序.隠れるようにしてエルサレムへ

・ヨハネによる福音書7章の10節以下には、イエス様が仮庵祭にエルサレムに上られた時のことが記されています。

・先週の9節までの箇所では、イエス様の御兄弟たちが、仮庵祭にエルサレムに行くように勧めました。それは、祭で集まって来る人々の前でイエス様が目立つ業をすれば、人々にアッピール出来るのではないか、という意図でありました。

・しかし、このような御兄弟たちのことを、福音書の記者は「イエスを信じていなかったのである」と記しておりました。御兄弟たちの期待するところと、イエス様が考えておられることとは、大きく違っていたからであります。イエス様は「わたしの時はまだ来ていない」とおっしゃって、「わたしはこの祭には上って行かない」と言われたのであります。イエス様がエルサレムに上って決定的なことをなさるのは、「この祭」即ち仮庵祭ではなくて、実は、半年後にやって来る過越祭であったようであります。

・ところが、今日の10節を見ていただきますと、このように書かれています。しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。

御兄弟には<行かない>とおっしゃっていながら、秘かにエルサレムに上られたのであります。これはどういうことでしょうか。このことについては先週もお話しいたしましたが、イエス様の気が変わったということではありません。ウソをついて御兄弟には知られないように行こうとされたということでもありません。御兄弟はイエス様の名声が上がることを期待してエルサレム行きを勧めました。しかし、イエス様は、御兄弟が期待し、勧めたような意味では、エルサレムには行かない、とおっしゃったのであります。ではイエス様はどういう意味(目的)でエルサレムに上って行かれたのでしょうか。

・ここには、「人目を避け、隠れるようにして上って行かれた」とあります。御兄弟が勧めたように、「公に知られようとして」ではありませんでした。では、律法に従って個人的に静かに仮庵祭に参加するために、ということだったのでしょうか。それもあるかもしれません。あるいは、1節に書かれていましたように、ユダヤ人たちが殺そうとねらっていたのですが、イエス様の死の時はまだ来ていないと考えておられて、早く殺されるのを避けるためであったということも考えられることです。しかし、それにしては、このあと堂々と神殿でユダヤ人と対話をしておられます。では、どういう意味で「人目を避け、隠れるようにして」エルサレムに行かれたのでしょうか。それは、兄弟たちや多くの群衆が期待したような意味でではなく、本来の目的のため、即ち本当の救いが実現するためであったのでありましょう。この時点では、まだイエス様がなさる本当の救いの業がどのようなものであるかは、誰も知りませんでした。ですから、イエス様が公然とエルサレムに行かれたならば、誤った期待がふくらんで、本来の救いの御業が行えないことになってしまう恐れがあったのではないでしょうか。まだ「わたしの時」は来ていなかったのであります。その時までは、救いの御業は隠された形で進められなければならなかったのであります。

・しかし、私たちはイエス様の救いの御業は、十字架と復活によって完成したことを知っております。けれども、唐突に十字架と復活があればよい、というものではありません。そこに至る経過も含めて全てが救いの御業であります。その経過の中で最も大事なことは、人間の罪が明らかにされるということであります。罪ある人間がイエス様とぶつかり合う中で、救いの業は行なわれるのであります。今日の箇所でも、そのような人間の罪がイエス様と激しくぶつかっています。

・今日は、この仮庵祭のエルサレムにおける罪ある人間とイエス様のぶつかり合いの記事を通して、私たち自身の罪が明らかにされ、隠されている本当の救いに目を開かれたいと思うのであります。

1.エルサレムにおける人々の反応

・さて、11節には、祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた、と書かれています。「あの男」という言い方には、敵対的な気持ちが表れています。彼らはイエス様が祭りの時にはエルサレムに上って来る筈だと考えて、見つけ出して殺す機会を伺っていたのでありましょう。このような殺意を持つユダヤ人に対してイエス様は19節でこう言っておられます。モーセはあなたたちにも律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。――ここでイエス様に対峙しているユダヤ人というのは、一般のユダヤ人の民衆ではなくて、ユダヤ人の指導者たちと考えられますが、彼らは律法を大切にし、よく守っていると自負している人たちであります。しかし、イエス様は「あなたたちはだれもその律法を守らない」と言われます。形式的には守っているが、その根本精神には従っていない、という意味でしょう。その端的な証拠が、十戒の第六戒の「殺してはならない」という戒めを平気で破ろうとしているではないか、ということであります。彼らは自分たちの正義感から、イエスを亡き者にしなければならないと思っているのですが、<それは本当に神様の御心ですか、あなたは自分に都合の悪い存在を消し去ろうとしているだけではないですか>、と問われているのでありましょう。

・私たちはイエス様を殺すというようなことは、しようと思っても出来ません。それでは、ここでイエス様が言われていることは私たちに関係がないと言えるのでしょうか。そうではありません。私たちの日常生活の中で、イエス様の存在を受け入れているでしょうか。イエス様を無視して暮らしているのではないでしょうか。イエス様に指図されたり、イエス様にお伺いを立てたりすることは、煩わしい、もっと自由にさせてほしいと思っているのではないでしょうか。それは、イエス様を排除しようとすることであり、殺そうとすることと同じであります。イエス様はここで、そのような私たちの罪を明らかになさっているのではないでしょうか。

次に、12節に戻りますと、エルサレムの群衆の様子が記されています。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。(1213)――祭の時ですから、地方からも人々が上って来ておりました。ガリラヤ地方でイエス様の言動を直接見聞きした人もいたでしょう。イエス様に対する評価は色々でありました。好感を持っている人もいましたが、危険人物だと考えている人もいたようであります。しかし、好感を持っている人でも、ユダヤ人の指導者たちを恐れて、本心を公然と明かすことはなかったのであります。好悪色々な評価があったとしても、本気でイエス様に味方しよう、従おうとする人はいなかったのであります。神の御子がエルサレムに来ておられるというのに、イエス様を心から歓迎する人は殆どなく、群衆との間には深い溝があったのであります。あのベツレヘムの馬小屋でお生まれになった時からエルサレムに来られたこの日まで、イエス様が安らかに枕される場所はなかったのであります。

・この基本的な構造は今も変わりません。私たちもこの群衆の一人であります。イエス様に多少の好感を持っているとしても、自分の家に泊まっていただくほどの歓迎をすることには、躊躇があるのではないでしょうか。

20節では、イエス様がユダヤ人指導者たちに「なぜ、わたしを殺そうとするのか」とおっしゃったことに対して、群衆は、「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか」と言っております。イエス様が悪霊に取りつかれていると思われたり、悪霊の頭であると言われたりしたことは、他の福音書にも書かれていますし、このヨハネ福音書でも、この後で何度か出て来ます。当時、精神的な障害がある人は悪霊が取りついていると考えられていました。そういう人をイエス様は癒されましたので、イエス様も悪霊の仲間に違いないと考えたのであります。ここではイエス様がそういう癒しをなさったということは書かれていないのですが、イエス様の奇跡の業を伝え聞いた人たちの間で、そういう噂が広がっていたのかもしれません。そういう中で、イエス様が「なぜ、わたしを殺そうとするのか」と言われたのを聞いて、イエス様が自分たちのことを見抜かれているのを知って、驚くとともに、何らかの反撃をしなければならないという気持ちから、こんな言葉が出て来たのでありましょう。

・私たちは、やさしいイエス様が好きであります。暖かい言葉をかけて下さったり、困った時に助けて下さったり、病気を癒して下さるイエス様は好きであります。しかし、私たちの不正を見抜かれたり、罪を暴き出されるイエス様が嫌いであります。私たちの善い部分を褒められるのはうれしいのですが、醜い部分はそっとしておいてほしいのであります。しかし、私たちが救われるためには、その醜い部分、罪が巣食っている部分に、イエス様の愛が注がれなければなりません。イエス様の血がその部分に注がれてこそ、罪は清められるのであります。イエス様は私たちの真実を見ておられます。イエス様のお言葉は私たちには厳しすぎて、恐ろしくなって、逃げ出したくなる時があります。しかし、そんなイエス様を避けていたのでは、救いは受けられません。

14節に戻ります。祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言いました。(14,15節)この時イエス様がどんなことを教えられたのかは、書かれていないので分かりませんが、ユダヤ人たちは「どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言っております。「聖書」と訳されている語は、「文字」「律法」「書物」などとも訳される語ですが、単に「文字」を知っておられたり、一般の「書物」のことをよく知っておられることで驚く筈はないので、やはり「律法」のこと、即ち「聖書」のことを話されたのに驚いたのでありましょう。「学問をしたわけではないのに」と言っております。イエス様は律法の教師になるための教育は受けておられませんでした。でも、律法のことは人一倍知っておられたようであります。イエス様が十二歳の少年時代に、神殿で律法の教師たちの真ん中で問答しておられて、その賢い受け答えに皆が驚いたということがありました(ルカ2:46,47)。しかし、この場合はその時の驚きとは性質の違うものでありました。単に聖書の知識が豊富であることに驚いたのではありません。他の福音書に、イエス様が会堂で聖書のお話をされた時に、或いは山上の説教をされた時に、人々はイエス様の権威ある教えに驚いた、ということが記されています(マタイ7:29、マルコ1:22、ルカ4:31)。ここでもユダヤ人たちは、イエス様が只者ではないと感じたのでありましょう。だからと言って彼らがイエス様に従おうとするのではありません。彼らは普通の律法解釈以上のことを話されるイエス様に驚きつつも、反発しているのでありましょう。そんな解釈は自分勝手な不遜な解釈ではないか、そんな読み方は許されない、と思っているのであります。彼らは、イエス様の教えを聴く耳を持たないのであります。

2.わたしの教え――お遣わしになった方の栄光を求める

・イエス様は、そのようなユダヤ人の心の内を見通しておられるので、16節で、「わたしの教えは自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」と言われます。<私が教えていることは、私の勝手な考えなんかではなくて、私をこの世に遣わされた神様の教えを語っているのだ>、ということであります。これは638節で「わたしが天から降って来たのは、自分の意思を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」とおっしゃったのと同じことであります。

・続いて17節では、「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」と言われます。「御心を行おうとする者」とは、どんな人のことでしょうか。――6章28節で群衆が「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と、イエス様に尋ねたことを思い出して下さい。イエス様はその時、こう答えておられます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(6:29)つまり、イエス様を信じることが、神の業だと答えられたのです。ここで言う「御心を行おうとする者」も同じであります。イエス様を信じる者が、「御心を行おうとする者」であります。だから、イエス様を信じる者は、イエス様の教えが神から出たもの(=神の言葉)であることが分かる、ということであります。逆に言うと、イエス様を信じていなければ、聴く耳を持てない(=神の言葉を聴けない)ということであります。これはとても大きな真理であります。私たちが聖書の言葉を聴く場合でも、イエス様に対する信頼を持って聴かなければ(イエス様に従おうとする思いをもって聴かなければ)、神の言葉として受け止めることが出来ないし、従って私たちの魂に響いて来ない、ということであります。

・イエス様は更に18節で、こう言われます。「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」――ここで「自分勝手に話す者」とは、おそらくユダヤ人指導者たちのことであります。彼らは聖書に基づいて語っているようでいて、実は「自分の栄光を求め」ている、つまり自分の正しさを誇っているのであります。私たちもまた、自分の栄光を求める生き方をしております。私が人からよく思われること、私が人から褒められることを求めて生きております。しかし、イエス様はそうではありません。イエス様はただ、「自分をお遣わしになった方(=神様)の栄光を求められました。そして、御自分の栄光を求めることなく、十字架の道、人々から棄てられる道を歩まれました。この主イエスこそ「真実な人」であり、そこには「不義がない」のであります。

3.「一つの業」をめぐって

・次に飛んで、21節のイエス様の言葉に行きます。これはイエス様が19節で「わたしを殺そうとするのか」と言われたことに驚いた群衆が、20節で「だれがあなたを殺そうというのか」と言ったことに答えられたものですが、これは、群衆に語られたというよりも、その内容からすれば、ユダヤ人指導者たちに向けての言葉として受け取った方がよいと思われます。こう言われています。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。」2123節)――ここで「一つの業を行った」と言っておられる のは、5章にあった、ベトザタの池の回廊で、三十八年間も病気で横たわっていた人を癒された業のことであります。それが安息日に行われたということで、ユダヤ人たちは<安息日に許されていないことをした>と文句を言ったのでありました。ここでイエス様が言っておられることは、それに対する反撃であります。

・ユダヤでは生まれてくる男の子には、律法に従って八日目に割礼を施すわけですが、八日目が安息日に当たる場合には、安息日の律法を破ってでも割礼を施すという規定は守ったのであります。割礼というのは、体の一部分にかかわる行為でありますが、それをするために安息日の規定は破られるのであります。それに比べると、ベテザタの池でイエス様がなさったことは、全身の癒しであります。そのために安息日の規定が守られなくても、腹を立てるのはおかしい、ということをおっしゃったのであります。

これは、単なる安息日の解釈に関する反論をしておられるのではありません。ユダヤ人の指導者たちは、律法の字面に拘って、自分たちの栄光を求めていました。それに対してイエス様は、部分的な癒しや形式的な満足を与えるのではなくて、全身の癒しをなさる、私たちの全存在を生かすために働いて下さるのであります。それは、御自分の命と栄光を棄てて、ただ私たちの救いのためになさる業であり、神様の栄光を現す業であります。

結.安息日に全身をいやす

24節でイエス様は「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」と言われます。ユダヤ人たちは安息日の規定の外面的なことが守られているかどうかで人を裁いていました。しかし、安息日に求められているのは、安息日の規定が求めている本来の目的を実現することこそ大切であります。安息日の本来の目的とは、神様を礼拝し、神に感謝と讃美を献げることであります。当時のユダヤ人も私たちも、それが出来ていません。むしろ、イエス様の存在を無視し、神様の御栄光を差し置いて、自分の栄光を求めることに忙しいのであります。そんな私たちのために、イエス様は御自分の身を捨てて、私たちの全身の癒し、全存在の救いを実現して下さったのであります。それがイエス様のなさる「正しい裁き」であります。イエス様は私たちを裁く代わりに、御自分を裁かれたのであります。それによって、本当の安息日を実現して下さったのであります。私たちが出来ることは、このイエス様の恵みを受け入れて、全身が癒されて、神様を礼拝することであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・恵み深い父なる神様!

・私たちはあなたが私たちのためにお遣わし下さったイエス様を敬うどころか、十字架に追いやろうとする罪人であることを覚え、赦しを願う者であります。

・私たちはただ、イエス・キリストの犠牲によってのみ癒され、生かされる者でございます。どうか、主イエスにすべてを委ねるものとならせて下さい。そしてどうか、身も心も癒されて、安息日ごとにあなたを礼拝し、感謝と讃美を献げる者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2008年10月12日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書7:10−24
 説教題:「神から出た教え」
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