序.主イエスに向き合いつつ

・今日は、「あなたに欠けているもの」という題でお話しすることにしております。この題を目にされて(聞かれて)、皆様はどのような印象あるいは期待を持たれたでしょうか。

・自分の人生がうまくいっていないと感じている人、挫折を経験している人であれば、自分に欠けていたものをきっちり把握しなおして、再出発する機会となるかもしれないと、今回の集会に大きな期待を持って下さったかもしれません。そこまでの大きな期待でなくても、これからの歩みに何らかの参考になる話が聞けるのではないかと思って下さったかもしれません。

・逆に、「あなたに欠けているもの」という題は少々失礼だ、と思われた方がいらっしゃるかもしれません。自分のことを<欠けのない完全な人間>だと思っている人はいないでしょうが、他人から「あなたに欠けている点がある」などと言われるのは、誰でも気持ちのよいものではありません。もし、私が皆様の欠点について指摘するということであれば、聞きたくない人は多いでしょう。しかし、今日お話するのは、私の見解ではありません。先ほど読んでいただきましたマルコによる福音書1021節で、ある男の人に向かって、イエス様が指摘されたことであります。

・それならば、イエス様が指摘されたことは、ここに登場する男の人に当てはまることかもしれないけれども、皆様方自身には関係のないことと言えるのでしょうか。確かに、ここに登場する男の人と皆様方とは、時代も違いますし、社会環境も違います。小見出しは「金持ちの男」となっています。この小見出しは22節に「たくさん財産を持っていたからである」と書かれているところからつけられたものですが、<自分はそんな金持ちではないから、ここで指摘されていることは、当たらない>とお考えになるかもしれません。しかし、財産というのは、お金や土地や建物に限りません。皆様はそれぞれに大切なものをお持ちであります。手放したくないものをお持ちであります。――このことについては、後ほど改めてお話しいたしますが、いずれにしても、このお話しは決して昔話でも、他人事の話しでもありません。聖書に書かれていることというのは、単なる一つの逸話のようなものではありません。聖書の物語は、現代の私たちが、それを聞くことによって、イエス様と向き合わされるのであります。ここに描かれている一人の男は、まさに私たち自身であります。そして今日は、私たちの前に立っていて下さっているイエス様から、「あなたに欠けているものが一つある」と言われているのであります。今日は、それぞれ御自分に欠けているものが何であるのかを、きっちりとつかんで帰っていただきたいと思いますし、そこから新しい人生の歩みを始めていただきたいと願っているのでございます。

1.永遠の命を受け継ぐには
 ・さて、さっそく聖書の物語に入って行きたいと思います。

・冒頭の17節を見ますと、イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と書かれています。

旅に出ようとされているイエス様の前に「走り寄って、ひざまずいた」という態度から、この人の真剣さ、ひたむきな気持ちを読み取ることが出来ます。イエス様はこれからエルサレムに向かわれるところであります。そのエルサレムでは、実は十字架が待っているのであります。もちろん、この人がそのことを知っているわけではありません。しかし、イエス様の前にひざまずきました。それは礼拝する態度です。この人は、自分が問いたいと思っていることに対して、イエス様なら最も善い答を与えてくれるに違いない、という期待を持って、やってきたのであります。

・皆様は今、どういう思いでここに来ておられるでしょうか。先ほども申しましたように、一定の期待を持って来られた方もおられるかもしれませんし、逆に、少々抵抗を覚えながらも、どんな話があるのかと興味を持って来られたかもしれません。あるいは、誘われたので、義理を立てるために来られた方もあるかもしれません。ひょっとすると、ここに描かれている人ほどの熱心さを持ってここに来たのではないかもしれません。しかし、今ここには、この男とイエス様との真剣な対話が始まろうとしています。私たちも真剣に、この対話に耳を傾けたいと思います。

・この人はまず、「善い先生」と呼びかけています。この言葉にも、イエス様への尊敬の念と大きな期待が込められています。そして、一つの問いを投げかけました。それは「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」という問いでありました。「永遠の命」というのは、いつまでも長生きするというような意味の命ではありません。ユダヤでは、「命」というのは、単なる自然的な生命のことではなくて、神様との関係の中に生きることを意味していました。ですから、「永遠の命」を問うということは、<神様との関係において如何に生きるべきか>と問うことであります。単に生き永らえることを求めているのではなくて、如何にして神様の御心にかなった生き方が出来るのかを問うているのであります。

・自分の一回きりの人生を如何に生きるべきか、自分にとっての生き甲斐とは何かということは、誰もが考えることであります。しかし、その問いは、往々にして自分の地上的な幸せを求めることに繋がってしまいます。「生き甲斐」とは、単に健康で豊かな暮しというだけではなくて、生きていることの充実感や喜びを味わえるような生き方ということですし、更に言うなら、世のため人のためになるような生き方ということになるでしょう。しかし、そのような「生き甲斐」にしても、結局は自己満足や、自分の誉れや名誉を求めることになってしまい勝ちであります。しかし、ここで問われている「永遠の命」とは、<神様との間において良好な関係を持った生き方>のことであります。これは単なる「生き甲斐」を問うこと以上の素晴らしい問いであります。

・私たちはこのような「永遠の命」を求めているでしょうか。私たちは自分の幸せが満たされること、自分なりに充実した人生を歩むことが出来ればよい、というところに留まっているのではないでしょうか。そのような私たちに比べて、この人の問いは高邁で立派な問いであります。現代の日本において、国の指導者から若者まで、このような「永遠の命」を求めることがなされていないところに、様々な問題が生じて来るように思えてなりません。

2.何をすればよいでしょうか

・ところが、この人の高邁な問いに対して、イエス様は一見冷たいと思えるような答をしておられるのであります。18節によると、イエス様は、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」と言われました。「善い」という言葉は、聖書の世界では人間に対して用いる言葉ではなくて、神様に対して用いる言葉でありました。イエス様は神の子なのですから、使ってもよいように思えるのですが、「善い先生」と言ったところに問題があったようであります。「先生」というのは、律法の先生に対する言い方であります。そして、「何をすればよいでしょうか」と問うております。つまり、<何事かの善い行いについて先生に教えてもらって、それを自分の力で実行することによって、永遠の命を獲得できる>と思っているのであります。非常に前向きで、殊勝な心がけのようであります。しかし、そこに問題がありました。善い先生から善い行いについて教えてもらって、それを実行すれば善い人間になれて、その結果、神様の御褒美として永遠の命が貰える、と考えているのです。そうだとすれば、人間が自分の力で神様と同等あるいは神様に近い者になれる、ということになります。だから、イエス様は「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言われたのであります。

・これは、私たちも陥りやすい間違いであります。皆様方は、「私はそんな大それたことを考えていません。自分の力で立派な人間になれるとは思っていません」と言われるかもしれません。しかし、誰も、自分の力で自分の人生を切り開いて来たし、切り開いて行こうと思っているのであります。自分のこれまでの人生が特別に立派だとは思わなくても、人から後ろ指を指されないだけのことはして来た、いや人並み以上のことはして来たつもりだ、と秘かに思っているのであります。そしてこれからも、聖書の教えや色々な研鑽を積んで、人にも神様にも喜んで貰える人生を全うしたい、と考えているのではないでしょうか。

・そういう思いは、人生を立派に歩んで来た年老いた人たちだけでなくて、思い通りの歩みができなくて苦闘している若い人々の中にもあるのではないでしょうか。自分はそれほどの能力はないかもしれないが、これまでに間違ったことはやって来なかったし、これからも何とか自分の欠点や逆境を乗り越えて、人に迷惑をかけることなく、人並みのことはやって行けるし、自分なりの世界を切り開いて行こう、と考えているのではないでしょうか。こういう思いで人生を前向きに歩もうとすることは、人間として立派なことであります。その上さらに、教会へ来て、より人格的な向上を目指そうということは大変結構なことであると言えます。

・しかし、イエス様は、この立派な心がけを持った人に対して、危惧を抱いておられるのであります。何かをしなければならない、何かを出来ると考えているところに危うさがあるのであります。

3.掟を知っているはず

・続いてイエス様は19節で、こう言っておられます。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」――これは先ほど朗読していただいた旧約聖書の出エジプト記20章に書かれていた有名な十戒のうちの、後半の6つの掟であります。十戒の前半の4つは神様との関係に関する掟でありますが、ここで挙げられたのは後半の隣人との関係に関する掟で、実社会の中で日々課題となる事柄であります。

この人は真面目なユダヤ人でありますから、当然、これらの掟を知っていますし、忠実に守るべきだと考えて来ましたし、守ってきたつもりです。そこで、20節でこう言っています。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」。――この人にとっては、イエス様が十戒を持ち出されたことは、拍子抜けだったのではないでしょうか。この人は掟について、もっと沢山の細かい規定を知っていましたし、それを守ってきたという自負がありました。<イエス様が何で今更、こんな基礎的なことを持ち出されるのであろうか、そんなことをわざわざイエス様に聞きに来たのではない>、という思いがあったのではないでしょうか。この人でなくても、私たちだって、また、たとえ十戒を知らない人であっても、これくらいのことはちゃんと守っている、否、もう少し立派なこともしている、と言うのではないでしょうか。

・しかし、私たちはこの十戒に込められた神様の御心を本当に守ることが出来ているのでしょうか。確かに表面的な形の上では、この人も私たちも守っています。しかし、イエス様は山上の教えの中などで、これらの掟で神様が求めておられることを明らかになさいました。「殺すな」と言われています。しかし、兄弟を愛さないことは殺すことだと、イエス様はおっしゃいました。「姦淫するな」と言われています。しかし、みだらな思いで他人の妻を見る者は、姦淫を犯していることになるし、「盗むな」「奪い取るな」と言われていることも、他人の持ち物に手を出すことが禁じられているだけではなくて、他人の物を欲しがったり、搾取することが戒められていますし、更には他人の必要を満たすことをさえ求めている戒めなのであります。そうであれば、この人にしても私たちにしても、<これらの掟を守っています>などと胸を張って言うことは、決して出来ません。私たちは、これらの掟の前に、自分の罪を認めざるを得ないのであります。

・けれども、この人は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言います。そう言うことによって、イエス様からもっと高尚なことを聞き出したいと思っているのであります。

・私たちはどうでしょうか。私たちは、<これらの掟をちゃんと守っています>、とは言わないかもしれません。イエス様がおっしゃるような意味では守っていないことを認めるでしょう。しかし、教会に来てイエス様の御業のことを知っている者は、先読みして、<結局、そんな罪人の私たちをイエス様が十字架と復活によって救って下さったと言いたいのでしょ>と考えるのではないでしょうか。<そういうことはみな、以前から知っています。答えは全部わかっています。もっと心に響くような、もっとやり甲斐を感じるような課題を与えてほしいのです>、と言いたいのであります。そういう点では、私たちもこの男と同じであります。神様はすでに掟やイエス様の御業によって、御心をすべてお示しになっています。しかし私たちは、それらを、人生を賭ける問題として真剣に取り組んではいません。そこに永遠の命がかかっている事柄として、問い詰めようとはしていないのであります。

・しかし、イエス様はここで、この男と、掟の深い意味や、罪の問題について議論しようとはされません。

4.あなたに欠けているもの

21節にあるように、イエスは彼を見つめ、慈しんで言われます。イエス様はこの男をお叱りになりません。<掟のことをもっと深く学んで来なさい>と言って、追い返されることもされません。彼をじっと見つめられます。「慈しんで」と訳されている言葉は、<愛する>という言葉であります。理解の浅いこの男を、単に哀れに思ったというようなことではありません。イエス様はこの男に対して、深い愛を抱かれたのであります。そして、その愛から出て来たのが次の言葉であります。

「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」――この言葉はどういう意味でしょうか。この男がこれまでして来たことが、まだ不十分であるということでしょうか。この真面目な男は、おそらくこれまでも、貧しい人々に施しをして来たに違いありません。それがまだ、不十分だということなのでしょうか。あるいは、永遠の命を受け継ぐには、より高度な課題をこなさなければならない、ということでしょうか。そうではありません。ここでポイントは「持っている物を売り払い」という点であります。この人は22節の最後に書かれているように、たくさんの財産を持っていました。その財産を捨てる決断を求めておられるのであります。なぜなら、この人は、自分の財産に縛られているからであります。財産から自由になることこそ、この人にとって救いであり、永遠の命を継ぐことになるからであります。「そうすれば、天に富を積むことになる」という言葉の意味は、地上で善行を積んでおけば、天国では優遇される、というような意味ではありません。この人にとって、地上の富から解放されることが、天国の富である永遠の命を得ることになるということであります。

・「それから、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。これは、財産を捨てることが出来たら、イエス様の弟子にしてやる、という意味ではありません。この人はイエス様のところへ教えを乞いにやって来ました。しかし、イエス様に従う気はなくて、教えてもらったことを自分の力で実行することによって永遠の命を得ようと思っていたのであります。しかし、自分を捨ててイエス様に従うのでなければ、永遠の命を得ることが出来ません。この人にとって、財産を捨てることは自分を捨てることであり、イエス様に従うことであります。これまでは財産に頼っていたのであり、またそれに縛られていたのであります。そこから解放されることは、すべてをイエス様に委ねることであります。そこに本当の豊かさがあり、安心があり、本当の命があり、救いがあります。

・では、私たちに対しては、イエス様は何と言われるでしょうか。この人にとっては財産が邪魔になっていました。ある人にとっては、社会的な地位や名誉であったり、先祖からの宗教であったり、家族との関係であったり、これまでの人生で築いてきたものが邪魔になっているかもしれません。イエス様はそうしたものを捨てて、私に従って来なさい、と言われているのではないでしょうか。そうしたものを捨てることは、これまでの人生が否定されるようで、恐ろしいことであります。しかし、それらに縛られていては、イエス様に従って行くことは出来ませんし、本当の自由はありませんし、永遠の命に生き始めることにならないのであります。

・「あなたに欠けているもの」とは、<あなたが大切にしているものを捨てること>であります。自分が築き上げてきたもの、自分が大切に守り続けているものを捨てて、イエス様の前に身を投げ出すことであります。永遠の命は自分が努力して獲得出来るものではありません。イエス様に従って行くことによって与えられるものであります。

結.人間にできることではないが、神にはできる

22節を見ると、その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った、とあります。結局、この金持ちの男とイエス様との出会いは、悲しい結末を迎えたのであります。イエス様の厳しすぎる要求について行けなかったのであります。――それでは、私たちとイエス様の関係も同じことになるのでしょうか。

23節でイエス様は弟子たちを見回して、こう言われました。「財産のあるものが神の国に入るのは、なんと難しいことか。」更に25節では、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」――この言葉を聞いて、弟子たちは大変驚いて言いました。「それでは、だれが救われるのだろうか。」

・私たちもここまでの経過を聞いて、落胆せざるを得ないのでしょうか。結局、私たちも、この人と同様に、これまで大切にして来たものを捨ててまで、イエス様について行くことは出来ないし、キリスト教でいう「救い」とか「永遠の命」は、自分たちとは別の世界の話しだ、と失望して帰って行くしかないのでしょうか。

27節を見ますと、イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」――先ほどは、イエス様は金持ちの男を、愛を込めて「見つめ」られました。ここでは弟子たちを「見つめて」おられます。そしてイエス様は今、深い愛をもって私たちを見つめておられます。誰もイエス様に従って行く者はないのでしょうか。――それが、これからイエス様がエルサレムで、多くの人々から捨てられて、お架かりになる十字架であります。今もイエス様は私たちのために十字架にお架かりになっておられるのではないでしょうか。

・ところで、この金持ちの男は、二度とイエス様のところへ帰って来ることはなかったのでしょうか。ある人は、イエス様の十字架と復活の後に弟子になったのではないか、と想像します。

・私たちは、自分の大切なものを捨ててイエス様に従って行くことに躊躇を覚えます。しかし、神様はイエス様の十字架の御業を通して、私たちを救おうとしておられます。永遠の命を与えようとしておられます。「人間にできることではないが、神にはできる」とおっしゃっています。イエス様の愛の目が注がれている限り、私たちもまた、イエス様にすべてを委ねて従って行く者となる時が来るのではないでしょうか。私たちに欠けているものを、私たち自身で満たすのではなくて、イエス様御自身が満たして下さるからであります。私たちに出来ないことを、イエス様が代わってして下さるのだ、ということに気づかされたとき、私たちは、出来なかったことが出来るようにされるのであります。

 ・祈りましょう。

祈  り
 ・何でもお出来になる、天の父なる神様!

・自分の力で何物かを得ようとして喘いでいる私たちを憐れんで、主イエスに向き合わせて下さいましたことを、感謝いたします。

・私たちはなお、地上に宝を積むことに捉われていますが、どうか、すべてを主に委ねる信仰をお与え下さい。

・まだ迷いの中にある方々をも、あなたは愛の眼差しをもって捉えていて下さることと信じます。どうか、礼拝生活を続ける中で、聖霊に導かれて、いよいよあなたの愛を覚え、あなたの招きに応じることが出来るようにさせてください。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所伝道礼拝説教<全原稿>       2008年10月26日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書10:17−27
 説教題:「あなたに欠けているもの」
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