序.メシアか否か

・ユダヤの人々は皆、救い主メシアが来るのを待ち望んでいました。先ほどお読みいただいた旧約聖書ミカ書の515節は「メシア預言」と言われるものの一つであります。「メシア」というのは、元々は「油注がれた者」という意味で、王や祭司や預言者の任職に油を注いだことから来ていますが、やがて理想的な救い主の待望と結びつくようになったのであります。この「メシア」をギリシャ語に訳せば「キリスト」であります。

・イエス様が地上に来られて、活動をされたとき、この人が待望のメシア(キリスト)なのかどうか、ということはユダヤ人にとってはとても重大な問題でありました。只の人間をメシア扱いすることは、神様を冒涜することになります。逆に、メシアである方に気づかなかったり、蔑ろにするなら、自らの救いを逃すことになってしまいます。ですから、イエス様をメシアと見るのか、そうでないとするのかは、真剣な事柄であります。

・これは、ユダヤ人に限った問題ではありません。当時の人たちだけでなく、現代の私たちにとっても、また世界の人々にとって、イエス様が本当の救い主メシアであるかどうかは、どうでもよい事柄ではありません。この方に自分の人生を賭けることが出来るのかどうかによって、私たちの人生は大きく変わる筈であります。もし、本当の救い主でもない人に深く関わるならば、私たちの人生は大きな無駄をしてしまうことになります。逆に、イエス様が神からの救い主であるのに、その方と関わりのない人生を歩んだり、その方に反抗したのでは、一回きりの人生を誤ることになってしまいます。イエス様とどう関わるかは、私たちにとっても真剣にならざるを得ない事柄であります。

・ヨハネ福音書では、これまでのところで、イエス様を巡って、色々な人々の反応が記されて来ました。イエス様がガリラヤ地方で宣教活動をしておられた時には、イエス様に期待をかける人々が、イエス様を王にしようとしました。しかし一方、ユダヤ人の指導者たちはイエス様に躓きました。そしてイエス様をのさばらせておくのはいけないと考えるようになりました。イエス様に従って来た弟子たちの中にも、イエス様について行けない者が出てきました。

・そうした中で、仮庵祭の時に、イエス様はエルサレムに上られました。エルサレムの人たちもイエス様に対して色々な反応をいたしました。そのことが先週聴いた710節から24節の所にも書かれていました。イエス様を探し出して殺そうとする人がいます。一方では、イエス様を評価する人がいます。これまでは噂でしか聞いていなかったイエス様が、実際にエルサレムに来て、公然と話されるのを聞いて、人々はその教えに驚いたり、不安になったりする様子が描かれておりました。

・今日の、25節以下の箇所はその続きでありますが、エルサレムの人々が、様々な噂に翻弄されつつ、<この人は本当にメシアであろうか>と戸惑う中で、イエス様ご自身が、御自分の出所と、これから何が起ころうとしているのかについて、かなりはっきりと示しておられる箇所であります。

・私たちはこの箇所を通して、私たち自身が迷いから抜け出て、イエス様をメシアとして正しく告白し、揺るぎない人生を歩む者とされたいと思います。

1. 殺そうとねらわれているのに公然と

25節から27節には、エルサレムの人々の戸惑いの言葉が記されています。まず25節で「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか」と言っております。彼らはユダヤ人の指導者たちが、イエス様を探し出して殺そうとしているのを知っています。彼らはそうした指導者たちの動きに、必ずしも同調しているわけではないようです。しかし、本当のメシアでない者が、メシアのように振舞うことについては、問題であると認識していたでありましょう。しかし、これまでのイエス様の様子を見聞きして、必ずしも死に価するとは思っていないのでありましょう。彼らはまだ、自分の判断がつかずに迷っているのであります。

・彼らが判断できないことの理由の一つは、26節で「あんなに公然と話しているのに」と言っておりますように、イエス様を殺そうとする者たちがいるのがはっきりしている中で、イエス様が公然と話しておられることが解せないからであります。「公然と」と訳されている言葉は、13節の中にもありましたが、「大胆に」とか「自由に」と訳してもよい言葉です。10節によれば、イエス様は「人目を避け、隠れるようにして」エルサレムに上って来られたのでありますが、それは決して、<捕まるのを恐れて>ということではなくて、人々の誤った期待が大きくなることを警戒されてであったことは、前回お話いたしました。前回聴きましたように、イエス様は逃げ隠れするのではなく、エルサレムに来られると神殿の境内で、堂々と教えられ、しかも、イエス様の教えに驚く人たちに、御自分の教えが神からのものであることを明言されたのであります。

・そのようにイエス様が公衆の面前で大胆に御自身を明かしておられるのに、イエス様の命を狙っている筈のユダヤ人の指導者たちから「何も言われない」のを見て、エルサレムの人々は、ひょっとすると最高議会の「議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか」と推測するのであります。ここには、自分では判断できずに、指導者たちがどう考えているのかを探ろうとする大衆の態度を見ることが出来ます。しかし、信仰の問題は、世の中の指導者たちがどう考えているか、世の中の流れがどちらを向いているかによって判断するのではなくて、自分で決断しなければなりません。それはともかく、エルサレムの人々がこんな推測をするほどに、指導者たちがイエス様をすぐさま逮捕できなかったのは、彼らの中にも迷いがあったのかもしれませんし、何よりも神様の御計画の時がまだ来ていなかったということでありましょう。イエス様が誰をも恐れず、公然と話しておられるのは、神様が最も相応しいと決めておられる時までは、決定的なことは起こらないと信じておられたからではないでしょうか。

2.出身地を知っている

・さて、エルサレムの人々は、自分ではなかなか判断できない中で、自分たちが持っている聖書の知識で判断しようといたします。それが27節で彼らが言っていることであります。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」

・第一の判断材料として挙げたのは、イエス様の出身地であります。イエス様が誕生されたのは、私たちがクリスマスの物語で知っておりますように、ユダヤのベツレヘムであります。人口調査のために父ヨセフの故郷であるベツレヘムに行っておられた時に、誕生されたのでありました。しかし、そのことは、イエス様の在世中はあまり知られていなくて、一般には「ナザレのイエス」と呼ばれていたように、ガリラヤのナザレ出身だと見られていたのであります。ところが、旧約聖書の預言によれば、先ほどのミカ書51節にありますように、メシアはベツレヘムから出ると言われていたのであります。だから、イエス様は出身地からすればメシアとは言えないのではないか、とエルサレムの人々は考えたのであります。それは情報不足から来る誤解でありました。

・第二の判断材料として挙げているのは、「メシアが来られるときには、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」ということであります。これは何を根拠にして言ったのか、必ずしも明瞭ではありませんが、先ほどのミカ書51節にあった「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」という不可解な言葉が彼らの頭にあったのか、或いはマラキ書31節に「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる」と書かれているように、メシアは突如表われるのだから、今神殿で教えているイエスのように、よく知られている人がメシアではある筈がないと考えたのではないか、と思われます。

・このように、彼らは一応聖書を根拠にして判断しようとしているようではありますが、彼らが判断の根拠にしようとしているのは、地上の出身地が何処かということと、メシアであればもっと神秘的な現れ方をするはずだ、ということであります。そういう点からすると、イエス様はメシアではなさそうだ、という判断になるのであります。

3.神のもとから来た者

・イエス様は彼らの言葉を聞いておられたのでしょうか。あるいは彼らの心の内を見透かしておられたのでしょうか。28節には、すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた、とあります。これまでも公然と語っておられたのでありますが、ここでは叫ぶような大きな声で言われたのであります。ここにはイエス様の怒りが込められていると言う人もいます。エルサレムの人々の人間的な判断に「否」を言われるのであります。こう言われました。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」28,29節)

 <あなたがたは、わたしの地上の出身地のことを問題にしている。しかし、わたしが来たのは自分の意思からではなく、生物的な営みによって生を受けたのでもなく、わたしをお遣わしになった神様の真実によるのである。あなたがたは神様を直接知ることが出来ない。しかし、わたしはその方を知っている。わたしはその方の真実を、あなたがたに知らせるために遣わされたのである>と言っておられるのであります。イエス様の出身地は「神のもと」であるということであります。

・「そんなことはよく知っている」と皆さんはおっしゃるかもしれません。確かに、イエス様は神の子であり、神のもとから来られた方であるということを、私たちは教理として知っているのであります。しかし、私たちはイエス様を「神のもとから来たお方」として、お迎えしているでしょうか。イエス様は礼拝において、御言葉において私たちと出会って下さるお方であります。しかし、私たちは、神のもとから来られたお方に出会い、御言葉を聴こうとして礼拝にやって来ているのでしょうか。私たちもエルサレムの人々と同じように、半信半疑でイエス様と向かいあいつつ、自分の判断基準で、イエス様を本物のメシアであるかどうか、自分にとって価値のある方かどうかを評価しようとしているのではないでしょうか。

・そのような私たちに対してイエス様は「わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない」とおっしゃっています。私たちは神様のことを直接知ることは出来ません。神様が私たちに対してどのように真実なお方であるかを、直接知ることは許されていません。神様の真実は、神様のもとから来られたイエス様によってしか知ることが出来ません。神様の真実はイエス様に託されたのであります。それは、イエス様の語られる教えによって知られるということもありますが、イエス様の御生涯のすべて、特に十字架と復活の出来事を通して、身をもってお示しになったのであります。イエス様の御言葉と御業に神様の真実のすべてが示されているということであります。その真実に出会う場がこの礼拝であります。

4.イエスの時

・このあと、ヨハネ福音書の記者は不思議なことを書いております。人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。30節)

・イエス様が御自分のことを「神のもとから来た」とおっしゃったことは、ユダヤ人たちを刺戟することでありました。特に、イエス様を殺そうとしていたユダヤ人の指導者たちは、これ以上、この男に言いたい放題に言わせておくことは出来ない、と思ったに違いありません。31節を見ますと、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った、とあります。この群衆の言葉はイエス様を本当に信じているとは言えません。彼らはしるし(奇跡)に期待して、イエス様のことをメシア以上の方のように評価しているだけです。しかし、このような見方をする群衆が増えることは、指導者たちにとっては都合が悪いことであります。そこで32節にはこう書かれています。ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。けれども、実際には、彼らはイエス様を捕らえることが出来なかったのであります。

なぜ、彼らは捕らえることが出来なかったのか。それは、30節によれば、「イエスの時はまだ来ていなかったから」であります。イエス様がメシア(キリスト)として救いの御業をなさる時が来るまでは、誰もイエス様を捕えることは出来ないし、神様の御計画を損なうことは出来ないのであります。神様は、イエス・キリストを通して、御自身の真実を貫かれます。その真実というのは、奇跡をもって人々の期待に応えるようなことではなくて、人々の罪の赦しのために、御子を十字架につけるという真実でありました。そのような神様の真実の御計画は、人々の誤った期待によって曲げられることはありませんし、指導者たちが神様の御計画よりも早くイエス様を捕えようとしたことによっても、変更されなかったのであります。あくまでも、神様の定められた「イエスの時」があったのであります。

5.お遣わしになった方のもとへ帰る

・さらに3334節では、イエス様御自身が、今後のことを語っておられます。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」

・ここには、誰によっても侵されることのない、神様がお定めになった「イエスの時」の進み方が述べられています。まず、「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる」と言われます。ユダヤ人の指導者たちが捕えて殺そうとしても、殺されないし、そうかと言って、あなたたちに捕まえられないようにどこかに隠れるわけではなくて、堂々と「あなたたちと共にいる」と言われるのであります。イエス様は自分の命を守るために逃げ隠れなさるのではなく、私たちの救いの御業を完成されるために、自分を理解しない人や、自分の命を狙っている人たちとも、共にいて下さるのであります。

・「それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰」られます。十字架の苦難をしっかりと受けられた上で、神様のもとへ帰られるのであります。それは、敵対する人たちによって野垂れ死にするということではありません。敗北ではなくて、勝利であります。死を乗り越えて復活なさって、神のもとへと昇天されることが言われています。神様の真実を完全に成就して、天に帰られるのであります。

・更にイエス様は、「わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と言われます。これは厳しいお言葉であります。「あなたたち」というのは、直接的にはイエス様を捕えようとした人たちでしょう。しかし、イエス様に誤った期待をした人たちや、イエス様の人間的な出身地のことだけを考えていて、自分の判断でイエス様を評価しようとしていた人たちも含まれていると考えた方がよいでしょう。私たちも、この「あなたたち」の中に入ってはいないでしょうか。自分たちは救われる筈だと思っていたユダヤ人が、皆、救われるわけではないのであります。イエス様が行かれる所に行くことの出来る人は限られているのであります。

35節以下は、訳が分からなくなったユダヤ人の言葉ですが、「ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシャ人に教える」というのは、自分たちの知らない異邦人の世界へでも逃れて行って、そこで活動するつもりなのか、という意味でしょうが、もちろんイエス様はどこかへ逃げられるわけではなくて、このエルサレムで救いの御業を全うされるのでありますが、復活以後は、皮肉なことに、福音はユダヤ人だけでなく、異邦人にも宣べ伝えられ、救いは全世界に及ぶることになるわけであります。

結.わたしのいる所に

・それはさておき、「あなたたちは来ることができない」とおっしゃいましたが、その中に私たちも含まれているのでしょうか。後に、141920節で、イエス様は弟子たちにこう言っておられます。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」――一体、私たちはどちらの「あなたがた」に含まれることになるのでしょうか。イエス様は全ての人々のために「神から遣わされたお方」であります。そして、敵対する人をも含めて、全ての人々と最後まで共にいて、招いておられます。そのイエス様について行こうとする者を拒まれることはありません。しかし、「イエスの時」は限られているのであります。救いには時があるのであります。「しばらくすると」、去って行かれるのであります。私たちは、その時が来ないうちに、悔い改めて、従って行かなければ、天国に入ることが出来ません。
・祈りましょう。

祈  り
・主イエス・キリストの父なる神様!

・今日も、不信仰の人々の中に立って、御自分の十字架の時に向かって歩み給うイエス・キリストを仰ぐことが出来まして感謝いたします。私たちも、あの不信仰な人々の一員であることを思わざるを得ませんが、どうか、御霊の導きによって、イエス・キリストの救いに加えて下さい。

・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>        2008年10月19日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書7:25−36
 説教題:「神から遣わされた者」
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