序.苦難の中で

・ペトロの手紙一1:3-12は8月にも学んだ箇所でありますが、その時は、3-5節を中心に、「しぼまない財産」という題でお話しいたしました。今日は、その後の6節以下を中心にお話しようと思いますが、その前に、前回の要点を振り返っておきたいと思います。

・この手紙の本文は3節から始まっておりますが、その冒頭で、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」と言っており、この手紙は感謝と喜びを込めた讃美の言葉で始まっているのであります。前回は、その讃美(感謝と喜び)の根拠を、3-5節の御言葉から学んだのでありました。

・その讃美(感謝と喜び)の根拠の第一は、3節後半にありますように、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」られた、ということであります。つまり、キリスト者になって、新しく生まれ変わったということであります。

・第二は、4節にありますように、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださった」ということで、その「財産」とは、5節にあるように、「終わりの時に現されるように準備されている救い」であります。つまり、キリスト者は、「救い」という財産を受け継ぐ者とされている、ということであります。そして、その「救い」という財産は、神の力により、信仰によって守られているというのです。

・そして6節に繋がるのですが、「それゆえ、あなたがた(キリスト者)は、心から喜んでいるのです」と結論づけているのです。以上が前回聴いたメッセージの要点であります。

・このように、前回聴いた箇所には、キリスト者とされたことに対する感謝と喜びの言葉が語られていたのでありますが、この手紙の宛先である小アジア地域の諸教会の実状は、必ずしも平和で安穏とした状況ではなかったようであります。この手紙が書かれた頃は、まだローマ帝国による教会に対する組織的な迫害が行われる段階には至っていなかったと考えられていますが、1節に書かれている宛先教会の地域というのは、異教の地であり、その中でキリスト者となった者は、1節にありますように、あたかも離散して仮住まいしているユダヤ人のように、神様を知らない周囲の人たちとの間で、日々軋轢があり、いわれなき差別を受けたりしていたらしいのであります。そういう苦難の中にあるキリスト者に向けて、この手紙は書かれているということであります。

・現代の日本において、キリスト者が、周囲の人々から毛嫌いされるとか、いわれなき差別を受けるということは、あまりないと思われますが、私たちの周りが異教社会であるという点では、この手紙の宛先教会の状況と同じであります。私たちの周りの人々もキリスト者の教会生活というものに対しては無理解であります。身近な問題としては、家や地域の宗教行事にクリスチャンとしてどう関わるかということで、軋轢が生じることがあります。また、普段は事を荒立てずに、平和的に共存していても、例えば、いざ結婚の話が出た場合などには、問題が表面化することがあります。

・しかし、現代の日本では、むしろ、多くの人が宗教のことに無頓着あるいは無関心であることの方が問題であるかもしれません。日本人は信仰心に富んでいるなどと言われますが、本当だろうかと思います。確かに、お正月には神社にお参りし、お盆やお彼岸には墓参りを欠かさないかもしれませんが、それは自分の幸せを願うことであったり、亡くなった近親者への礼節のようなものであって、神への信仰とは結びついていないように思われます。苦しい時には神頼みをしますが、普段の生活の中では、信仰はあってもなくてもよいものになってしまっているのであります。

・現代は高度消費社会であると言われます。個人の欲望や必要を充足するためのお店やサービスで成り立っている社会になっているということであります。その中で教会も、宗教的サービスを買う場所になってしまっていて、若い人たちはもはや、神を信仰する共同体に加わろうというようなことは考えない時代になっています。そういう中で日本の教会は、1%のキリスト者を維持することも出来ない状況にあります。ペトロの手紙の宛先教会の状況と現代の教会の状況とはずいぶん違いますが、異教社会の中で伝道が困難な状況にあることは似ているのであります。

・今日の箇所では、異教世界に囲まれた信仰共同体が経験しなければならない困難や苦難の意味と、信仰によって与えられる真の喜びについて語られています。その御言葉から、私たちもまた真の喜びにあずかりたいと願っております。

1.金より尊い信仰へ

・さて、6節の後半には、今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれません、と書かれています。この時、異教社会の中にある小アジアの諸教会は伝道の困難な状況にあって、それがすぐには好転しそうになく、悩みはしばらく続きそうなのです。しかし筆者は、それを困難とか苦難とは言わずに、「試練」と呼んでいるのであります。試練とは何でしょうか。ただの困難や苦難であれば、ない方がよいものであります。しかし、試練とは、神様の御心によってもたらされる苦難であります。それは、ただ苦しいだけではなくて、苦しみに意味がある、ということであります。7節を見ると、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが表われるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです、と言っております。ここでは、金が火によって精錬されることと比較されています。金は高熱の火で精錬されることによって不純物が除かれて、純度の高い金になるのでありますが、その金も、やがて朽ちるほかありません。それに比べて信仰は、苦難の中でこそ鍛えられて、ますます本物の信仰とされて、その尊さを増すのであります。

・信仰にも色々な不純物が混じり込みます。ただ、病の癒しや、商売繁盛を求める信仰があるかもしれません。ただ、信仰の仲間との交わりを楽しむだけの信仰があるかもしれません。ただ、心の平安を求める信仰があるかもしれません。ただ、キリスト教の文化や思想に憧れるだけの信仰があるかもしれません。――そのような信仰も、苦難の火を潜り抜けることを通して、鍛えられて、純度を増すのであります。信仰の純度を増すとは、どういうことでしょうか。生活の中で信仰のために使う時間が大半を占めるようになるとか、教会のために大きな貢献をするようになるとか、神学的にレベルが上がるということではありません。純度の高い信仰とは、色々な苦労があっても、神様の恵みを心から喜べる信仰を持ち続けるということでありましょう。そのような信仰は、苦難の中でこそ鍛えられるということであります。

亡くなった木村姉のお宅の玄関前に置かれた石には、ローマ人への手紙(口語訳)から取った「患難」「忍耐」「練達」「希望」「愛」という五文字が刻まれています。ローマ人への手紙5章で、パウロは、キリストによって信仰に導き入れられた喜びを語ったのに続きまして、「それだけでなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである」(5:3)と述べています。信仰が与えられると、患難でさえ喜びとなるし、患難が更に、忍耐や練達を生み出して、遂には希望に満ちた信仰へと鍛え上げるというのであります。

このような、苦難と信仰の関係については、新約聖書の他の箇所でも述べられています。例えばヤコブの手紙12節以下では、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」(1:2-4)と言っております。このように、信仰と患難(苦難)や試練とは切り離せない関係にあるのであって、キリスト者が受ける苦難には、信仰を鍛えようとなさる神様の御心が働いているのであります。

ペトロの手紙に戻りまして、7節の最後には、金よりも尊い信仰の行き着く先のことが述べられています。それは、「イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらす」ということであります。称賛と光栄と誉れというものは、何よりも神とイエス・キリストに帰すべきものであります。信仰者は、人からの称賛や光栄や誉れを受けることを期待すべきではありません。キリストが自らの栄光を捨てて十字架にお架かりになったように、私たちも自らの栄光を捨てるべきであります。今日は宗教改革記念日として礼拝を守っております。宗教改革の旗印は「神の御栄光のために」ということでありました。キリスト者は全てのことを神の栄光のために行なうのであって、自分の栄光を求めるのではありません。しかし、ここに書かれている称賛と光栄と誉れは、「神のために」とも「キリストのために」とも書かれていません。書かれていなくても、キリストが再臨されるときには、栄光は第一に神とキリストに帰せられることは言うまでもないのですが、同時に、キリスト者もまた、神に栄光を捧げるような信仰へと鍛え上げられて、神の祝福を受けることが出来るのだ、と受け取ることも許されているのではないでしょうか。

2.見たことがないのに愛し

・ところで、今聴いた7節には、「イエス・キリストが現れるとき」のことが述べられていました。それは決定的な再臨の時であります。それは、そこに至るまでの私たちの信仰生活が総決算される時であります。イエス・キリストと私たちの関係がどうであるかが、明らかにされる時であります。

8節にはこう書かれています。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。この手紙の宛先の教会の信者たちは、イエス様が地上の生活をしておられた時のことを知らない人が大多数であったと思われます。だから、「あなたがたは、キリストを見たことがない」と言っているのであります。ところが彼らは「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じている」と言っているのであります。この手紙は使徒ペトロが書いたことになっています。ペトロはもちろん、イエス様と行動を共にして、よく見て知っているのであります。しかし、だからと言って、ペトロはイエス様のことがよく分かっていたわけではありませんし、本当にイエス様を愛していたかと言われると、忸怩(じくじ)たるものがあったのではないかと思われます。

ペトロは弟子たちの中で真っ先に、イエス様のことを「生ける神の子です」と告白することが出来ました。しかし、その後でイエス様が十字架のことを話されると、ペトロは「そんなことがあってはなりません」と言って、イエス様から「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と言って叱られたのであります。ペトロはイエス様のことを知っているつもりでしたが、何も分かっていなかったのであります。更に、ご承知のように、イエス様が捕えられた時に、大祭司の庭で、女中から「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言われて、「そんな人は知らない」と三度も言ってしまったのであります。ペトロはイエス様を愛しているつもりでありました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とまで言っていたのに、裏切ってしまったのであります。ペトロはイエス様の言葉と御業の一部始終を見聞きしていたのに、実はイエス様を愛していなかったことが明らかになったのであります。ペトロが本当にイエス様を愛することが出来たのは、復活のイエス様がもう一度ペトロに出会って下さり、罪を赦していただいて、再び弟子としての召して下さった時でありました。

ところが、今ペトロが手紙を書いている相手の人たちは、イエス様を見たこともないのに、愛しており、信じている、と驚きをもって語るのであります。確かに驚きではありますけれど、ペトロが最終的にイエス様を愛し、信じる者とされたことも、奇跡でありました。ペトロが自分の方から出来たことではなくて、イエス様の赦しがあって初めて出来たことでありました。だから、ペトロは小アジアのキリスト者たちが、イエス様を見ていないのに愛し、信じていることも、理解出来るのでありましょう。彼らもイエス様の大きな愛を受けて、信仰が与えられたのであります。

私たちは普通、相手を見て、その人柄や行いを知らないでは、愛することも信じることも出来ません。私たちはキリストをこの目で見ることも、キリストの声をこの耳で聞くことも出来ません。そんな方を、どうして愛したり信じたり出来るのか、と思います。しかし、直接見たり聞いたりして納得するということは、結局は自分の感覚や判断を信じるということであります。自分が自信の持てる判断材料や証拠がほしいということであります。結局は自分に頼っているということであります。でもそれは、信仰するということからは、程遠いことであります。信仰とは、自分の考えを捨てて、神様がお与えになった約束を信じることであります。もちろん、<鰯(いわし)の頭も信心から>と言われるように、ただ盲目的に信じればよい、というものではありません。神様は聖書を残し、教会を通じて、私たちにその御業と御言葉を伝えて下さっています。しかし、聖書を読み御言葉を聞いたら納得出来て信仰に入れるというのではありません。自分の理性や感覚で納得して受け入れるというのであれば、それは自分を信じているに過ぎません。そうではなくて、御言葉の説教や聖餐を通して、聖霊が働いて、キリストを愛し、信じることへと導かれるのであります。そこには飛躍があり冒険があります。それは自分を捨てて、キリストに自分を委ねるということであります。しかし、自分を捨てることによって、真実が見えて来るのであります。そして、私たちの中にキリストへの愛が芽生え始めるのであります。私たちは以前にヘブライ人への手紙を読みました。その中で、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)と教えられておりました。

ペトロは6節で、小アジアのキリスト者のことを思いつつ、「あなたがたは、心から喜んでいる」と申しました。更に今、彼らが苦難の中にあることを覚えながら、そのような苦難の中でも、8節にあるように、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています」と言って、ペトロ自身、改めて、計り知ることの出来ない神様の恵みを覚えて、言い尽くせない喜びに満たされているのであります。

9節に、それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです、と記しています。なぜ、苦難の中にありながらも喜びに満ちあふれているのかと言えば、「信仰の実りとして魂の救いを受けているからだ」と言っているのであります。「信仰の実り」とは、<信仰の結果>ということで、信仰を与えられたことによる行き着く先は、「魂の救い」だと言うのであります。

・「救い」ということは5節にも出て来ました。その時も学びましたように、聖書で言う「救い」とは、<罪の結果としての死>からの救いのことであります。罪によって神様との関係がほころびている者は、永遠に神様との関係を断たれなければなりません。それが永遠の死であります。しかし、キリストを愛し、信じることが出来た者は、新しい復活の命を与えられます。それが救いであります。「魂の救い」とありますが、聖書で「魂」というのは、<人間存在の全部>という意味であって、決して精神世界の中だけ、心の中だけのことではありません。人間の生活全部が救われる、罪の呪いから解放される、ということであります。

3.キリストの霊の証し

10節から12節までの段落にも、豊かな内容が含まれていて、ここだけでも説教をする人がいるくらいなのですが、今日は、要点だけを述べさせていただくことにします。

・ここでは、9節で述べられていた「救い」は、イエス・キリストが来られたことによって突然もたらされたものではなく、長い歴史を持っている、ということが述べられています。旧約の長い歴史の中で、多くの預言者たちが現れましたが、彼らも一生懸命に救いを探し求めていて、キリストの霊の働きによって、キリストの苦難と栄光についての証しを受けた、と言っております。旧約の時代にキリストの霊が働いたと言うのは、不思議な気がしますが、キリストは永遠の昔から神と共におられたわけですから、預言者たちにも働きかけられたということでしょう。預言者たちがキリストの苦難について語っていると言えば、イザヤ書の中にある「苦難の僕」の歌や、イエス様が十字架の上で語られた「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という詩編22編の言葉などを指しているのかもしれません。そして最終的には、12節にあるように、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たち、つまり、聖霊降臨以後、キリストの十字架と復活の福音を語り伝えた弟子たちの証しによって、異教の地にも救いがもたらされた、ということでありましょう。

・更にそれから、私たちのところに福音が届くまでには、2000年の月日が経過しているわけですが、神様の救いの御計画は、このように、壮大な神様の御計画の中で進められているということであります。そしてそこには、いつもキリストの霊、あるいは聖霊が働いているということであります。神様は今も、聖霊において働いて下さって、私たちを救いに加えようとしていて下さるのであります。

結.天使たちも見て確かめたい

・最後に12節の終わりに、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです、という言葉が付け加えられています。天使は神様の近くにお仕えしていて、神様のことは何でも分かっているのではないかと思いますし、罪のない天使が、なぜ救いのことに関心があるのか、不思議に思うのでありますが、ペトロはこの一言をつけ加えることによって、キリストによってもたらされた救いの恵みが、どれほど貴重なものであり、有難いことであるかを表わそうとしたのでありましょう。天使さへ確かめたいと思っていた救いの福音を、私たちは、このように、主の日ごとに聴いて確かめることが出来るのであります。

・教会の伝道は困難な中にあるように見えます。しかし、神様は壮大な御計画をもって、今も救いの御業を進めておられて、私たちはその救いの歴史の最先端にあることを覚えたいと思うのであります。  ・祈りましょう。

祈  り
 ・救いの御業を今もなし続けて下さっている父なる神様!

・今日も、ペトロの手紙を通して、私たちに福音を聴かせて下さり、信仰を呼び覚まして下さって、様々な困難の中にも、言い尽くせない喜びで満たして下さいますことを感謝いたします。

・どうか、多くのまだキリストと出会っていない魂が、あなたの救いに入れられますように、私たちの小さな証しが用いられますように。どうか、ここで行なわれる主の日ごとの礼拝が、絶えず、心からの喜びと感謝で満たされますように。

 ・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨           2008年11月2日  山本 清牧師 
(宗教改革記念日・神学校日)

 聖  書:ペトロの手紙一 1:3-12(2回目)
 説教題:「金
(きん)より尊い信仰」                  説教リストに戻る