました。あのときイエス様はサマリアの女に向かって、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」と言われました。「生きた水」という言葉は、<溜まり水>ではなくて、<湧き水>を指す言葉でした。ですからサマリアの女は、その湧き水はどこにあるのか、汲む物を持たずにどうして手に入れるのか、と問うのであります。それに対してイエス様は、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とおっしゃいました。(ヨハネ41014)――このイエス様の言葉からも分かるように、「生きた水」の源はイエス様ご自身であり、その「生きた水」が人を潤し、人に命を与え、その人がまた他の人に生きた水を与える泉となるのであります。

・それでは、「生きた水」自体は何なのか。それをヨハネ福音書の記者は、39節で、イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである、と解説しています。イエス・キリストから発せられる聖霊が「生きた水」であります。主イエスを信じる者に、聖霊が送られることによって、信じる者の内に新しい命が湧き上がり、そこがまた泉となって、他の人の命にも潤いを与えるのであります。

結.聖霊を受けよ

39節の後半に、少し分かりにくいことが記されています。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。――「まだ栄光を受けておられなかった」というのは、死んだ後にお甦りになることを指しております。その時はまだ来ていません。「“霊”がまだ降っていなかった」というのは、主イエスの復活の後に、弟子たちに聖霊が降されることであります。それは十字架から五十日後のペンテコステに起こることでありました。

・ヨハネによる福音書の14章で、イエス様の告別の説教の中で、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(1516)とおしゃいました。この「弁護者」(口語訳で「助け主」)とは、聖霊であります。

・イエス様が復活された後、まだ信じられないで、弟子たちが家の戸に鍵をかけて集まっていた時に、イエス様が入って来られて、十字架の傷跡がある手とわき腹をお見せになりました。それから弟子たちに息を吹きかけて、こう言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ201923 p210)――実際に聖霊による弟子たちの活動が始まるのは、ペンテコステに聖霊が降ってからでありますが、この時にイエス様は、聖霊の働きをお約束なさいました。

・ここでは、罪の赦しの業が、弟子たちに委ねられています。罪を赦す権威を持っているのは、イエス・キリストではないか、と思います。しかし、今日の初めの方で申しましたように、「渇いている人」というのは、罪の赦しを必要としている人のことであります。イエス様は、自ら十字架にお架かりになって、罪の贖いを成就して下さいました。そこから、「生きた水」は流れ出したのであります。そして、私たちの魂を潤し、新しい命に生きる者とされるのでありますが、その「生きた水」は、更に私たちから溢れ出て、他の人にまで及ぶとき、罪の赦しが他の人にまで及んで、その人の渇きを癒し、その人にも新しい命を注ぐことになるのであります。

・イエス様は、「聖霊を受けなさい」と言って、私たちに「生きた命の水」をお与え下さるばかりでなく、その水を多くの人々にも分け与える働きへと召して下さるのであります。
・その光栄を感謝して、祈りましょう。

祈  り
 ・主イエス・キリストの父なる神様!

・「生きた水」の源である主イエス・キリストを、聖霊において、今日も私たちの礼拝に遣わして下さって、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と語りかけて下さいましたことを、感謝いたします。

・どうか、この有難い招きに応えて、イエス・キリストを信じて、命の水を飲む者として下さい。

・どうか更に、まだ渇きの中にある多くの人々に、「生きた水」を分け与える働きに参加する者とならせて下さい。

・今日は、伝道局より岡田理事の問安を受けて、共に御言葉に与ることが出来ましてありがとうございます。私たちの伝道所の営みが、多くの兄弟姉妹の祈りの内に覚えられていることを覚えて感謝いたします。どうか、「生きた水」が川となって、この地に、また近畿中会全体にわたって、溢れ出ますように。

 ・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2008年11月9日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書7:37−39
 説教題:「生きた水」
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