「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。・・・・・・自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」     (ヨハネによる福音書7:16,18

 主イエスは、人々の誤った期待がふくらまないために、「人目を避け、隠れるようにして」(10)エルサレムに上られたが、エルサレムでは神殿の境内で公然と教え始められた。それは、十字架による救いの御業の前に、人間の罪が明らかにされなければならなかったからである。
 イエスに反感を抱いていたユダヤ人の指導者たちは、イエスの教えに驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(15)と言った。これは単に知識の豊かさに驚いたというより、その権威に驚きつつ(マタイ17:29ほか参照)も、勝手なことを話していると反発を感じているのである。これに対して主イエスは、標記のように言われた。イエスは自分勝手に話しておられるのではなく、イエスをお遣わしになった神の言葉を語っておられたのだ。ユダヤ人の指導者たちは、自分の正しさを誇り、自分の栄光を求めていたが、主イエスは御自分の身を捨てて、神の栄光を求めておられた。先に、イエスがベトザトの池で安息日に病人を癒したことで、ユダヤ人の指導者たちは文句を言っていたが、彼らは安息日に割礼を行っていた。割礼は体の一部に関わる行為であるが、主イエスは全身を癒されたのであり、安息日にふさわしいことであった(23)。主は、形式的な満足や部分的な癒しを与えるのではなく、全身の癒し、全存在の回復のために、御自分の命と栄光を捨てて、私たちの救いの御業をなさるお方なのである。この方こそ、「真実な人」であり、「不義はない」(18)。「うわべだけ裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」(24)と言われた。主イエスは私たちを裁く代わりに、御自分を裁くという、正しい裁きをなさって、本当の安息日を実現して下さったのである。 

 米子伝道所主日礼拝説教<要旨>       2008年10月12日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書7:10−24
 説教題:「神から出た教え」
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