「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」               (ヨハネによる福音書7:6,7)

 イエスはガリラヤ地方で伝道活動をしておられたが、仮庵祭が近づいたとき、イエスの兄弟たちが、「ユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい」と勧めた。兄弟たちはイエスがガリラヤの田舎では人々から理解されなかったのを見ていて、祭で全国から人が集まっているユダヤのエルサレムで、目覚しい業を見せつければ、アッピールできるのではないかと考えて、イエスを鼓舞したのである。
 だが、福音書記者は、「兄弟たちも、イエスを信じていなかった」と記し、イエスは標記のように言われた。兄弟たちは、兄であるイエスが偉くなることを期待したのだが、それは荒れ野でサタンが、力を誇示することによって人々を引きつけることへと誘惑したのと同様である。伝道とは、力を見せつけることではなく、相手の救いのために、神がなさろうとすることに仕えることである。「わたしの時」とは、兄弟たちが自分たちの思いから勧めた時ではないし、イエス自身が自分の力を発揮するのに最適と考えた時でもなく、神が救いの時として定められた時のことである。「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。・・・」とは、兄弟たちの考えていることが、この世の人たちの思いと同様であって、自分たちの利益のためにイエスを思い通りに動かそうとする悪い業であり、イエスを憎み、殺すことになるのだと、その罪を暴いておられるのである。
 私たちも、イエス様に対して、兄弟たちと同様に、自分勝手な期待を抱いているのではないか。「わたしの時」とは、結局、仮庵祭の時ではなく、羊の犠牲によって救われたことを記念する過越祭に、イエスがすべての人の犠牲として、十字架にお架かりになる時のことなのである。この御業によって、私たちには救いの時が「いつも備えられている」のである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要旨>       2008年10月5日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書7:1−9
 説教題:「わたしの時」
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